第八篇 怪物
長い夜が明けようとしていた。山並みが燃え立つように赤々と染まり、日が顔を出すと共に、樹幹を覆っていた黒い影も姿を消した。
ほっと一息ついて立ち上がろうとすると、左足首に鋭い痛みが走った。僕はぐうと呻いた。
僕は辺りをきょろきょろと見回した。草いきれの立ち込める叢にヒサグが身を投げ出してすやすやと眠っているのが見えた。こっちは結局一睡もできなかったというのに、呑気なものだ。
僕は半分夢の中にいるような心地で、これからするべきことを考えていた。ヒサグが、寺の前で草を食んでいた
追手から逃れるためにかなりの距離を移動したから、まずここがどこかさえわからない。身を守るものといえば、菌針がたったの二本だけ。
「どうすんだよ、もう」
僕は歯噛みしながら呟いた。
それに反応してヒサグがみじろぎ、身を起こした。眠たげに半分開いた目で僕を見ている。
「起きろよ」そう言って肩をゆすった。髪はぼさぼさだし、目頭には目やにがくっついているし、ひどい有様だった。ヒサグは虚ろな視線で赤く染まる空をしばらく見上げていたが、それで夢から覚めたかのように、口を開いた。
「あ、セブキ君。起きててくれたんだ。ありがとう」
「見張ってたんだ」ヒサグの言い方は素っ気なかった。仮にも自分のせいでここまで逃げる破目になったというのに、よくもそんな口がきけたものだ。僕は怒りを通り越して半ば呆れていた。
今度はヒサグに見張りを頼み、少しばかり仮眠をとってから、出発することにした。
「ナラズミとスクを探しに行こう」
昨日の激情はどこへやら、ヒサグは平然と頷いてみせた。そして僕が懐から菌針を取り出すのを見てあっと声をあげた。
「ごめん、私、菌針落としちゃった」ヒサグはすまなさそうに俯いてもじもじした。嫌なことは立て続けに起こるものだ。僕は叢を抜けて森に踏み入った。
記憶を頼りに、中栄寺の近くまで戻るつもりだった。
危険ではあるが、闇雲に歩き回るよりはましだろう。もし、最悪の場合、ナラズミとスクが見つからなかったら―それからさきのことは考えたくなかった。
森は、夜とはまた違った様相を見せていた。樹木はぎらぎら光る朝の陽光に葉を光らせながら佇んでいて
、視界の上方はその梢にほとんど覆い尽くされていた。
足元には青々とした羊歯が密生していて、脚で踏む度にぱきゅっという音をたてる。
「セブキ君、私昨日考えたんだけれど」
「何を」つっけんどんに返した。
「ツガク君について」ヒサグは羊歯の葉を踏み分けながら続けた。「吉条先生は、ご家族の意向で寺に修行に行かせるなんていってたけれど、私はまずそこから怪しいと思ったの」
遠くから、
「ツガク君は無理矢理寺に連れていかれて、そしてきっと、そこで何かを見たのよ。それで、寺子たちみんなで画策して逃げ出した。うまく逃げおおせたのは彼だけみたいだったけれど」
「何かって何だよ」
「さあ、そこまではわからない」ヒサグは言った。「でも、知った者を始末しようとするくらいだから、きっと、寺にとって都合の悪いことなんだわ」
ヒサグのいうことは中々筋が通っているように思えたが。それを解き明かしたところで何になるというのだろう。いまするべきことは、ツガクを取り戻すことでも、寺の陰謀を明るみに出すことでもない。ナラズミとスクに、何とかして合流することだ。
ほんとうなら名前を呼び合うのが手っ取り早いのだろうが、追手がすぐそこまで来ているかもしれないのだから、そんな余裕はない。
ヒサグは、それにしてもお腹がすいたね、などとしきりに話しかけてくる。その調子には許しを請うような響きも多少は含まれていたように感じた。
ヒサグは、いやヒサグだけじゃない、女の子というのは不思議なものだ。これみよがしに怒ったり泣いたり、とにかく落ち着きがなくて、腹では何を考えているのか全く知れない。
空がだいぶ明るくなってきた頃、僕は見覚えのある小道を見つけた。
小道は落ち葉に埋もれた平地へ続いていて、近くからは川のせせらぎが聞こえていた。
「しめた、川だ」僕は言って、駆け出した。川沿いに山頂へ向かって進めば、ひらけた場所に出れるかもしれない。落ち葉を踏みしだきながら小走りに進んでいると、後ろからヒサグの声が飛んだ。
「セブキ君、ここら辺の樹、変よ」
「何だって」
ヒサグは幹を指差して言った。「なんだか、何かを巻きつけたみたいな痕がついてる。もしかしたら、近くに人がいるのかもしれない」
言われてみれば、確かにそうだった。聳え立つ木々のほとんどには、幾重にもぐるりと削り取られた痕が残っている。僕は微かに、違和感のようなものを抱いて立ち止まった。
どことなく妙な地形だった。切り立った崖に囲まれた低地に、木々がまばらに生えていて、そして、さっきまでうるさいほどに鳴り響いていた野鳥の鳴き声がぴたりと止んでいることに僕は気付いた。
「ヒサグ、ここはおかしい」
言い終わったか終わらぬ内に、突如落ち葉を水飛沫のごとく中空にいっぱい跳ね散らせて大きな長いものが姿を現した。
それが鎌首をもたげて突進してきた。落ち葉が土くれが縦横無尽に吹き飛び荒れ狂った。腕で顔を庇うのを忘れたために目に土の飛沫が入ったようで、僕はよろめいた。目が開けられない。真っ暗な中に赤い光が明滅していて、体内では血が沸騰するかのごとく滾っている。
すぐ横を突風が通り過ぎていき、風圧をもろに喰らって柔らかい落ち葉の海の中に倒れ込んだ。ヒサグの、鳶のような甲高い悲鳴が尾をひいて、それに続き紙屑を箒でかき回すようなかさかさかさっという音がした。
やっと目が開いた。瞼に睫毛にびっしり土片がこびりついていて、瞬きするたびに涙が出そうなほどに痛かった。僕は肘で瞼を擦り、立ち上がった。落ち葉の海がざわざわと揺れ動いている。
奴はどこへ行った。
目で追う。急峻にそびえたつ崖。それに寄りかかるようにして立っている樹木。ヒサグの姿が視界に入った。
落ち葉を踏み分けて全速力で駆け寄った。ヒサグが口を動かして何か言ったようだが聞こえない。ヒサグの手を掴むよりもはやく落ち葉のうみの一辺がもこもこと立ち昇り続いてまたしても棒のようなあいつが飛び出してきた。
目が痛んだ。瞬きを繰り返しても土片はとれない。
ヒサグの腕を無理矢理ぐいと掴んだ。相対して這ってくる巨大な虫の全貌がようやく見渡せた。いくつもの節に分かれた蛇のような細長い躰。頭から飛び出す長い触覚。下には丸いふたつの口腔がぽっかりと口を開けていてそこからは腐った樹のいやな臭いが漂ってくる。
「
栗山ではまず見かけることはない。把省島でも限られた地域にのみ分布していて、成体にもなれば体長は十五尺をゆうに超える。腐葉土や他の虫の糞を食するいわゆる分解者だが、巨体を維持するために野鳥や小型の哺乳類も捕食の対象に入りうるという。
山百足が上体を持ち上げた。枝のような脚がもぞもぞと蠢き口腔からはしゅるしゅるしゅるという何かを咀嚼するような音がしている。
足元に山百足が寄ってきた。
恐怖に体がすくみかけたが、ヒサグのぬくもりが冷静さを取り戻させてくれた。僕は後ろ手でヒサグを庇いながら慎重にじりじりと下がり、樹の後ろ側に回った。
少なくともこれで間隔が保てる。ひとまずそう安心しかけた矢先に、山百足が俊敏な動きで宙を泳ぐようにして飛び上がり、幹にその体を叩きつけたかと思うとぐるりととぐろを巻いた。
やっと樹についた傷の意味がわかった。こいつは、本来なら遮蔽物となるはずの樹を逆に利用し、枝や幹を伝って移動することで相手を追い詰めるのだ。
矢のごとく山百足の体が放たれた。
たちまち落ち葉と腐葉土の煙幕が立ち昇った。僕がヒサグの手を握り締めて左方に駆け出すと、山百足はそれを既に見越していたのか、細い白樺の幹を中継して後を追ってきた。
「どうしよう、どうしよう」
ヒサグは顔から鼻水と涙を垂れ流して呪文を唱えるようにそう繰り返し呻いていた。僕は目頭に人差し指を突っ込んでぐるりとほじり返し、入り込んだ土を取ろうと懸命になっていたが、うまくはいかなかった。目をつむっていれば何とか痛みはしのげるが、それだとすぐに山百足に追いつかれてしまう。
「ヒサグ、目がだめだ、やばい。手を引いてくれ」
そう叫んで一瞬立ち止まった。ヒサグは困惑したような、焦ったような、変な顔で僕を見た。
刹那、時が止まったように感じられた。
肉体から抜け落ちた魂だけで動いているような感じだった。だから、僕らが立ち止まったままでいる間、山百足もぴたりとその脚を止めたことにも気付かなかった。
朝と夜 クロン @kuro_191
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