第13話 夢のあと
「千夏ちゃんの具合、どう?」
「あれ、雛子、なんだ、おまえも見舞いに来たのか?」
雛子の手には洋菓子だろうか、赤いリボンで飾られた小ちいさな包みがある。
「ゼリーなの。風邪ひいているなら、こういうのがいいかな、と思って。お継母さんが」
雛子の目には翳りがはしり、俺はあえてなにも言わなかった。
門をとおると、あいかわらず紫陽花がきれいに咲いている。
「さっき、あいつにこれから見舞いに行くって電話したら、けっこう元気そうだったから、もう大丈夫みたいだ」
俺たちはならんで敷石を踏んだ。
「紫陽花、きれいだね」
「知ってるか? 中国では
「よく知ってるね」
「菅野先生の本に書いてあったんだ」
菅野の祖父さんは、自分の書いた小説を本にしたのだが――そういうのは印刷会社の社長をやっていただけあって自由に出来るんだろう――、そうやって作った本をほとんど誰にも見せず、ただうちの祖父ちゃんに数冊渡したぐらいだ。
それももうかなりボロい。文章も古いし、読みづらいけれど、俺はがんばって読んでみた。
内容は戦時中、中国に滞在した若い日本人男性が、上海の下町でうつくしい歌妓と出会い、恋をするという、ちょっとありきたりな話だ。
歌妓の名は胡蝶。
主人公の男は真剣になり、結婚を決意し、かなり無理をして胡蝶を水揚げして家に住まわせる。けれど生真面目な主人公は、正式な結婚をするまでは、とけっして胡蝶に手をださない。
そのうちに戦争がひどくなり、日本に引き揚げようかと悩むが、故郷の両親は異国人との結婚を断じてゆるさないという。まよう男に、友人が心配してある事実を告げる。
彼にとって衝撃だった。
それは、おまえが愛して妻にしようとしている胡蝶は、実は男で、中国には美少年が女のふりをして芸や身体を売る相公と呼ばれる者がいるという驚くべきものだった。
男は驚愕のあまり胡蝶につめより、真相を問いただす。胡蝶はたしかに男だった。衣をはぎとり、真実を知った男は、怒りのあまり胡蝶の首を帯ひもでしめて殺してしまう。
これは読んでてびっくりした。
その後、男は友人の助けによって胡蝶の遺体を庭木の枝に吊るし、自殺に見せかけて、戦時の混乱もあってうまく罪を逃れるのだが、やはり罪悪感と、たとえ男であっても胡蝶への愛はうすれず、愛する人を自分の手で殺してしまったという悔恨を感じつづけ、彼はその後も胡蝶を偲びつづけ自分のしたことを後悔しつづけ苦しむという、かなり破天荒で暗い内容だった。
どこまでが真実なのかは、むろん、俺にも祖父ちゃんにもわからないが、祖父ちゃんは、元気なとき、自分がもし死んだらこの本はすべて処分するようにと言っていた。俺は勿論そのことを両親にも言わなかったが、雛子にだけはうちあけた。
「どうだった? おまえ、何か感じるか?」
雛子は眉をしかめて唇をへの字にまげる。
目は大きな菅野家や、庭に向けられている。
「わからないけれど……、でも、もう大丈夫みたい。なんだか、空気が違っているから」
「そっか。……胡蝶の幽霊も、菅野先生もちゃんと成仏したのかもな」
俺はホッとした。
俺もなんとなく感じる。雨あがりの茜色の夕焼け空に……俺の錯覚かもしれないが、幸せそうに笑っている胡蝶が見えた。幻影はどんどん遠ざかっていく。そばには男がいるようだけれど、もしかしたら若いころの菅野先生だろうか。
俺は心のなかでふたつの幻影に手をふった。
胡蝶、バイバイ。菅野先生、バイバイ。元気でな。あ、幽霊に元気でな、は変か。
終わり
紫陽花葬送 平坂 静音 @kaorikaori1149
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