ビタースイート・カップリング

杠葉結夜

ビタースイート・カップリング

【でこぼこコンビ】【軽はずみな嘘】【シガレットキス】【季節外れの】



 二度と酒なんか飲むもんか。こんなに苦しい思いをするくらいなら。



 大学二年の二月十四日。

 誕生日がお互い三月の俺とヒナは、今日は付き合い始めてから三度目、未成年として過ごす最後のバレンタインを迎える――はずだった。



 耳元でランダム再生された、季節外れにもほどがあるサマーソング。

 普段ならテンションの上がるバンドサウンドも、今の俺はただただ気分が沈むだけだ。

 気を紛らわせようと耳に入れたばかりのイヤホンを、俺は咄嗟に引き抜いていた。スマホに表示されていた停止ボタンを押し、誰もいない会室の机に突っ伏す。

「はあ、なんでこんなことに……」

 本来なら今の時間はこんな大学のぼろい一室ではなくて、あいつがずっと行きたがっていた駅前のショコラフェスタ会場にいるはずだった。なのにどうして。

「いや、理由は分かりきってるけどさ……」

 はああ、と再び盛大な溜息がこぼれる。

 その直後、ガチャリという音と同時に、今一番聞きたくない声が俺の右耳から左耳へと突き抜けた。

「お疲れさまでーす……って、桃山ももやま。え、まさかお前、まだヒナのこと捕まえられてないの?」

「……うっせ。誰のせいだと思ってるんだ」

 ゆっくりと顔を上げると、予想通りの人物がちょうど後ろ手に扉を閉めたところだった。

「あたしとお前と先輩、――主にお前のせい、だと思うけど」

 ガタン、と大きく音を鳴らして声の主、聖川ひじりかわは俺の向かいに座る。窓から真っ直ぐ射し込む夕陽が彼女の右頬を照らした。

「ヒナから聞いたけどほんとは今日デートの予定だったんでしょ。集中講義も今日だけ休みだし。その調子じゃ音信不通でデートもカット、ってとこかな」

 呆れたような笑みで頬杖をついた聖川の言葉は何一つ間違っていなかった。起き上がった俺は肯定の意味で首を縦に振る。

「お前は連絡取れたのか?」

「取れた、というかあたしとヒナ、学科一緒だから。昨日講義の後捕まえて、ちゃんと話したら許してもらえたよ」

「……そうか」

 そう答えたのち、俺は今まで以上の深い深い溜息をこぼしていた。


 三日前にあったサークルの飲み会がすべての原因だった。

 俺とヒナはサークルの同期内で唯一の未成年だったのだが、人数の多すぎる上級生にはその情報がうまく伝わっておらず—―

 割と背も高く、体格のいい部類にあたる俺は、完璧に俺を二十歳と思い込んでいる酔いの回った先輩に無理やり飲まされ――


「しかしね……記憶がない、っていうのが一番厄介だよね。悪酔いした桃山の冗談に乗ったあたしもほんと悪かったけどさ」

「……」

 どうやら俺は根本的に酒がダメな体質らしく、飲んだ後の記憶が一切ない。そしてその間にどうやら隣に座っていた聖川にたらし文句を口にしたり甘えたり――まあ、軽率に何でもかんでも口にしてしまっていた、らしい。そしてどうやら酔った聖川もこれに普通に応えてしまっていたらしい――というのはすべて翌朝、先輩の家で酔いがさめた後に聞いた話だが。

 そんな俺たちの一部始終を見ていた、全く酒を注がれずにすんでいた俺の彼女は……。

「それにしてもヒナもヒナだよね。桃山の頬を平手打ちからの『ひじりちゃん、智士さとしのことお願いします』って叫んで飲み代置いて逃走、って。しかもそこからお前とは音信不通」

 それだけ嫌だったんだろうけど、と苦笑する聖川の言葉は、今の俺にとっては何の慰めにもならない。気づいた時には翌朝になっていて、しかも何故か彼女と連絡を取れなくなっていた、なんて俺からしたら本当に散々な話だ。

「拗ねるにしてもやりすぎなんだよあいつは……謝罪文にも既読はついてるし」

 スマホのボタンを押し、ロック画面を確認する。案の定、新着通知はない。

「あ、ついてるんだ」

 意外、といった口調をした聖川に、ただし、と俺は言葉を続けた。

「正直に言うとついてる時のがダメージがでかい。わざと無視されてるってことだから」

「ああ、確かに。それは嫌かも」

 そこで不意に沈黙が走る。ふう、と小さく息を吐いて聖川が立ち上がった。そのまま自然な足取りで近くの棚に歩み寄り、並んでいた小さな箱のひとつを手に取る。封を開け、白っぽく細長い何かを一本、箱から取り出す。そして何気ない流れで彼女はそれをくわえた。

 あれは、タバコか?

「桃山もいる? 気分転換に」

 振り返った彼女は妙にいい笑顔を浮かべていて、俺は思わず眉をひそめていた。

「だから俺まだ未成年だっつーの。っていうか構内でタバコはやばいだろ」

「何言ってんの。これシガレットだよ? お菓子のやつ」

 カシャ、と彼女はタバコにしては小さすぎる箱を振ってみせた。

「……あー、あれか」

 何故か中学の頃によく買ってたな、などとぼんやりと思いだす。少しだけ口の中がスースーするあの感じが妙に癖になって、定期的に近所の駄菓子屋に寄り道したのは今となっては懐かしい話だ。

「で、いるの? ちなみにココアとブルーベリーとオレンジの選択肢があるけど。先輩がそこにカートン買いしたやつ置いてったから」

「まじかよ」

 何でそんなに買ってきたんだよ先輩、という突っ込みを心の中に留めて、俺は聖川の手元に目を向けた。

「……お前が持ってんのは?」

「ブルーベリー」

「じゃあ、それ一本」

「はーい」

 箱を手に再び席に着いた聖川は、軽い手つきで俺にシガレットを一本差し出した。

「ん」

「サンキュ」

 受け取ったシガレットをそのまま口にする気になれず、俺はタバコと同じような感じで指に挟んだ。聖川も同じようにシガレットを構える。

「そういえばさ」

 何気ない様子で口を開いた彼女に、何故か俺は嫌な予感がした。背中を冷たいものが伝うような感覚。

「シガレットキス、ってあるらしいよね。あれは本物のタバコでやるものみたいだけど」

 シガレットを持つ手に自然と力が入った。

「……そういうセリフを今言わないでくれ。本当精神にくるから」

 平静を装って口にしながら、視線は聖川からどんどん外れていく。

「……ふうん?」

「な……何だよ、その反応」

 どこか含みのあるその口調に頬が引きつる。

 その瞬間、俺の予感を裏切らない言葉が彼女の口から飛び出した。

「いや、今ここで実践してみて、またその瞬間にヒナが入ってきたりしたらどうなるのかなーって思ってさ」

「ばっ……!!」

 ガタン、と思わず両手を机にたたきつけて立ち上がる。

 パキ、と音を立ててシガレットが真っ二つに折れる――のと、同時に。


 バンッ!


 勢いよく開いた扉に嫌な予感がして、俺は首を右に回した。

 そこに立つのは見慣れた小柄な姿。肩下のストレートに愛用の臙脂のカチューシャ、愛用している淡い茶色のダッフルコート。小さなアイボリーの鞄。

 紛れもない、ずっと話したかった俺の彼女だった。

「ひ、ヒナ……!?」

 彼女の目元にはうっすらと涙が滲んでいる。

 今度こそどう弁解すればいいんだ、と頭をフル回転させた。

 ――いや、させ始めた瞬間、だった。

「……っ、ずるいよ、ひじりちゃん」

 ぽつりと零されたヒナの声に、俺はすべての動きを止めた。


「私がいるってわかった上で、そういうこと言わないでよ……!」


「……え?」

 ヒナの言葉に俺の思考は完全に固まった。

 ――『私がいるとわかった上で』?

「っくく、あはは、はは!」

 ぽかんと固まった俺の向かいで、もう我慢できないというように聖川が大声で笑い始めた。慌てたように扉を閉めたヒナが、「ひじりちゃん!」と泣き笑いのような声で呼びかけながら駆け寄ってその腕を掴む。

「もう……笑わないでよ、ほんと嫌だったんだから……!」

「っいや、ごめんねヒナ、面白いのはヒナじゃなくてこの桃山のマヌケ面……っははは!! やば、笑いすぎて涙出てきた」 

 ――さりげなく失礼なことを言われたような。

「おい、聖川?」

 ワントーン低い声で呼びかけると、「ごめんごめん」と聖川は手のひらを顔の前で合わせて見せた。

「桃山の本音を聞きたくってさ、つい色々遊んじゃった」

 相変わらず笑いながら目元を拭う聖川は、シガレットを差し出してきた時と同じ、やけにいい笑顔を浮かべていた。


「ずっと聞いてたんだよ、ヒナはそこで。自分からは謝りにくいって言ってさ」


「……っ!?」

 ばっとヒナに視線を向けると、どこか気まずそうに視線をそらされる。そんな俺たちを見て、聖川はわざとらしく溜息をついた。

「あーあ、本当に手間のかかるカップルだこと。……ということであたしの役目はここまで。誰もこないよう見張っとくから、ちゃんとお互い謝りなよ」

「え、ひ、ひじりちゃんっ」

「じゃあねー。ここから先はいい加減自力で仲直りしなさい」

 ヒナの呼ぶ声も虚しくひらひらと手を振って会室を出ていく聖川を、俺はただ茫然と見送った。

 パタンと扉が閉まり、俺たちの間には沈黙が走る。

 正直、この静寂はかなり気まずい。

「……ええと、ヒナ?」

 そっと呼びかけると、彼女は肩を震わせてうつむいた。ただ、俺を拒否するような様子は見受けられない。

 ――ならば。

 躊躇いがちに一歩ずつ、俺は距離を詰める。机を回り、目の前に立っても、彼女はびくともしなかった。

 俺の肩までしか背がない小さな彼女。うつむいた顔がどんな表情を見せているのか、後ろに隠された鞄を持つ手にどれだけの力が込められているのかはわからない。

 けれど、今の俺にできるのは、その力を解いてあげることだけだから。


「ごめん、ヒナ」

 そっとかがんで顔を近づけ、その耳元で囁いた。


「……っ!」

 驚いたようにばっと顔を上げたヒナの視線が、姿勢を戻した俺と真っ直ぐにぶつかった。その白い頬が徐々に紅に染まっていく。

「嫌だったか?」

 高校時代から幾度となくやってきた、ヒナが恥ずかしがるのをわかった上での謝り方。そして、彼女が一番素直になる謝り方。

 案の定今日も、彼女は視線を外してわずかにうろたえた後、ふるふると首を振ってみせた。

「ええと、その、私こそ……ごめん。あんな態度とって」

「ほんとにな。今日のデートがなくなったの、結構ショックだったんだからな」

 つい即答すると、でも、とヒナはわざとらしく唇を尖らせた。

「今回は智士も悪い。酔ってて覚えてないにしてもあれは見ててつらかったんだからね」

 まあそうだろうな、と俺も心の中でつぶやいた。

「だな。まさか俺もこんなに酒に弱いとは思わなかった。今回は俺も本当に悪かった。少なくとももうサークルでは飲まないからさ」

 こくりと頷いた彼女の頭をそっと撫でる。つやのある髪がさらさらと指をすり抜けていく。抵抗はされなかった。

 ――もう、大丈夫だ。

「よし。折角だし今からでもショコラフェスタ行くか? 今から向かえば一個くらいは買えるだろ」

 いつもの調子で笑いかけながら、俺はそっと手を戻した。

「あ、うん、そうだね」

 そう口にしながらヒナは名残惜しそうに髪に触れる。そして数拍の間をあけて。

「……あの、智士」

 名前とともに、くい、と服の裾をつままれた。

「ん?」

 久しぶりに耳にしたような錯覚に陥る優しい声に、俺はそっとヒナの顔を覗き込む。

 口角を微かに上げた彼女は、俺の目を真っすぐに見上げて――ふっと顔をほころばせた。


「……遅くなっちゃったけど、ハッピーバレンタイン。これからもよろしくね」


 三日ぶりに見た、花のような柔らかな笑み。まだ微かに赤らんだままのその表情は、俺の心を満たすには十分なものだった。

「ああ。……ありがとう、ヒナ」

 ――ハッピーバレンタイン。ヒナのことが大好きだよ。

 口にするには照れくさすぎる言葉を心の奥に隠し、俺は目の前の彼女をそっと抱きしめた。


 後ろ手の鞄からわずかに覗いた、淡いピンクの包装紙。

 視界の端で温かな夕焼け色に照らされたそれが俺の手元に届くまで、あと――

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