第五篇 奥原の森
川底に積もった小石の原の上を、
ナラズミが何事か喚き、僕もすかさず尻尾を掴み取ろうと水の中に腕を突っ込んだが、蚯蚓蝦はするりと両手を抜けていってしまった。
「何やってんだ」
蚯蚓蝦は水面をざわめかせて恐ろしい速度で移動し、慌てふためくスクの股下をくぐって逃げ去っていく。
僕が間髪を入れずにナラズミに怒鳴り返した時、蚯蚓蝦はヒサグの足元まで来ていた。ヒサグはきゃあと悲鳴をあげると、すぐさまざぶざぶと水をかきあげ河原に上がった。
その内蚯蚓蝦は下流の方へと姿を消してしまった。僕は覆い被さってくる徒労感にはあとため息をつき、膝を落とした。
僕らが林間法級に訪れた
荷車に計十時間も引かれて辿り着いたのが、こんな田舎の村落なのだから、落胆は大きかった。けれども途方に暮れている暇もなく、僕らには夕食の食材集めという指示が与えられた。山に分け入り、汗を流して野外活動を行うことが、心身の鍛練になるとのことで、僕ら六班は宿泊場所の中栄寺にほど近い沢で蚯蚓蝦を捕まえることになったのだ。
蚯蚓蝦とは把北から把中にかけて広く分布する小さくてすばしっこい虫で、栗山でも浅い川底や堰なんかでよく見かける。体はやわらかく弾力のある茶褐色の殻で覆われていて、頭部からは髭に似た長い毛が伸びている。
また身ごもっている雌の体からは、卵嚢管と呼ばれる卵のいっぱい詰まった袋がぶらさがっていることがあって、一時期僕らの間ではそれを無理矢理引っ張って千切り取るという残酷極まりない遊びが流行っていたことがあった(先生方に発覚してからは禁止されてしまった)。
「ああ、くそ」
ナラズミが腹立ちまぎれにばしゃばしゃと脚を踏み鳴らして、呪詛を呟いた。沢に面した、切り立ったちさな崖に声が吸い込まれていった。
僕らはここに至るまでまだ一匹しか蚯蚓蝦を捕えられていなかった。引率をしてくれた吉条先生も、他の級徒たちの様子を見に行くなどと言って立ち去ってしまっていた。
「やっぱり場所を変えた方がいいのよ」
不機嫌そうに顔をしかめて、ヒサグが言った。僕もそうした方がいいと思った。そもそもここらには蚯蚓蝦があまり生息していないようで、たまに見つけたと思ってもすぐに先刻のごとく逃げられてしまうのだ。
誰が言うともなく、日差しが照りつける中を僕らは川沿いに歩き出した。
沢を渡って、向かい側の
川はゆるやかに傾斜を描いて流れていて、僕らが上流に近付くにつれてだんだんとその幅を狭めていった。
「やっぱり山の中だから、空気がおいしいね。セブキ君」
ヒサグが、
「別に珍しくもないよ」
ちょっとからかってやろうとそう口にすると、ヒサグはきっと僕を睨みつけてきた。
「な、何だよ」
その眼つきが余りにも凄かったから、僕はちょっと狼狽えてしまった。
「ここに来てまでそんなこと言うの」
前を行くスクが振り返って僕をじっと見つめた。何だか悪いことをしたのを咎められたようで、僕はそれを誤魔化すためにぎこちなく笑った。
「ただの、冗談だろうが。そんなに怒るなよ」
「馬鹿みたい」
ヒサグは、悲しいような、怒ったような顔をすると、一言吐き捨ててそっぽを向いてしまった。
傍らのナラズミが、にやつきながら肩を組み合わせてきた。吐息が顔にかかって、不快だ。
「傷つけちゃったなあ、セブキ」
「何をだよ」
ナラズミはヒサグを指差して言った。
「あいつなあ、きっとお前と話したかったんだと思うぜ」
「そうかよ」
全くわけのわからない女だ。いきなり怒り出したりして。
やがて苔むした岩に囲まれた渓流が見えてきた。小さな滝があちこちに点在していて、川の流れも分散しているようだった。まだ夕暮れにはほど遠いけれども、空は曇ってうっすらと暗くなっていて、さっきまで川面にさんさんと降り注いでいた木漏れ日も忽然と消えている。
「さ、早いとこ捕まえちまおうぜ」ナラズミがそう言って、笊を手に岸に向かった。僕らも後を追う。
さっきの沢とは打って変わって、蚯蚓蝦は面白いほどによく見つかった。川幅が狭いせいもあって逃げ場も限られているので、簡単に捕まえられる。たちまち僕らの笊はいっぱいになってしまった。
「凄いな、こんなにいるなんて」僕が感嘆していると、笊の中でぴちぴちと水を散らす蚯蚓蝦をじっと見つめながら、スクが言った。
「きっと上流の方が栄養が豊富だから、ここに集まって繁殖してるんだ」
「おい、凄いぞ。見てみろよ」
ナラズミの声が上方から響いてきた。僕とスクは鎮座する巨石をひょいひょいと伝って、滝の上に出た。ナラズミは先の、恐らくは源流に近い流れを指差して喚いていた。
「何だろう」
近寄ってみると、そこには大量の蚯蚓蝦が急な流れにもびくともせず、身を寄せ合って蠢いていた。ナラズミは得意気に胸を張って、俺が見つけたんだ、としきりに主張している。
僕は水面に顔を近付けて、蚯蚓蝦たちを観察してみた。
長い髭をくゆらせて、川底に張り付いているかのようにその場を動こうとしない。遠くから見れば、石だと勘違いして気付かないかもしれない。
僕は顔をあげた。
「でも、こんなにいっぱい持ち帰れないぞ」
「そんなの、後から先生方を呼べばいいだろ。なあセブキ、先行こうぜ。もっといるかもしれねえぞ」
ナラズミは瞳を輝かせてさらに上流へと駆けていってしまった。
おい待てよ、と僕が呆れながら後を追うと、スクもすこし間を置いてついてきた。ヒサグのことが一瞬頭を過ったが、やっぱり不愉快だったので、すぐに追いやってしまった。
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