一の巻

「陛下、敵はほぼ全滅、残る者も皆降伏致しました。陛下の完勝でございます」

己の勝利を祝福する右腕を、男は冷めた目で見つめていた。

「ご苦労。」

一言で応えると家臣達の待つ一室へ向かう。扉を潜れば、一斉に賛美の声に迎えられる。部下に労いの言葉をかけた男の目の前を、過去の現像が駆け抜けた。かつて、同じ様に戦の勝利を讃えられたことがふと頭をよぎったのである。

同じ志を持つ仲間と共に戦場を駆けた日々。兄の頼朝に認めて欲しいがために武術の腕を磨いたこと。それらに混じって遥かな昔に愛した女の事も思い出された。

自分の事を御曹司と呼んで慕ってくれた白拍子は、名を静といった。実の兄に追われる男に限界までつきそってくれた彼女とは吉野の山で別れたきりで、その後の消息はまったく分からない。もしかすると他に男ができているかもしれない。ただ、独りよがりかもしれないが今も自分も自分を想ってくれていると信じたい。

言葉も通じぬ異国より海を渡り砂漠を越えやって来たのはもう何年も前の事である。思えば長い道のりだった。

今日は自分がこの国の首領になっためでたい日。今までずっと温めてきた考えを実行に移す時が来たと思い、男はおもむろに口を開いた。

「我はこれより、モンゴル帝国の王として名を変えたいと思う。異議のあるものは申し出よ」

誰も何も言わない。それを肯定の意ととって彼は続けた。

「我が名は、蒼き狼の末裔、チンギス・ハーンである」

周りからわっと歓声が上がる。

チンギス・ハーン。漢字に直せば成吉思汗。汗は水と干に分けて白拍子の衣装である水干、すなわち白拍子本人を指す。


吉野の山にて静を想う。


誰よりも愛した女に因んで付けた名に、男、否チンギス・ハーンはそっと目を閉じて満足げに微笑んだ。

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昔語り 篠なつ @sakurahime1817

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