第四篇 知らないもの
林間法級を先に控えたある日のことだった。級庭に、大きな黒い虫の死骸が打ち捨てられていた。
初めに発見したのは級徒委員のキヌイで、彼によれば一目見た時には倒木か何かだと勘違いしたそうだ。僕が法級に着いたのは、三々五々下級徒たちも投級してきて、騒ぎが一段と大きくなってきた頃のことだった。
物知りのキヌイでさえ知らなかったのだから、僕らにその虫の正体がわかるはずもなかった。級室の窓に面した辺りで、ああでもないこうでもない、と議論が交わされていた。
虫は大きかった。
やがて吉条先生が長髪を靡かせて級室に入ってきた。
「先生、あれは何なんですか」
ナラズミが窓の外を指差してそう訊ねると、吉条先生はさして興味もなさげな様子で歩み寄り、黒い虫の死骸に目を凝らした。
「何だかねえ。根賽先生に聞いてみないことには、先生にもわからん」
それっきり黒い虫に関する話は途切れてしまって、いつものごとく授業が始まった。
でも、何しろ級庭のど真ん中にそいつがいるのだから、気にならないはずがなかった。僕も水面下で、誰かまた口を開いてくれないものかと密かに願っていたが、結局誰も触れずに一時限目が終わってしまった。
休み時間になると、下級徒たちが一斉に死骸に駆け寄って行った。すぐに先生に止められて皆すごすごと引っ込んでいってしまったが、そうしたい気持ちは僕も山々だった。
「なあセブキ、どう思う」
後ろの席のナラズミが顔を近付けて話しかけてきた。
「さあね」
僕が気もなさげに返事をすると、ナラズミはさらに顔を近付けてきた。
「俺は、莢被りの呪いだと思う」
「呪い?」
「ああ」ナラズミは頬を上気させた。「虫送りの時、先生が菌針で莢被りを射ち殺しただろう。きっと恨みをもって、出てきたんだよ」
阿保らしいことこの上ない。第一、あの虫と莢被りとでは形も大きさも全然違うではないか。そう指摘すると、ナラズミはむきになって言い返してきた。
「ちげえよ、死んだ莢被りが、冥界から虫を引き連れてきたんだ。だからあれは、ここらじゃ全然見かけないような姿をしてんだよ」
そんなふうに語らっていた時、突然に、ぶるんぶるんと風を切る音がして、級室の窓枠が細かく揺れ始めた。
窓から身を乗り出して上空を見やると、曇り空に黒い点がぽつぽつと浮いていた。
「
ナラズミが言った。
熊蜻蛉自体は、別に珍しいものではない。
節翅虫目アキツ科に属する虫。大きさは狸か鼬ほどのもので、名前の語源としては褐色の甲殻が羆を思わせるという説や、その特徴的な翅音が同じく羆の唸り声を連想させるといったものなど諸説が存在するらしい。
またここらでは獲物を求めて上空を旋回しているのをよく見かけるから、姿自体は見慣れたものだった。けれども、級庭に転がる得体の知れない虫の死体と、どんよりと灰色に濁った空の色も相まって、熊蜻蛉の空気を震わせるような翅音は僕に何とも不吉な印象を抱かせた。
やがて熊蜻蛉が翅を羽ばたかせながら降りてきた。
黒い虫が大きいせいもあるのだろうけれど、やたらに小さく見えた。
熊蜻蛉は細長く伸びた頭部を伸ばして黒い虫の体にちょこんと触れた。その拍子に複眼の下の、千切れかけた触覚がゆらりと揺れ動くのが見えた。
「きっと、あの死体をいただくつもりなのよ。卑怯なやつ」
いつの間にかヒサグが窓によって、そんなことを呟いていた。
狩りをして捕えた
鳥が啄ばむようにして、熊蜻蛉が黒い虫の甲殻に喰いついた。しばらく見守っていると、一匹を残してみんな山へと飛び去っていってしまった。
「あれ、行っちゃった」
昼休みになって、先生方が皆級庭に出てきた。
その内に虫の死骸は縄で括られて、荷車でどこかへと運ばれていった。
既に根賽先生のもとには級徒たちが大勢訪れていて、先生は矢継ぎ早に投げかけられる質問の波にいささか混乱しているようだった。そして、級徒たちが落ち着いた頃合いを見計らって、根賽先生はたった一言重い口を開いた。
「皆、もうあれのことは忘れなさい」
僕も含めた級徒たちは、皆一様に、きょとんとした顔で根賽先生を見返した。
その声音には何だか有無を言わせぬものがあって、皆は気圧されたようにして刹那黙り込んでしまった。空気までもが凍てつくような一瞬を置いて、またお喋りと質問攻めとが始まったが、根賽先生は何も言わずに職員室を出て行ってしまった。
「何だよ、あれ」
不満そうにナラズミが呟いた。僕も傍らでもやもやした気持ちを抱えていたのだが、そんな時、じっと根賽先生の萎びた顔を見つめるスクの姿が視界を過ぎった。
「
スクは静かに、低い声で囁くように、そう告げた。
キヌイが、え、何だって?と聞き返したが、スクはなにも答えなかった。
僕は内心、スクの言葉に動揺していた。
そうだ。なぜ今まで気付かなかったのだ。あの細長くて脚が異様に太い不格好な姿は、横詰飛蝗そのものじゃないか。
しかし、言わずともそんなことは有り得ないのだ。把中に広く分布する横詰飛蝗は、大きめの個体でもせいぜい僕らの指の先から肘くらいまでの体長しかない。
だから、あんな羆よりも大きな横詰飛蝗がいるはずがないのだ。
そう思った途端に、背筋を冷たいものが流れ過ぎた。
じゃあ、あれは何なのだ。
先生方はあれをそさくさとどこかへ運んでいってしまった。まるで僕らの目から隠すようにして。
僕はしばし逡巡したけれど、結局何も言わなかった。
踏み入ってはいけない。僕自身、あまりそういうものを信じるたちではないのだけれど、直感的にと言うべきか、そう感じ取ったのだ。
帰り路、山裾の方で大きな煙がもくもくと立ち昇っていて、その上を熊蜻蛉が輪を描いて飛んでいるのを僕は見た。
凄く嫌な感じがして、すぐに目を背けてしまった。
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