再生
笹山
再生
気道が圧迫されても必死に呼吸しようとする喘ぎの苦しさは、思い出しただけでも息が詰まるように感じる。体重がかかった喉頭にはネクタイの索条痕が残っているし、うなじのあたりは寝違えたような痛みが続いている。意識では抑えきれずに脚は暴れ、その時に打った内出血の跡がまだ右足首に残っている。
三度の試みに体重を支え切れずついに壊れたハンガーラックを傍目に、僕はただ頭を抱えることしかできなかった。何を考えるのも苦痛で、だからと言ってもう自ら命を絶つのも怖くなり、ただ時が過ぎることすら僕の精神を削いでいくように思えて、耐えがたかった。
日を跨いだ頃に決行したはずが、気づけばもうカーテンの隙間からは陽光が薄ぼんやりと差し込んでいた。ソファに座り込んだ僕は、スマートフォンで電話帳を手繰り、お袋の電話番号を表示した。きっと向こうはまだ起きたころだろう。迷惑なことは分かっていたが、これ以上孤独な静けさに耐えられなかった。もう、限界だった。
電話越しにお袋の声が響いた途端、僕の抱えきれなくなった罪悪感はボロボロと崩れた。固いソファの上に次々と大粒の涙が流れ落ちた。嗚咽の隙間から「母さん」とだけ絞り出すと、何から言えばいいのか分からず、ただ郷愁と愛しさに打ちひしがれ、声をあげて泣いた。一週間前、公務員試験の不合格通知を受け取っても出なかった涙が、もっと言えば、ずっと幼い頃お袋に抱かれて以来忘れていた慟哭が、そのときすべて溢れた。
※
次々に流れ移り変わっていく夏の景色を新幹線の車窓から眺めながら、僕は細く息を吐いた。何度となく繰り返したはずの帰省も、今回ばかりは緊張せずにいられなかった。
トンネルに入ると、目の前の窓ガラスにこちらを見返す顔が現れた。じろじろと自分の顔とにらめっこをしていると、向こうの自分は僕よりもずっと快活そうで、悩みも不安もまるで無さそうに見えてくる。それに対してこっちの自分はどうだろう。『死神』、それも正位置だ、と僕はタロットカードを思い浮かべた。向かい合わせの二人は、互いに嘲笑うような短いため息を吐いた。
ふいに向こうの自分が消えて視界が開けた。見慣れた田畑と民家が点在しており、その向こうでは山々が曇り空との境界をぼかして連なっている。徐に立ち上がった僕に、車内アナウンスが次の停車駅を告げた。
在来線に乗り換えて中心街の駅まで向かったあと、バスを二本乗り継いで、僕はようやく生まれ育った故郷へたどり着いた。草原と田畑とが緩い坂の一本道を挟んで広がっている。晩夏の夕日が坂のてっぺんでじわりと融けるように歪んで沈みかかっている。厚く覆い被さる雲はその下方をオレンジ色に染め、僕はその雲を仰ぎ見ながらプルーストを思い出していた。紅茶に浸したマドレーヌなんてこんな田舎町にはないものの、南部煎餅を緑茶と一緒に頬張りたくなって、少し強く地面を踏んで帰路を歩いた。
九カ月ぶりの両親にろくに挨拶もせず、僕は自室に引っ込んだ。キャリーバッグから私服を取ってハンガーにかけると、ジャケットの背に皺が寄っているのに気がついた。
「皺取るようなの、ある?」
台所で晩飯の材料を洗っている小さな背中に話しかけると、
「あるよ。後でもいいかい?」
そう満面の笑みで振り返りながらお袋は言った。ジャケットよりも皺の寄った目尻が柔らかく弧を描いていた。気づけば頭一つ分背の低くなったお袋を見ながら、僕の背が伸びたのか、それともお袋の背が縮んだのか、あるいはどちらでもあるのだろうか、そう考えると僕は思わずヒュッと息を吸った。急ぎ足で自室に戻ると、ベッドに腰掛けて目をこすった。涙もろくなったのはつい最近で、それはあの電話のときからだった。
晩飯の麻婆茄子の味付けからお袋の愛情を感じ、ビールを勧める親父のごつごつした手から気遣いを汲み取るたびに、僕は目を瞬かせながら苦笑いするしかなかった。弟だけが何も考えていない風に居間のテレビを見ているのがなんだか落ち着いた。食器を洗い、食卓に腰を据えて煙草に火を点けると、見計らったように親父も煙草を手に取った。親父の旧三級品より二倍高い自分の煙草を吸っていると、罪悪感の焦げついた脳裡がジクジクと痛んだが、親父ほど多く吸わないからと言い訳をした。それから何か言うことがあるだろうと自責したが、最初の言葉が見つからなくて、今度は煙草を吸うことが言い訳になった。
結局その日、僕と親父はよそよそしく二言三言交わしただけだった。
翌朝、ガラガラという大きな音で僕は起きた。部屋着のまま庭に出てみると、案の定親父が何に使うのか分からない砂利をトラックから降ろしているところだった。左官の自営業をしている親父はよく朝から砂利をトラックに積み込んだり、電動カッターでタイルを整形して騒音をまき散らしていた。今朝もその類かと思ったが、親父は庭の花壇に向かうと、スコップで地面を掘り始めた。
「何してるの」と僕が寝ぼけ眼をこすりながら聞くと、
「これ、ここさロッキング敷く」と、親父は花壇の手前、四畳分ほどの土がむき出しになった地面を指差した。聞けば、その花壇の手前は土がむき出しでみっともないから、ロッキングと言うレンガのようなブロックを敷くらしかった。そのためにはまず踏み固められた土を掘り起こして砂利や砂で基礎を作る必要がある。親父は空の手押し車を一台持ってきて、土を畑に運ぶように言った。
湿った黒土をこんもり積んだ手押し車は想像以上に重かった。大学に入学してからは運動をしなかったうえ、不摂生な生活が続いていたので、僕が三回目の往復ですぐ音を上げたのも当然だった。だが、いくら腕が強張っても、いくら腰が痛くても、ただひたすらに土を運ぶ行為に、僕は不思議な楽しさを見出していた。日ごろ持て余していた力が庭を変えていくということに、妙な喜びを感じた。
昼前になって弟が起きてくると、僕は手伝うように声をかけた。弟は今年大学に入ったばかりだが、講義のない日はいつも退屈そうに部屋で過ごすことが多いとお袋から聞いていたので、どうせなら弟も巻き込んでやろうと思ったのだ。
僕がもっと幼い頃、一度だけ親父の仕事について行って作業を手伝ったことがあった。親父一人で仕事をする自営業のため、いずれ親父が働けなくなったときは、廃業するしかないことを、僕はその手伝いの時には知っていた。親父の仕事を継ごうか、とは何度か言ってみたものの、その度に「お前は大学まで行かせる予定なんだからもっといい職に就け」と断られてきた。
ボロボロのキャップを被ってスコップを地面に突き立てる親父の横顔を見ながら、僕は思った。数十年、汗水流して稼いでくれた金を、僕は一体どれだけ無駄にしてしまったのだろうと。親父も歳だ。お袋だって介護のパートをいつまで続けられるかわからない。弟はあの調子だし、僕が早く安定した職に就かなければならない。そう追い立てることでしか僕は前に進めなかったのに、もう耐えられなくなってしまったのだ。
昼飯を挟んで、庭の開拓は砂利を敷き詰める作業に移った。今度は砂利の入った手押し車を親父のもとに運んで降ろしてもらう。弟は腹を休めると言って居間で寝転がっている。
「で、どこにすんのよ」
親父は急に真面目な話をしだした時の癖で、はにかむように笑いながら言った。
「え、どこって、なにが」
「就職先。こっちさは来れねんだべ」
「ああ、多分、東京とか、そこらへん。わからない」
「なんも、まだまだ時間はある。ちゃんと内定何個かもらって選べよ」
そんなことはわかっていた。県庁の試験に落ちたって市役所ではこれから試験というところもあるし、企業だってまだまだ説明会を開いている。就活売り手市場の今、都会に限らずとも就職先を探すことはできるだろう。
しかし、僕は怖かった。試験勉強は苦ではないし、面接も緊張はするが仕方ないと割り切れる。だが、『不合格』という通知をもらうことがただひたすらに、怖かった。就活なんて上手くいくほうが珍しいだろうと慎重に予防線を張っていたにも関わらず、いくつかの企業と県庁から受け取った『不合格』の通知は、まるで僕の存在自体を否定するような重みをもって僕を打ちのめした。僕という人間が否定されるような矢面にわざわざ踏み込んでいく気概は通知の度に擦り減り、人より出来ると思っていた勉強も役に立たず、そして、それまで僕が当てはまらないと思っていた無個性で凡庸な人間であるという半ば自意識過剰な評価を、通知の行間に見出したとき、僕はもうだめだと思った。この恐怖にも、自分で自分の背中をつつきながら歩くことにも、耐えられなくなった。そして、あんな真似をした。
そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、親父はこう言った。
「公務員試験はまた来年だってあるんだべ。何年か挑戦してだめならそれから会社員になってもいいし。大学は単位取るだけのとこって分かってて入れたんだから、お前はこれから頑張ればいい」
親父のこういう励ましは、きっと少し前の僕には苦痛であったろう。背中を押そうとする両親の言葉は、崖っぷちにぎりぎりで立っていた僕にとっては責め苦だったのだ。
ところが、不思議とその時の僕は苛立ちもしなければ、消沈することもなかった。一度落ちたからかな、と心の中で自嘲した。むしろ、親父も分かって大学に入れていたという初めて知った事実に、気の抜ける思いがしていた。大学に入ったからには、やりたいことを見つけて勉強して、そしていい職に就かなければと気張っていた自分が、肩透かしを食らったようだった。すると、急にそれまで抱えていた責任感や義務感といったものが、僕にはとても荷が重すぎるように思えてきた。いつ退職するかもわからない両親や大学に通う弟の分まで働くなんて、まるで僕に務まるものではないのだ。
「来年就職できなくてもいいの?」
僕は幼い子どものように純粋な疑問を抱いて聞いた。
「そりゃあさっさと就職してくれれば安心だけど、できなかったら仕方ないべよ。バイトでもなんでもしながら探せばいい」
笑顔さえ浮かべてそう言った親父に、僕ははっとした。もしかしたら少し荷を下ろしてもいいのではないか。思いもよらなかった肩の荷を下ろすという考えに、僕は驚きを感じた。体が軽くなるような気がする。それなら、まだいける。まだ僕は動ける。そして気は乗ってくる。やれる。楽勝だ。就職先なんていくらでも見つけてやる。半ば自棄気味でも、僕にとってその楽観は動力源になった。
僕は親父に一言言い返した。
「いや、今年のうちに見つけるよ、就職先」
その日砂利と砂を敷き詰めると、後は親父に任せて、僕は震える手を抑えながらスマートフォンを手に取った。久しぶりに見た就活サイトの不気味な快活さに顔をしかめながら、それでも僕は直近に説明会のある企業を探した。
翌日の夕方、僕は木炭を持って庭に出た。夏は帰省に合わせて庭で焼き肉をするのが恒例で、火起こしは僕の担当だった。昨日作業をした庭を見ると、花壇の前の土は跡形もなく、綺麗なモザイク調にロッキングが敷き詰められていた。職人によって一日にして整えられたその庭に、僕は言い知れぬ満足感を覚えて、一人嬉しくなった。
両親が仕事から帰ると、弟を部屋から連れ出し家族四人でコンロを囲んだ。しばらくして、僕は気恥ずかしさからはにかんで言った。
「明日向こうに戻る。それで、就活はじめる」
「明日? ずいぶん早いね」と、お袋が驚く。
あまり心配ばかりかけたくないから、と正直には言えなかった。謝ることも、ありがとうと言うことも出来なかった。だが、親父は満足げに頷きながらこう言った。
「なんとかなるべ。頑張れよ」
※
帰りの新幹線で、僕はまた窓に映る自分の顔を見ていた。一日二日ではその顔立ちは変わらないが、今生気に溢れているのは窓に映る顔ではなく、僕の方だった。『死神』の逆位置、意味は、再生。
再生 笹山 @mihono
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