第六篇 寺送り


 ようやくナラズミに追いついた。彼は川辺に歩み寄り、腕いっぱいに蚯蚓蝦をすくいとっては凄え凄えと喚いている。

 僕もさすがにいらついてきて、いい加減にしろよと吐き捨てながらナラズミの袖をぐいと掴んだ。


「何するんだ」

「帰るんだよ」僕は言って、川下の方を指差した。ナラズミは僕に指図されたのが気に食わないのか、へん、と胸を張って言い返してきた。

「お前はほんと、いつもそうだな。偉そうに、自分だけが正しいって顔しやがって。皮肉屋でも気取ってるつもりなのか?」


「何だと」

 僕は一瞬、我を忘れてナラズミの首根っこに掴みかかろうとした。やめてよセブキ、とスクが悲痛そうに止めてくれなかったら、きっと取っ組み合いになっていただろう。

 ナラズミは冷淡な瞳で僕を見下ろしていた。憤っているのは僕だけで、彼は至極落ち着いている、というのが無性に腹立たしかった。


「……とにかく、早く沢に戻ろう。もうじき暗くなる」


 僕はナラズミと真正面から向かい合った。

彼もさすがに、夜の山に取り残されるのは御免だと思ったのか、決まりの悪そうに、渋々と腕に抱えた蚯蚓蝦を川に放してやった。

 

 三人の間に、何とも気まずい沈黙の波が押し寄せてきた。僕が何か言おうと口を開きかけたとき、スクが辺りをきょろきょろと見回して言った。


「あれ、ヒサグがいない」

 僕はぎょっとして、滝の下を見やった。確かに、河原にいたはずのヒサグの姿が見えない。森は既に夕暮れの色に染まってきていて、黒々とした梢が赤い空に飲み込まれるようにざわざわと蠢いていた。


「ヒサグ、おーい」

 僕は岩づたいに下まで降りると、木立に分け入ってヒサグの名を大声で呼んだ。返事はない。


「どうしよう、ヒサグ、どこ行っちゃったのかなあ」

 スクは今にも泣き出さんばかりに顔を歪ませていた。僕もナラズミも刻々と暗くなりつつある空に焦りを感じていた。


 上流を目指して歩いている時には意識しなかったけれど、森には色んな音が響いている。野鳥の断続的な鳴き声に、川のせせらぎ、風に揺れる木立。僕はそういうものの中からヒサグを探そうとしたのだけれど、彼女の姿は一向に見つからなかった。


 スクとナラズミと手分けして森の中を歩き回っていると、脚にかなり痛みが溜まっていることに気付いた。ここまでかなりの距離をあるいたのだから、当然といえば当然だ。

 そういう疲労も相まって、僕は何度も同じ道をぐるぐると巡っているような気分になってきた。この変な方向にねじ曲がった幹を見るのも、もう三度目になるだろうか。それともただの錯覚なのだろうか。


 僕自身少なからず責任を感じてもいたから、焦燥にかられるあまり一種の狂騒状態にあった。ナラズミの大声で意識が呼びさまされた時には、まるで夢から覚めて覚醒した時のように、黒と緑が散りばめられた景色がはっきりと目に飛び込んできた。










 ナラズミとスクが、夕日を浴びて黒い二つの影となって立ち竦んでいる。その傍にはこんもりと葉をしげらせた大きな椴松とどまつがどっかりと腰をおろしていて、幹にもうひとつ、影がもたれかかっていた。


「ヒサグ」

 喉がひゅうっと音をたてて、擦れた声を絞り出した。


 ヒサグは泣いていた。

長い睫毛を濡らして、人差し指で瞼を擦りながら、声を押し殺して、呻くようにして泣いていた。しゃっくりをしているみたいだった。

 僕が近寄っていっても、ヒサグは顔もあげなかった。顔を見られるのがいやなのか、俯いたまま、また指で瞼を擦った。


 僕がヒサグの手を引いて立ち上がらせようとした時、丘を挟んだ向かい側の木立の方から、藪を踏み分けるざわざわという音が聞こえてきた。それに、数人の話し声も。


「……まったく、どこまで逃げたのやら、あの餓鬼は」

 一間置いて、しわがれた声が返す。

「把中一帯に網を敷いてるらしいが、まだ見つかってないそうだ」


 ざわざわという音が近付いてきた。僕らはまるで金縛りにでもあったかのように動けなかった。


「あれが本土にでも渡ったら、大変なことになるだろう」

「総来寺のぼんくら僧どもが悪いのだ。ちゃんと監視の目を光らせておかないから……」


「そういや何といったっけかな。あの餓鬼の名前」

 また、しわがれた声。

「ちょうど今来てる、栗山の法級から送られてきたもんだろう。ツガクとか言ったっけか。全くこの忙しい時に林間法級など、何という間の悪さよ……」


「ツガクだって?」


 ナラズミが驚いて、大声を出した。

その瞬間、僕はまるで、奥原の時間が止まったかのような錯覚を覚えた。森から聴こえる様々な音もぴたりと止み、川もその流れを休止したかのように凍りついた。


 丘の向こうで不気味な静寂がおこって、瞬く間に辺りを支配した。

目を伏せていたヒサグも、異様な波に飲まれてはっとして顔をあげた。


 沈黙を破ったのは、丘の向こうから聴こえてくる実体のない声だった。

「誰かそこにいるのかい」


 四人、顔を見合わせた。

咄嗟に僕が代表して口を開く。


「栗山法級の年長組です」


 沈黙。

間を置いて、草地に伸びた樹木の影から、にょきりと人の影が伸びたかと思うと、袈裟に身を包んだ三人の僧人が顔を出した。三人とも鉢笠を被っていて、手にはそれぞれ太い樫の枝を手にしていた。


「ここは寺の私有地であるぞ。何故に来たか」


 一番若いと思われる、長身の僧人が厳めしい声でそう告げた。目元は笠の影に隠れてよく見えなかった。


「その、夕食のために、蚯蚓蝦を獲っていたんですが」

 長身の僧人が微かに身じろぎした。傍らの二人と、ひそひそ声で話し始めた。話は長くて中々終わらない。僕らがいい加減じれったくなってきた頃、ようやく話がまとまったのか年嵩の僧人がこっちに近寄ってきた。

「今夜はもう遅いから、中栄寺に泊まっていきなさい」


 えっ、と思わず驚きが僕の口をついて出た。

咄嗟に後ろを振り向くと、ナラズミも困惑した表情で僧人を見やっていた。ヒサグはといえば、目を赤く腫らして何も喋らない。スク―スクは、今にも逃げ出したそうに体を震わせていた。


「いや、でも流石に」ナラズミが苦笑いしながら拒否の意を伝えようとしたが、年嵩の僧人は、泊まっていけばよろしいと繰り返すばかりだ。

 気がつけば、僕ら四人を囲むようにして僧人が立っていた。

大変なことが起きた。巻き込まれた。直感的にそう感じた。焦燥と、小便が漏れそうになる感覚。


「中栄寺はすぐそこでよ」


 年嵩の僧人がそう言った。それで、僕らは追い立てられるようにして歩き出した。胸が得体の知れない心細さに包まれて、張り裂けそうだった。


 空は真朱に染まっていて、それはこれから僕らを待ち受ける壮絶な運命を示唆しているようだった。




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