平成☆シックスティナイン

夕凪もぐら

第1話

1、



 僕の目が色を失ったのは、いつのことであろうか。生憎記憶が覚束ないのではっきりと答えることができない。


 好きな物を順に挙げれば、僕はお酒の次に映画が好きで、音楽が大嫌いである。その二番目に好きな映画はいつだってモノクロで、レンタルショップで新作を借りても、ローマの休日を借りても、僕が今呼吸している世界同様、全てが白と黒と灰色に映るのだ。





 仕事終わりの金曜日、同僚から飲みにも誘われない僕は、大好きな映画が見たいと、近所のレンタルビデオショップに立ち寄る。奇跡的にかつ、久しぶりに、閉店時間に滑り込みで間に合った。


 四桁の延滞料金を支払っても、やっぱり懲りない僕ってやつは、洋画コーナー、邦画コーナー、アニメコーナーを分け隔てなく遊泳する。きっと選んでいる間が一番楽しい。金曜の夜は自分ちでDVDを観るに限る。


 先にも述べた通り、僕は映画が好きで、彼女がいるときなんかは、映画館へよく足を運ぶが、いかんせん三ヶ月も前に彼女は出て行ってしまったばかりである。最近は専ら自宅で古い映画を観漁っている。


 小さな頃、映画監督にでもなりたかったような、そうでも無かったような、記憶がまったくもって曖昧ではあるが、父の影響からか、幼少時より映画ばかりを観ていた気がする。


 気でも狂ったように様々な年代や国の映画を借りて、ご満悦の僕は、こじんまりとしたワンルームの自室に戻る。


 段差のない玄関で靴を脱ぎ、一番にシャワーを浴びる。部屋着に着替え、元カノが残していった熱帯魚の水槽に餌を適当に入れ、勢いよく冷蔵庫からキンッキンに冷えた缶ビールを取り出す。


 そしてワクワクしながらテレビを点け、ケースから取り出したDVDをデッキに入れ無事に再生されたことを確認し、誰ともなくたった独りで乾杯をする。


 僕は一気に缶ビールの三分の一を呑み込み、「くー」と一日溜めこんだストレスを吐き出した。


 日がな一日悶々としていた。今日も殴れなかった嫌味な上司だとか、またも同僚と付き合う元カノだとか、僕を軽視する後輩だとか、そんな張り裂けそうな思いがアルコールと共に身体中を駆け巡る。


 されど加齢臭を香水で隠す身体からだは所詮ロートルで、仕事で憔悴しきった僕は、缶ビール数本であっさりとノックアウトテンカウント。リングの上に横たわった。


 ねえ、だれかテレビを消して。雑音が煩くてよく眠れやしない。ねえ、だれか。


 されど誰もおらず、自ら付けっ放しのテレビを消す為、リモコンを探しそれを向けると、モニターには古くっさいビデオカメラをこちらに向ける一人の少年が映し出されていた。


 なんだか見覚えのある少年だった。ブリーチし過ぎて傷んだ前髪、当時流行っていたステューシーのカットソー、似合わないボディピアス。頭のてっぺんからつま先まで、どこをどう見ても笑ってしまうくらいにこの僕である。


 歳はどうであろうか、十代後半くらいであろうか。カメラの奥から見える眼差しは、実に生意気そうである。お前はいったいなんでそんなに自信に満ち溢れた目をしているんだ。ああ、思い出した。そうだ。僕は映画監督になりたいのではなく、きっと映画の主人公になりたかったのである。


 この頃の僕は仲間を集め、選ばれし者だと頑なに信じ、自分自身が主人公なのだと思っていた。その頃は今のモノクロと違い、世界が七色にキラキラして見えた。モニター越しの世界は、次々と色を取り戻していく。


 僕はお酒の次に映画が好きで、音楽が大嫌いである。


 一つ色を取り戻すたび、蘇る記憶がギシリと胸を締め付ける。あの日、僕は禁じられたロックンロールってやつに魅せられ、ペンでも剣でもなく、水色のストラトキャスターを引っ提げ、騎士となり歌姫に忠誠を誓ったのが間違いの始まりであった。




【平成☆シックスティナイン】




−5、




 歌姫との出会いは、潮の香りがする小さな街の商店街にある、蕎麦屋とジーンズショップの間に、申し訳無さそうに佇む古惚けた楽器屋だった。


 部活の先輩に五千円で無理矢理押し付けられたオンボロのアーティストモデルギターに、いよいよ愛想が尽きた僕は、母親に一世一代のおねだり大作戦を決行し、それが功を奏したのか、高校の入学祝いに念願のエレキギターを買って貰えることになった。


 まずはおねだり大作戦の全容と、僕がギターを欲した理由から話そう。


 天才は若くして死ぬ。今思えば笑っちゃうが、当時僕は死に憧れていて、カート・コバーンがショットガンをしゃぶったまま我慢出来ずに逝ってしまったように、シド・ヴィシャスがヘロインで幽体離脱したまま現世へ帰ってこなかったように、ランディ・ローズがジェット機で天国までフライトしたように、いつしか僕も若くして、そんな風にこの世を去ることになると勝手に思っていた。そんな死に憧れていた。


 常にタカ派で、へそまがりで、クラスのみんなが知らない、そんな死んでしまったヒーローたちに焦こがれて止まないこの僕が、彼らとまた同じように、肩を並べるかの如く、楽器を携えステージに立つのは必然なのだと信じていた。


 ある日、そんな若くして亡くなったヒーローたちの頂点、ジミ・ヘンドリックスなる偉人が天国より降臨し僕に憑依し、そして猛烈にエレキギターを欲するのだと、母親に主張したのだ。


 あくまでこれはその場で取って付けた僕の妄想ではあるが、兎にも角にもギターが欲しかった。理由はなんでも良かった。


 つまり「買ってくれないと若くして死ぬ」と親に泣きついたのだ。これがおねだり大作戦の全容である。


 春先、母の作ったべしょべしょのケチャップスパゲティを食べた後、連れられて行った近所の商店街。太陽は少し傾き始め、アスファルトに篭った熱は、今が冬でないことを知らせる。


 商店街の共同駐車場からそば屋を隔てて、とても申し訳なさそうに建っていた小さな小さな楽器屋。停車した親の軽四ダイハツムーブから降りると、『練習スタジオご利用のお客様へ。当店の駐車場以外は使用しないでください』と共同駐車場の看板に書かれていた。


 生まれて初めて入店する楽器屋は、初老の夫婦二人が経営していた。もっと大きなところに行きたかったが、親と行動を共にするのが、年頃男子としては酷く恥ずかしかったので、都会へは出向きたくなかった。


 決して裕福な家庭ではなかった為、ショーケースの中に飾ってある木目のギターレスポールは値段を見て即座に諦める。代わりに敬愛するギタリストカート・コバーンと同じシェイプのギタージャガーを最初に選び試奏する。もちろん人前で演奏するほどの腕前はない。しかしだ、そのキャンディみたいに真っ赤なギターに、僕は自分がステージに立つ姿を想像してニマニマした。


「わー、へったくそー」


 再びジミヘンが憑依し、僕が一人悦に入っていると、店の二階から下りてきた女の子数人が、こっちを観て笑っていた。僕よりもほんの少し若そうである。


「おばちゃん。この子たちは?」


「二階でね、ヤマハの先生が音楽教室やっているのよ。そこの生徒さん」


 おばちゃんは優しそうに笑うと、レッスンを終えた女の子たちに飴を配る。「ありがとー。おばちゃーん」と、女子たちは自分の口に飴を放り込む。


 この無礼なクソガキの中でも取り分け生意気そうな、癖っ毛の少女が、僕に声を掛けてくる。


「ねえねえ、おにーちゃん、辞めなよ。それ似合わないよ。あっちの方が可愛いよ」


「うっさい、あっち行けよ。くそジャリ。僕には今ジミヘンが憑依してるんだ」


「ジミヘンなら俄然ストラトだよ。ねえ、あれにしなよ」


 彼女が指差すは、ショーケースの中にある何とも美しい水色のギターであった。確かにジミヘンのギターと同じ、フェンダー社のロゴの入ったストラトキャスターだ。


 おばちゃんに聞くところによれば、メキシコの工場で生産されたものらしいが、白のピックガードと楓の木で作られたアイボリー色の指板が美しい。恋とはこんな感じなのかもしれない。一目惚れである。値段は十万弱。


 この後、予算オーバーで母親がごねたので、もう一度おねだり大作戦を決行。女の子たちはそれを白い目で見ている。僕に水色を勧めた子だけはくすくす笑っている。よく笑う子だった。笑うと八重歯が見えてそれが何だか可愛かった。


「それにしてもお前詳しいな。ジミヘン知ってる小学生とか気持ち悪いけれども」


「歌の先生が古い洋楽好きでね。よくCD貸してくれるから。あと中学生だからね」


 その音楽講師はこんな年端もいかない少女に、ジミヘンを聴かせ何をさせたいのであろうか。


「他の子と違ってアケミね、ロッケンロールがやりたいから」


 これが八重歯の歌姫、アケミとの出会いである。ロッケンロールのケのニュアンスが妙に僕のツボに入った。


「ふーん、僕はこれから高校でそのロッケンロールてやつをやるんだ。いいだろ」


「えー、あんなに下手くそなのに?」


 うっさいわ、ジャリ。と、突っ込みを入れたいが、面倒なので相手にしない。


「ねえねえ、とってもその水色可愛いね。アケミにも弾かせてよ」


「しっ、しっ、あっち行けよ」



2、



 締め切ったままの遮光カーテンの隙間から朝日が差し込む。鳴りっぱなしの切り忘れたアラームを止め、脱ぎっぱなしのスーツをハンガーに掛ける。


 ほんの少ししか飲んでない筈のビール。しかし起きてみると頭が痛い。これもきっと大嫌いな音楽をやっていた頃の夢を見た所為であろうか。


 今も思い出す。あの絶望するほど……言葉を忘れるほどの孤独な日々。考えてもみれば一朝一夕で楽器など演奏出来るはずも無く、それを高々半人前程度とはいえ、習得するに掛かった時間は計り知れない。誰とも会話すること無く、誰と触れ合うことも無く、ただ一人黙々と世が明けるまで、細いスチールで出来た六本を爪弾くのだ。


 ハンガーに掛けた随分クリーニングに出していないビジネススーツを見やる。今年僕は昇進した。適度に手は抜きつつも、自分で言うのも何だが、頑張っているのだと思う。中途採用の半端者で肩身は狭いが、無理して気さくに振舞って人間関係だって築いてきたし、結果だって出してきた。


 だけれども、僕はこんな物になる為に、毎日左手の指にタコが出来るまで、ただ一人孤独に黙々とギターを弾いてきたわけじゃないし、同年代の知人たちが家族を築いていく中、人の流れに逆らってフリーターのまま借金までこさえてきたわけじゃない。


 何年かぶりに水色に会いたくなった僕は、シャワーも浴びず、歯だけ磨いて、着の身着のまま部屋を出る。寝癖だってボサボサだ。今の僕を歌姫が……アケミが見たらなんて言うのであろうか。


 あの日、母に買ってもらった水色は、実家の押入れに仕舞ったままだ。実家があるのは海沿いの街なので、きっと潮風と湿気で弦はサビサビ、ネックなんかは随分反っていることであろう。


 住めば都の我がテリトリーは、何処までもモノクロな大都会。碁盤の目を迂回する避難経路みたいな裏道を辿ること徒歩五分、駅に着いたがやっぱり世界は灰色だった。


 土曜日のプラットホームはわりと空いていて、ベンチに腰掛け、昔は家族みたいに一緒にいた歌姫の顔を、一生懸命思い出そうとするが、頭に靄が掛かって中々はっきりとは思い出せない。その代わりと言っちゃなんだが声だけは鮮明に覚えている。


 どどっどどっ、どどっどどっと、三番線。僕を迎えに来た地下鉄が歌うメロディは、ライブハウスで聴くキックの低音みたいで心地よかった。


 そこに地を這うようなベースが乗り、僕が奏でる水色の目の粗い枯れたクランチが乗り、歌姫が歌う。





−4、



 高校に入学してからというもの、僕は目ぼしいメンバーを少しずつ少しずつ洗脳していった。如何にロックが素晴らしいか、楽器を演奏することが如何にモテるか、スターになれば如何に大金持ちになれるかを。


 そして高々一年程でど素人なパンクバンドを、オリジナルを作り二つのライブハウスで月一回ずつ、レギュラーとして演奏させて貰えるまで成長させた。


 しかし大きな問題を一つ抱えている。我々は奥ゆかしき大和の御霊もつジャパニーズピープルで、誰一人としてセンターに立ちたがらず、ボーカルが不在のまま、僕がギターを弾きながら、下手くそな歌を披露する羽目になったのだ。歌もさることながら、ただでさえ不器用な演奏が余計に酷さを増す結果である。


 これではいかんと、いつも焼きそばパンを買いに行かせていた藤原くんに、丁寧に頼んでボーカルをやって貰ったりもしたが、やる気の差か、相性の差か、藤原くんはすぐさま僕たちについていけなくなってしまい、電撃脱退をするのに一ヶ月も掛からなかった。


 既に賽は投げられ、転がりだしたバンド。クラスの顔見知りや、その知り合いばかりではあるが、観客動員数を着実に増やし、小さなライブハウスをパンパンにする程度には大きなプロジェクトになっていた。実力ではなく顔見知りが多いだけであるが、それでも今更後には引きたくない。


 当時はインターネットがあまり普及していなかった為、幾つかの場所にメンバー募集の張り紙をする。


 二つのライブハウス、学校の掲示板、そしてスタジオと音楽教室を兼ね備えた、水色を手に入れたあの楽器屋と回る。


 張り紙をしながらおばちゃんに「ねえ、おばちゃん。良いボーカルいないかなー」なんて聞くと、「ああ、ボイストレーニングやってる女の子がバンドやってみたいって言ってたわね」と脈ありな返答をするので、紹介してもらうことにする。


 女ボーカルか。考えてもいなかったが、それも悪くないかもしれない。僕は野生的で、スタイルの良いサバサバした女性をイメージして、密かに想いを膨らませていった。


 数日後、大袈裟に言えばボーカルオーディションの初顔合わせ。それにノコノコやってきたのは、幼児体型で、くせっ毛で、オマケに顔見知り。いつぞやのジャリ。確か名前はアケミだ。色んな想像を膨らましていたので、このジャリと鉢合った時は正直面喰らった。


「って、おめーかよ」


「あれ? その水色のギターはいつぞやのおにーさん。ギター少しは上手くなった?」


 少年みたいなハスキーな声。生意気そうにジャリはにぃと笑う。意地悪そうに開いた口から八重歯が覗く。僕は平静を装い鼻を鳴らして、それに応える。


 折角課題曲をメンバー全員で練習してきたが、これは残念だ。期待した僕が悪い。適当に流して帰ろう。


 溜息を吐き出しながら僕らはセッティングを開始する。


 楽器屋には小さな練習スタジオが付いていて、ご大層で不相応な真空管チューブギターアンプが置かれている。よく温めたそれを、ケーブルとペダルを隔てた水色に繋ぎ、六本の弦を低い音から、ルート、短三度、五度、と順に鳴らし、さらには加速させ、和音はいつしか断続的なリフとなり、メンバーのドラムがカウントを入れ、曲が始まる。今日の為に前もって練習してきた女性シンガーの曲である。


 中々調子がいいのか、皆はちゃんと弾けていて、一体感が気持ち良かった。


 どうだ、とばかりに僕は八重歯の少女を見る。まだ幼さの残る垢抜けない彼女は、余裕綽々でリズムに合わせ身体を揺らす。


 そして長めのイントロが終わり、彼女が口を開いたその瞬間、信じられない圧が空気を伝わり僕の鼓膜を強打する。


 脳の芯が撃ち抜かれたような錯覚に陥り、ぞわぞわと全身の肌が粟立った。


 それは十七年弱生きてきた中で最も衝撃的出来事であった。他のメンバーと目配せしても、皆意見は同じようだ。


 時に激しく、時に優しく、彼女の歌声は様々な顔を見せる。僕のコードが次を導けば、歌声の旋律は、五線譜の中で最良を辿って着いてくる。


 僕たちは完全にこのクソ生意気なジャリに圧倒されたのだ。





「アケミは合格かな?」


 『立ち話はご遠慮下さい』と看板のある楽器屋ど正面の自販機で、僕は自分の分とメンバーの分のジュースを買う。奢りたい気分だった。そしてジュースはいつもより一本余分に多く買ったのだった。無論彼女の……アケミの分である。



3、



 昔住んだ街に着いた僕。やっぱりここも昔と違ってなんだかとてもモノクロだった。曇り空がいけない。色が見えない。懐かしい気持ちとか湧くかと思っていたが、そうでもなかった。


 駅から実家は少し遠くて、タクシーを拾うにも中々この辺にはいない。


 仕方なく歩くこと三十分、街は昔と変わらない面影を残しつつも、新しい建物が建ったり、商店街からあの小さな楽器屋が無くなったりしていて、やはり以前住んでいた場所とは似ても似つかぬものに見える。


 くたくたになりながら実家に着いて、母に「ただいま」の挨拶を済ますと、物置になった自室に向かう。埃っぽいので窓を開け換気し、次は押入れを開く。


 フェンダー社のロゴの入ったギターケースは、押入れに収納されていたにも関わらず、埃が積もっている。軽く手で払うとキラキラと七色の粒子が四散する。そして今日まで捨てることのできなかった水色のストラトキャスターを取り出す。


 水色と言葉にするが、ヤニやら何やらが付着して、色がくすみ、黄緑色に近いかもしれない。色を失った僕の目だが、何故だか不思議とその緑掛かった水色の質感を事細かく認識できる。


 ケースに一緒に入っていた音叉を使って軽く調律を済ませ、「久しぶりだな。元気だったか?」と適当に掻き鳴らす。小さなアンプに繋ぎ、シングルコイルが生きていることを確認し、悪戯にブルーノートを乗せる。


 昔は毎日イチャイチャベタベタ、この水色とずっと過ごしていたし、その先もずっと一緒にいるものだと思っていた。


 されどバンドは解散し、僕は就職したり、音楽以外に楽しいことを見つけたりして、次第に水色と過ごす機会は減り蜜月も終わりへ向かう。


 いつも一番であった水色は、次第に二番になり、三番になり、優先順位をどんどんと落としていったが、それでもズルズルと僕は、水色との関係を続けていた。そんな心根で弾く水色の音色は冷たく、まるで「こんな関係を続けるのはもう無理。終わりにしましょう」なんて言われているみたいで、とても悲しくて、だけれど捨てられなくて、実家の押入れに閉じ込めたのである。



−3、



 アケミの歌声は話題になり、その狭い界隈では直ぐに注目を集めた。彼女のハスキーな声は人を魅了して止まない。この頃の僕らは、自らの拘りと世間の流行を上手いことブレンドさせ、絶妙なバランスで楽曲を書けていたと思う。


 そして転機が訪れる。


 当時、世はドラゴンアッシュや山嵐などを筆頭に旋風を巻き起こした、空前のミクスチャーロックブームの少しだけ後で、そのブームの火付け役の一つ、関西の顔役DATEMAKIの主催する大掛かりなイベントに呼ばれたのだ。


「緊張してる?」


「そりゃしてるさ。場違いなところに来ちゃったからな。僕らはアケミの歌唱力だけでここにいるんだ」


「あははっ、自信もちなよ。悪い癖だよ。アケミこのバンドが作る楽曲凄く好きだよ。ほらっ、恒例のジュースジャンケンいくよー」


 最初はぐー、じゃんげん。力んでいた僕は「ぽい」の所でぐーを出して、一人負け。結局全員のドリンクを奢らされる。


 それでも緊張の解けない僕に、アケミはこう言った。


「もう仕方ないなぁ。じゃあね、効果絶大なおまじないをしてあげる。頭下げてー」


 言われるがまま僕は屈むと、アケミは僕の額に、そっと自分の唇を当てキスをする。刹那、時が止まる。何が起きたのか目を白黒させる僕。


「あははー、これで本番中、ジミヘンが降臨し貴方に憑依します」


 過去の恥ずかしい自分を思い出して赤面する僕に、アケミは吹き出す。僕もつられて笑ってしまう。


 それから自分らの番がきて、バックヤードから移動しステージに上がり、チューニングを始める。客リスナーの顔は暗くてよく見えない。


 親不孝な僕はバンドの為に大学を辞めた。高額な機材を買う為に生まれて初めてのローンだって背負った。今更捨てる物など何もない。


 最初の一曲はベースから始まる。うちのメンバーのベースは、親指をバチみたいに弦に高速で叩きつける。


 パーカッシブルな音が空間を支配し、残りのメンバーは呼吸をジャストで合わせる。


 緩い紫色の照明とスモーク、それに溶け込む無数の透明の音たち。僕はイントロの途中でお気に入りのペダルを踏み、水色は可愛い見た目に似合わぬ鋭く尖った悲鳴を上げ空気を変える。


 閉じていた目を強く見開いたアケミ。僕らの演奏にシンクロするかの如く、カラダをブルブル震わせながら、シャウトする。僕らの音楽は飛翔する。






 気が付けば、自分らの出番は終わっていた。


 記憶は殆どないが、きっと後にも先にもないくらいに、この日僕らは良い演奏ができていたのだと思う。それくらい深い場所にトリップしていた。この千人以上入る箱を海とするならば、僕らは溶けて一つになっていた自信がある。


 この日から寝ても覚めても、節目節目にそれを思い出しカラダが震えるのだ。



4、



 その晩は実家に泊まることにした。僕の自室は物置になっているので、軽く寝床だけ作り、色々な懐かしい物を物色する。


 まず机の引き出しから出てきたのは、僕たちのバンドのCDで、それを古いデッキに入れ再生する。クルクルと円盤は回転を始め、とうの昔に色を失った僕の瞳に、七色のレーザーが焼付く。そしてそれは音に変換されていく。


 このマキシシングル一枚作るのに掛かった費用は、当時のバンドの財源から負担された。バンドには兎に角、金が掛かった。


 機材、機材車、リハーサルスタジオ、遠征の旅費、等々、言い出したらきりがない。それらはライブの収益で賄われるので、負担がないように思われているのかもしれないが、バンドマンだって、霞を食って生きてるわけじゃない。ライブの収益はバンドの維持費に全て回され、実質僕の手元には一銭たりとも入ってこなかった。


 自分で言うのも何だが、ファンなるものが存在する程度には、知名度のあるバンドだったにも関わらず、当時の僕の収入はアルバイトで得る手取り十数万程度だけだった。


 仕事にも慣れていよいよ正職員になるかと話を持ち掛けられる頃には、ツアーだ何だかんだと言って退職しなくてはならない。


 貧しかった。いよいよサラ金にまで手を出し、そのストレスは雪だるま式に増えて、辛いことばかりであった。


 友人と会う金もなく、練習やライブのない日は、慎ましくカップラーメン一食で過ごすしかなかった。顔をあわせるのはメンバーだけ。しかもその頃、メンバー同士の仲はギクシャクして、お互いいつ爆発するのか分からない爆弾を抱えたまま、ぎりぎりのチキンレースを競いあっていた。


 なのに……引き出しから次に見つけた、バンドメンバーで撮った数々の写真は、そのどれもが物凄く楽しそうで、幸せそうな顔をしている。何が可笑しくて笑っていられたのであろうか。思い出せない。


 だけれど少しずつ少しずつ次第に色が観えるようになってきた。久しぶりに聴くアケミの歌声は、僕をモノクロの世界から、カラフルな記憶を呼び起こす。





−2、



 僕はお酒の次に映画が好きで、音楽が大嫌いだ。きっとずっとほろ酔い気分で、自分主演の映画監督を気取っていた。


 だけどもキャストはミステイク。後がない期間限定の人生。金のないリアルを見たら、全部が全部やらせみたいに思えた。


 僕は、僕らのファンである女たちの中から、取っ替え引っ替え恋人を作ったりした。どの彼女も大概は社会人で僕よりも収入があって、その収入で毎日酒びたりの日々が続いていた。


 作曲家を気取っているくせに、働きもせず、曲も書かず、どんどんと落ちていくのを実感していた時期である。


 どんな恋人と付き合っても、安らぎを得ることはできなかった。何故なら僕にも、他のメンバーにも、一番近くにアケミがいるのだから。多分全員が全員同じ気持ちで、アケミのことが好きだった。


 アケミは変わった。垢抜けない癖っ毛の髪は真っ直ぐな金髪になり、化粧は濃くなり、もっちりしていた体型は痩せ細り、穏やかな性格は険しくなった。


 そして僕も他のメンバーも変わっていった。誰も夢を見なくなった。





 ある日のことである。DATEMAKIのギタリストである、シゲくんから居酒屋に誘われた。


 シゲくんだなんて君付けで呼ぶが、彼はそんな歳ではなく、既に三十路後半のアラフォーである。そして関西では知る人ぞ知る大御所バンドのメンバーである彼だが、肩書きは無職のフリーターで、アラフォーの癖に居酒屋のアルバイトで生計を立てている。


 賑やかな店内、彼の奢りとのことなので、僕は遠慮せず生中と好きなツマミを頼み、それが届くと男二人地味に乾杯する。


「お前、相変わらず人の金だといい飲みっぷりだよな」


「いやー、最近不景気だから奢ってくれる人少なくて。そんなことより突然どうしたんすか?」


 シゲくんはジョッキの半分を一気に飲み、げっぷをした後、冷や奴を摘みながら目を泳がせる。


「俺さ、そろそろバンド辞めようかと思うんだよな」


 それは衝撃的な発言だった。関西の重鎮中の重鎮であり、僕らなんかと比べれば成功者であるし、バンドの収入だって随分あるはずだ。ブームの頃に得た印税だって相当な額であろう。


「彼女にさ、ガキ出来たんだ。パパがフリーターじゃ子供が恥ずかしいだろ」


 僕にはそれに対して精彩を欠く「おめでとうございます」しか言えなかった。


「別にギター辞めるわけじゃ無いけどさ、サラリーマンになってたまに土曜日の夜に仲間とかと集まってスタジオ入ったり、音楽やってる町内の人に新しいギター買っちゃいましたよー、とか自慢したり、そんな未来も幸せなのかなって思ってさ」


 シゲくんは目を伏せたままだ。豪快なのは最初だけでちびちびと啜るように、酒を飲む。ただそれを聞くことだけしか、出来ない自分が嫌だった。これが現実。これが音楽の世界。


「もう直ぐ、音楽はただのデータとして配信される時代がくる。CDが売れない時代だ。俺たちみたいなフェスバンドでさえ食っていくのが困難な時代だ」


 そう話すと、そこから彼は一切バンドの話をしなかった。結局その夜がシゲくんと最後に会った日である。




 数日後の練習。あの日のシゲくんの顔がずっと頭から離れないままの所為なのか、楽器は前回の練習から一度も触っていない。


 三十二畳程の室内、当初は歌だけで音楽に疎かったアケミだが、今現在は主導権を握りテキパキとメンバーに指示を飛ばす。


 気だるいが仕方なくセッティングを始める僕。メンバー同士は今日もギスギスしていて、先ほどから丁々発止のやり取りが止まない。人は人、自分は自分。僕はマイペースに自分の音を作る。


 バンドを始めた頃は、ハイゲインのアンプなんかから、ずるずるに歪ました音を好んだ僕だか、いつしかそれがなんだか甲高く感じてとても不快になった。


 気が付けば知らぬ間に、ヴィンテージアンプに繋ぎ、トーンを絞って鳴らし、ああ枯れた音が良いね、なんて言うようになっていた。


 そんなことをイメージしなから、本日の音をゆっくり探していると、横からアケミが突っ掛かってきた。


「だぁー、まだ曲書けてないの? ただでさえ下手くそなのに、曲も書けないならバンドに要らないよ」


 ああ、そう言えば初めて会った時も下手くそって言われたな。ぼんやりと考えながら思う。枯れた音が良いねなんて言うけど、本当に枯れたのは僕なのだ。


 だから今でも綺麗に咲き誇っているアケミが眩しくて眩しくて、羨ましくて堪らないのだ。僕にはもう曲を書くことなどできないし、これ以上鍛錬を重ね技術を上達させる気力だってない。


 その時、体が自然に動いていた。僕の右手が彼女の頬を打つ。


「もう、沢山だ! なんだよ。この生活。楽しくもなんともないよ」


 きっと無意識だった。油断してずっと堪えていたものが出てしまったのだ。隠していた気持ちが出てしまったのだ。


 アケミは……さめざめと涙を流した。僕以外のメンバー全員はアケミの背中を摩ったり、大人気ない僕を責め立てた。自覚している。悪いのは僕だ。


 楽器の習得には絶対的な孤独が必要不可欠であるが、バンドは孤独のままではできない。この矛盾が僕らを苦しめ出したのは、いつからだろう。




5、


 土日が過ぎ、僕はまた灰色の生活に戻る。来る日も来る日も仕事、仕事、仕事。こんなにも頑張っている。いったい僕はこれから先、何になりたいのであろう。


 上司の顔色を伺って、夜遅く帰って、コンビニの弁当をレンジでチンするだけのレトルト食品みたいな生活。反吐が出そうだ。


 アケミは今頃何をしているだろうか。僕と過ごした日々を覚えてくれているであろうか。


 あれだけの歌声を持つ彼女がデビューした話は聞かない。今でも歌っているのであろうか。


 近頃、休みの度、水色のストラトキャスターを弾く為に実家を訪れる。一人暮らしのマンションに連れて帰る勇気は今の僕にはまだない。


 ブランクのあるプニプニの指先では、満足にこの水色を泣かしてあげることはできないけれど、弦を張り替えて幾らかマシな音が鳴るようになった。


 それこそジミヘンでも憑依してしまったのか、気が狂ったように弾いて、弾いて、弾きまくって、お腹がいっぱいになると、次はかつてカラーで観えていた街並みを歩いた。母校だったり、海岸だったり、商店街だったりだ。


 賑わう商店街。潰れた楽器屋の跡には、これまたパッとしない酒屋が建っていて、何の気なしに覗いてみる。


 興味本位で酒屋さんの店主に元あった楽器屋のことを尋ねてみると、楽器商とピアノの調律師を兼任していた楽器屋の店主が亡くなって、その夫人は海の側に場所を移し、ヤマハの音楽教室を営んでいるらしいことを知る。


 懐かしいおばちゃんに会えるならと、その住所を聞き、そこへ足を運んでみることにする。


 それは海岸が見渡せる場所に位置する、白い小さな建物だった。


 緊張しながら潮風で傷んだ木製の扉をあけると、中からは除湿機の音と、乾いた匂い、そして昔懐かしいおばちゃんが受け付けで、雑誌を読んでいる。


「ども。お久しぶりっす」


 僕の顔をみたおばちゃんは「あらー、久しぶりねえ」と目を丸くした。良かった。僕のことを覚えているようだ。


「きみが訪ねてきてくれるなんて、随分久しぶりね。アケミちゃんもきっと喜ぶわ」


「アケミっすか?」


「あれ? 知らなかった? 昔はあんなに仲良しだったのに。今はここで子供たちに歌を教えているのよ」


 すると二階からキャッキャとレッスンを終えた子供たちが降りてくる。おばちゃんは子供たちに、あの時みたく飴玉を配っていく。


「もう直ぐ上がりだから、会っていく?」


 少しだけ考え、迷い、そして僕は首を横に振る。


「会いたいんですけど、あんまり時間なくて。アケミによろしくお願いします」


 そうやって僕は嘘をついた。




−1、



 このバンドは僕が作った。このバンドの生みの親は僕である。しかし、その我が子を殺したのも僕であった。


「解散しよっか」


 ある日のミーティング。ドリンクバーしか注文していない深夜のファミレス、思い詰めた僕はそう言った。


 リーダーなんて柄じゃなかった。目的地に向かう途中、先頭を歩くことさえ、この時の僕には、もうできなかった。


 潮時であり、精神的にも金銭的にも限界である。そしてその僕の言葉に、誰一人として反対しなかった。それがまたとても悲しかった。


 僕はバンドを愛していたし、それは他のメンバーも同じなのだと頑なに思っていた。「俺たちはバンド続けるから、お前が一人で勝手に抜けろよ」って言ってくれると信じていた。しかし、今思えばメンバーたちは、きっと僕より先にこの結論に達していたのだと思う。それでも僕に付いて来てくれていたのだと思う。


「そっか。楽しかったよ。CD出したり、全国回ったりして。ううん、音楽はみんな辞めちゃだめだよ。アケミは辞めないよ。歌うことは一生続ける」


 それが締めの言葉になったのか、その日のミーティングは過去最短のものになった。


「ああ、でも解散前にラストライブしたかったなー」


 メンバー全員の顔から険が取れ、どこか清々しい表情が見て取れる。僕だって内心ほっとしている。開放感と一抹の寂しさが両方同時に押し寄せて、今にも泣いてしまいそうだ。


 まるで水面みなもに映る微かな光さえ、掴もうとした手には何も残らなかったような、そんな心境であった。


 誰とも会わず一人黙々と自宅で夜が明けるまで楽器を弾き、友人を失い、大学も辞め、正職にも就かず、結婚もせず、借金までして、親に合わせる顔もなかった僕の約十年間が、今まさに終わり、夢から覚め、止まっていた時間が動き出し、やっと現実がスタートしたのだ。


 この日から家族同然に一緒に過ごしてきたメンバーと顔を合わせることもなくなった。





69、



「なんでアケミが終わるの待っててくれないのかなー」


 おばちゃんの音楽教室から、猛ダッシュで僕を追いかけてきた何者かに、背中からタックルをされ盛大にすっ転んだ。僕を見下ろす出会った日と同じ、悪戯っ子みたいな眼差しと、にぃっと覗かせる八重歯、歌姫のアケミである。


「少し話そっか」


「そうこなくっちゃ。良いものがありまーす。じゃーん」


 アケミはもっていた手提げ袋から缶ビールを取り出す。


「おっ、話が分かるねえ。折角だから海でも観ながら飲もうぜ」


 燃え上がる夕焼けは、どんどん僕のモノクロの世界を塗り替え、海をオレンジに染める。世界がこんなに綺麗に観えたのはいつぶりであろうか。砂浜と道路を隔てる防波堤に腰掛け、アケミと静かに乾杯する。


「ご報告があります」


 暫しの沈黙。優しげな波の音。僕ら二人の影が後ろに長く伸びる。


「なんだよ。勿体振るなよ」


「一昨年結婚しました」


「そうか。ショックだ。こう見えて、ずっと好きだったんだぜ」


 さらっと言えた本音。どこにいるかも、何をしているかも分からない他のメンバーたちには、抜け駆けをして申し訳がなかった。


「あははっ、知ってたし。あとね、あとね、デビューしました」


「え? 歌手?」


「ううん、絵本作家」


「なんだよ、それ」


 吹き出す僕とアケミ。ああ、音楽さえなければ、僕とアケミはこんなに仲がいい。


 テンションの上がったアケミは、ぐいっと缶ビールを飲み干し、サンダルを脱ぎ捨て裸足で防波堤を降っていく。そして砂浜を駆ける。


「ねえねえ海浸かろうよ。おいでよ」


「おいおい、はしゃぎ過ぎだ人妻。何月だと思ってるのさ」


 渋る僕の前に戻り、手を掴み無理やりに引っ張り、されるがままに僕は転がり、バランスを崩して柔らかな砂浜にダイブする。


 もう二度と音楽をすることはない。失ったものも大きい。しかし得たものが無いわけじゃない。


「バンドの話とかしないんだな、アケミは。あの時はさ、僕もどうかしてた。引っ叩いたりして悪かったよ」


「バンド? あー! 思い出した。うちの音楽教室、今度の商店街の夏祭りで出し物やるのさ。うん、バンド演奏。それでまあ、腕ききなギタリスト今探してるんですけど……うん、ギャラはさっき飲んだビールだよ」


 僕はビールの次に映画が好きで、音楽が大嫌いだ。何故なら天才は若くして死ぬのに、延々を永遠と履き違えた僕は、随分と老いてしまった。自分を爪弾きにした世界など好きになれるはずもない。


 だけれど、今この胸を駆け巡るロックンロールは、どうやら当分鳴り止みそうもない。エンドロールにはまだ早い。


 強い風はやがて止み、訪れる夕凪。暮れ泥なずむサンセットが、僕ら二人をオレンジ色に染めていた。







【平成☆シックスティナイン 終 】

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平成☆シックスティナイン 夕凪もぐら @margo

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