第七篇 闇の奥


 僕らは三人の僧人に連れられて、中栄寺にやって来ていた。

正門をくぐると、石庭の真ん中を貫いて白い道が伸びていた。石庭に散らばる落ち葉と道とが、薄闇の中で光を発しているように見えた。


 年嵩の僧人が灯篭の脇を通って寺の中に入っていってから、僕らはしばらく待たされた。若い僧人と髭面の僧人は一瞬の隙もなく樫の枝を構えていて、僕らが少しでも口を聞こうものなら、私語は慎めと低い声で告げるのだった。

 そうこうしているうちに、年嵩の僧人が戻ってきた。僕らは引き立てられるようにして道の上を歩かされた。樹木に囲われて黒々とした中栄寺の輪郭に小さなからだが押し潰されるようだった。


 軋む階段を登ると、左右に開いた木の扉の奥から、真っ黒な闇が口を開けていた。

草鞋を脱いで鴨居を潜ると、ひんやりとした空気が鳥肌を起こさせた。影で皆の顔も黒く染まってしまっていて、ひどく心細い。

 床に裸足の脚をつける度に、張り付くような悪寒がぶるぶると体を通り抜ける。まるで土か水の上を歩いているように冷たかった。


 やがて年嵩の僧人は、一枚の襖の前で足を止めた。夕食をつくるから、ここで休んでいるように。そう告げると、三人連れだって廊下を戻って行った。

 僕は恐る恐る襖を引き、敷居を跨いで真っ暗な部屋に脚を踏み入れた。何の変哲もない和室だった。床は畳張りで、向かい側の襖の上には欄間の窓が開けられている。

 


 

「どこをほっつき歩いてたんだ」

 全員部屋に入るなりナラズミが、怒気をはらんだ口調でヒサグを問い詰めた。ヒサグは引き結んだ唇をゆっくりと解き解して、か細い声をだした。


「言わないで」

「はぁ?」

「どうせ皆、私が悪いって思ってるんでしょ」

 

 ヒサグは頭を抱えて呻いた。僕も何か言葉をかけてやろうと思ったが、うまく言葉が浮かばなかった。


「糞、どうすんだよ」

 闇の中から太い声がした。遅れてナラズミが喋ったのだと気付く。


「とりあえず、泊まっていったらいいんじゃないかな。ご飯だって作ってくれるみたいだし」

 これはスクの声だろうか。即座に、ナラズミが怒鳴り返した。


「馬鹿、何だってあいつらを信用できるんだ」

「ええ、なんで」

「中栄寺には法級から連絡が入ってるはずなんだぞ。俺らだけを泊めるなんておかしいだろうが」


「きっと僕たちが話を聞いたからだ」僕は唇をすり合わせて声を発した。「そうに決まってる。きっと、何か聞かれちゃまずいことを話してたんだ。だから」


「ツガクか!」やや興奮しているのか、ナラズミが大きな声を出した。「ツガクが逃げたとかいう話、あれか」


「ちょ、ちょっと待ってよ。それってどういうこと?」


「そんなでかい声を出すな、ナラズミ。聞こえるだろうが」僕は声をひそめた。「とにかくそれは、間違いないと思う。だからきっと、口封じのために僕らを……消すつもりなんだ」


 静寂が走った。

言い終わってから、言葉の重みがのしかかってきた。気付けば膝が震えていた。


「殺す……ってこと?」スクの声は余りにも無垢で純粋で、僕らを覆う闇にも重みを含んだ言葉にも似つかわしくないものだった。


「いや、もちろんそうじゃない可能性もあるかもしれない。だけども……」

「セブキ君」


 僕の言葉を遮るようにして、ヒサグの声が覆い被さって来た。

いつもの凛とした調子とは打って変わって、暗く沈んだ感じの声だった。


「セブキ君は私のこと嫌いなの?」


 耳を塞ぎたい気分だった。

「いや……別にそんなわけじゃ……。とにかく今はそんなことを話してる場合じゃないんだ」


「そんな話って何よ」ヒサグは言った。しまった、と思った。「大体いつもセブキ君はそうだった。私のことなんてどうでもいいんだ。セブキ君だけじゃない。みんなみんな。馬鹿みたい」


 嗚咽が続いた。わからない。何がそんなにヒサグの気に触れたのだろうか。何もかもがわからないことだらけで、僕は徒労感に押し潰されそうだった。


「ヒサグ、とりえあず落ち着いて」僕が言いかけた時、襖が横に開くするっという音がした。闇の奥に薄ぼんやりとした光を纏って、さっき会った若い僧人が突っ立っていた。


 表情はうかがい知れなかった。ただ一言、食事だ。そう告げて盆と蝋燭を床几の上に置くと、すたすたと立ち去って行ってしまった。


 僕らは気圧されたようにして彼を見つめていた。息のつまるような一瞬ののち、互いに顔を見合わせあった。蝋燭の薄明かりに照らされた級友の顔は、皆能面のような無表情だった。


 それでも、人の顔が見えたことで大分気分が安らいだようだった。僕はヒサグの冷たい視線を感じつつも、盆に置かれた惣菜に手を伸ばした。


「待ってセブキ」スクが言った。


「なんだ、スク」

「もし本当にセブキの言う通り、あいつらが僕たちを始末しようとしてるんだとしたら、これには手をつけない方がいいと思う。その、毒が入ってるかもしれないから」


 言われて初めて気付いた。疲れのせいか注意力が散漫になっているようだ。僕は自らを恥じて、手に取った箸を盆に置き直した。ナラズミがこんなものいらねえ、と吐き捨て欄干から椀の中身(汁と惣菜、それに漬物)を外に放ってしまった。


 それから僕らは十分くらい、思い思いに畳に寝転がって休み始めた。話したいことは色々あったけれど、何だか疲れてしまっていた。もう寝よう、というのは四人の総意だったようで、僕らは蝋燭の明かりのもと静かに目を閉じた。

 

 襖の向こうからにじり寄るような足音が聞こえてきたのは、ちょうどその時だった。あの冷たい床を擦る足音は次第に大きくなってきて、やがて部屋の前でぴたりと止まった。


 襖はぴったりと閉じられていて、相手の姿はうかがい知れない。僕はばくばくと波打つ心臓を必死に抑え、息をひそめた。


 首を向けたいが、我慢する。

襖一枚隔てた向こうで音がした。襖がゆっくりと滑った。実体のない闇が忍び込んでくるようだった。


 僕は反射的に目を閉じた。


 僧人は二人いるようで、部屋の中を歩き回る足音だけが頭の後ろの方から聞こえてきた。


 永遠にも思える時間が過ぎていった。

僧人は一通り部屋を調べ終わったのち、中央の床几のもとに座ったようだった。しばらく息をひそめて出て行くのを待っていると、出し抜けに、地の底から響いてくるように僧人の声が聞こえてきた。

 あの若い僧人と、髭面の僧人に相違なかった。


「……全部食べたようだな」

「死んだだろうか」少し不安げな、若い僧人の声。


「いや、菌が完全に回るまでにはまだ時間がかかる」髭面の僧人の声。「明朝にまた、様子を見にいこう」


 それからしばらく、取り留めのない話が続いた。主に寺の上層部に対しての愚痴や、寺子の修行態度がなっとらん、といったものなど、話題は多岐に及んだ。


 立ち去る間際、若い僧人が、仲の良いもの同士が遊びの約束をする時のような軽い調子で言った。


「死体はどうしようか」

 

「森にでも捨てて置けばいいだろう」

 

 髭面の僧人が、同じく、軽い口調でそう返した。

襖が閉じられて、再び部屋に静寂が戻って来たけれど、もうそこには平穏はなかった。僕は彼らが立ち去るのを十分に待ってから腰をあげ、言った。


「逃げよう」


 最早一刻の猶予もないという現実が、僕らの小さな体を奮い立たせていた。

目を真っ赤に腫らして繰り言をいうヒサグをなんとか宥めながら、僕は僧人たちに気付かれずに中栄寺を脱出する方法を考えあぐねていた。


足音の方向からして、あの二人の僧人は暗い廊下をわたり右手の奥の部屋へ行ったはずだ。


「よし、まず誰か一人、玄関口に回って見張りがいるかどうか見てきてくれ。奴らきっと安心しきってるだろうけど、一応だ」


 僕らは顔を見合わせた。結局誰も申し出なかったので、じゃんけんで決めた。みんなを代表してスクがおそるおそる襖を開け、暗い廊下へと出て行った。


 永遠にも思える時間が過ぎていって、僕がいてもたってもいられなくなった頃、スクが襖の陰からひょいと顔を出した。

「どうだった?」

 ナラズミが勢いあまって訊くと、スクは、頬をぶるぶると震わせながら言った。


「わからない」

 

「わからないってどういうことだ」

 スクはそうナラズミに詰め寄られて、狼狽えた。「わかんなかったんだよ。開け放した門の向こうで、何かがちょっと動いたような気がしたんだ。でも気のせいかもしれないし」

 

 要領をえないスクの言葉に多少いらついたが、今はそんなことに腹をたてている場合ではない。僕は、今すぐ出発する、と告げて、腰をあげた。それから、思い当たったことをみんなに聞いた。


「みんな、菌針きんしは持ってるよね」


スクと、ナラズミと、それからヒサグが頷いた。僕らには護身用として法級から一本ずつ菌針が渡されていた。


「もし見つかったら、躊躇わずに、菌針を打ち込むんだ。奴らは僕らを殺そうとしたんだ。同情してやる価値なんてない」僕はそう言い放ったが、内心はひどく怯えていた。


 必要最低限の荷物を抱えて、僕らはひっそりと部屋を出た。先頭が僕で、後ろにナラズミ、スク、ヒサグが並ぶ隊列だった。廊下はしんと静まり返っていて、物音ひとつしない。


 足音をたてぬよう、慎重に脚を動かす。

何せ周囲は一面の真っ暗闇だから、壁に手をつけていないと自分がどこにいるのかすらわからなくなりそうだ。


 もうどれくらい歩いただろうか。

精神的、肉体的な疲労もあって、僕が歩きながら微睡に入りかけたとき、肩に手が伸びた。


 びくんと肩を波打たせて振り向くと、闇の中にナラズミの輪郭がかろうじて視覚できるほどの薄さで浮かんでいた。ナラズミは左手の方を指差した。

 どうやらもう門に着いていたらしい。僕は闇の中で眠りかけていた自分を恥じ、静かに回れ右をするとナラズミのあとについて歩き出した。


 三和土の辺りはすこし明るかった。ヒサグとスクは菌針をかまえながらそこで待っていて、僕らが闇の奥から姿を現すと、ふたりとも心底ほっとしたような笑みを浮かべた。

 再び僕が先頭にたち、鴨居を潜って外に出た。

途端に、体にはりつくような寒気が襲ってきた。僕は全身に鳥肌が立つのを感じながら、敷き詰められた砂利を踏み歩き、森に入ろうとした。


 後ろから、闇を切り裂くような金切り声があがった。

僕の心臓がきゅっと音をたてて縮こまった。振り向くのが怖かった。体中が硬直してしまったようで、ただ目だけが血走ったように見開かれていた。

 間を置いて、振り返った。


 腰を抜かしてへたり込んでいる少女。我先に駆け出そうとする大柄な少年と、わなわな震えながら立ち尽くしている少年。傍には、三人よりも大きな丸っこい輪郭。


 誰が言ったのか、逃げろ、という叫びが聞こえた気がした。

続いて砂利を踏み荒らす音。ナラズミと思われる大きな影が前を通り過ぎてゆき、あとに続くように小柄な影が砂利を踏み抜いていった。

 寺の中から物音がした。

丸い輪郭が軽く身じろぎして、森の方へと引き返していく。それと入れ違いに、三和土からにゅっと首が突き出た。


 ヒサグが身を起こして、駆け寄ってきた。

僕は後ろを見ずに走り出した。すぐに、何かにけつまずいて盛大に転んだ。爪が剥がれるような激痛を脚に感じた。

 灌木を飛び越え、張り出した蔦や枝を潜りながら、一心不乱に森を突き進んだ。


 頭の中で閃光がまたたく。

森に入るやいなや鼻に飛び込んできたむっとする臭いが一層強くなってきた。暗闇の中に長時間いたせいか目が慣れているようで、かろうじて障害物を見分けることができた。


 坂にさしかかった。

呼吸が苦しくなってきた。口の中に溜まった唾と痰を飲み込もうとしたが、うまく噛み切れない。


 喉をぜえぜえいわせながら坂を駆け上った。視界がひらける。

朦朧としかけた意識の中に、月が綺麗だな、という陳腐極まりない言葉が一瞬浮上して、すぐに消えた。


 


 


 















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