短編小説『青年』

加藤アガシ

短編『青年』



 吉井くんは本屋の店員さんに恋をした―――。


 その店員さんは華奢で、黒髪で眼鏡をかけていた。本当に読書が好きそうな、とても真面目そうな女性だった。ただ彼女は脚が悪かった。悪かったと言っても上手く伝わらないと思うため、具体的に説明すると、左足の先が外側に曲がっていた。

 それは先天的な障害なのか、あるいは事故などによる半身不随的なもののせいなのか分からないが、彼女が歩くときは、その左足のせいで常に飛び跳ねるようにヒョコヒョコと歩いた。



 心優しい吉井くんは、そんな彼女に同情した。



 彼女が歩く時は、誰もがその特異な歩き方に目をとられた。みんなが見てくる。それがどれだけ彼女にとって恥ずかしく、苦痛なものであるか。しかし、それでも彼女は早く歩くことができず、不自由な左足を精一杯従わせ、一生懸命歩いた。吉井くんはたまたま入った駅前の本屋でそんな彼女を見たという。そして、恋に落ちた。


 彼女はその歩き方で店内を歩き回り、本の陳列をしていた。吉井くんは何か彼女の役に立ちたいと思った。彼女の抱える障害を少しでも取り除いてあげたいと思った。しかし、吉井くんは女性経験が乏しく、あまり快活な人間ではない。彼女に近づきたくてもどうすれば良いのか、てんで思いつかない。そうして、吉井くんはその本屋に頻繁に通うことになった。日に日に、彼女への思いは膨らんでいく。しかし、どうしても話しかけることが出来ない。恥ずかしくて、彼女が居るレジで買い物すら出来なかった。けれど、どうにかして彼女と話がしたい。彼女は自分の運命の人だと強く思い込んでいた。


 そしてある日、吉井くんは意を決した。とりあえず、顔見知りになろうと思ったのだ。こちらの好意が悟られないよう、冷静かつスマートさを心がけて、レジ台で彼女が一人になったところを見計らい、話しかけた。


「あの、すみません」


「はい?」


 透き通るような声だった。本棚から顔を上げた彼女は色白で、不意を取られ、驚いた様子でこちらを見つめ返す表情が堪らなく魅力的だった。


「えと、すみません。森鴎外の本はありますか?」


 偶然、思いついた森鴎外だった。吉井くんは高校の授業の際に「舞姫」の一節を読んだだけで、森鴎外に特段の興味もなければ、思い入れなどもない。しかし、文豪の名を上げた方が知的に映るだろうと咄嗟に思っての森鴎外だった。


「はい、鴎外ですね。そうですね、確か新潮社から出版されているものは向こうの棚にあると思います。あと、岩波文庫の棚にも森鴎外がありますが、同じものしかなかったはずです。鴎外の何をお探しですか?」

 

 そう言うと、彼女は例の歩き方で吉井くんを先導して、森鴎外がある棚まで案内したという。

 これに繊細な吉井くんは「参ってしまった」と話す。徹底的に参り、そして打ちのめされたと。吉井くんは、その心情を私にこう吐露した。



『参りましたよ、本当に。僕はこれほどまでに、自分がなんて愚かで卑怯者だということを思い知らされた日はありませんでした。

 正直に白状しますと、きっと僕は彼女を心のどこかで見下していたんです。

足が悪いことに。

 それに彼女はどう見ても真面目そうで、僕と同じタイプの人間だと思っていたんです。なんというか、その、あまり人間と話すのが得意ではない内向的な人間、そういう風に。

 こんな甲斐性のない僕でも、彼女となら普通に、同等もしくは一つ上から物が言えると思い違いをしていたのです。僕以上に自分自身に劣等感を抱いている人間だと。

 だから、彼女に話しかけたとき、僕はおそらく彼女は伏し目がちに、そして自信なさ気に応えるものと想像していました。僕と同じ様に。

 けれど、それは違いました。 ぜんぜん違ったのです。

 彼女の話し方や、話す表情は、自信に溢れたはっきりとしたものでした。

 そこらの人間よりも、断然しっかりとした受け答えです。


 僕はこれに参ってしまったのです。


 何よりも、彼女が見た目にそぐわず、しっかりしていたことにじゃない。

 僕自身の驕り、偏見に対してです。 僕は勝手に、彼女が足に障害を持っていることで、彼女はそれに劣等感を抱いているものだと思っていたのです。自信がないと。


 それは僕自身が、彼女の足の障害を劣等感を抱くべき恥ずべきもの、劣ったものという認識していたということです。


 僕はこのことが心の底から恥ずかしい。 彼女自身はまったくそんなことを思っていなかった。そんなことを一切気にしていない様に僕を案内してくれたのです。すごく立派な人間でした。


 それに比べて僕は卑しい、ゲスな人間です。

 障害を持っている人間は、健常者である僕よりも、控えめで弱い存在だと思っていたのですから。

 そして、僕はそれにつけ込もうとしたのです。 実のところは、彼女を助けたいと思ったわけでも、同情でもなかったのです。

 勝手な決め付けで、それを利用し、優しさを装い、あわよくば彼女に取り入ろうとしていただけだったのです。

 まったくもって、僕は恥ずかしい。 やはりこんなに卑しい人間はやはり誰からも好かれるはずがないのです。

 好かれる権利など持っていないんだと、思い知らされました。その彼女から」



 結局、吉井くんは彼女に森鴎外がある棚に案内された後、『やっぱりいいです』と慌てふためき、そそくさと逃げ帰ってきたらしい。 そしてそれから二度とその本屋に足を運んでいないらしい。


 吉井くんからその話を聞いた後、私はその店員の彼女がどんな人なのか気になり、特に買うモノもないのに、その本屋に足を運んだ。

 そして、レジに居る眼鏡を掛けた女性の姿を見かけた。レジに居たため、吉井くんが話したような例の歩き方については見ることができなかった。しかし、おそらくこの人だろうと直感的に分かった。一見して控えめで真面目そうな、確かに吉井くんが惹かれたのも頷ける可愛らしい女性だった。  


 私はなんとなく、森鴎外の『青年』という文庫本を彼女の所へ持っていった。彼女は凛とした表情ではきはき対応し、頼んでもいないのにブックカバーまで取り付けてくれた。

 そして、表紙にでかでかと書かれた『青年』の文字は見えなくなった。


 青年―――。


 嗚呼。青年とはいかに儚く、空しい時代であることだろうか。

 私は、彼女に対して「ありがとう」と礼を告げると、その本屋を後にした。




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短編小説『青年』 加藤アガシ @agashikato

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