第2話

 昨日と変わらぬ光景に、もしや昨日をもう一回繰り返してるのかと、本気で一瞬だけそう思った。


「水無君は……本当に……」


 そう吐き出した担任の岩沼先生は、額に手を当てて俯いてしまった。

 今日も俺は元気に遅刻。理由はない。いや、あるっちゃある。一昨日発売されたばかりの漫画の新刊をやっと手に入れて、読んでるうちに前の話しが気になって、気づいたら全巻読み直していたっていう、よくあるアレで寝坊したのだ。

 更に、今日が最終締め切りだった『夏休みの暮らし方』のプリントをうっかり家に忘れてきてしまったので、またまたこうして放課後に呼び出しを喰らってしまったのである。

 昨日と違うのはただ一点。説教してくる先生が違うという事だけだ。職員室という狭い場所も、俺の前で自席に座ってる事も、鼻を掠めるコーヒーの香りも、コピー機のガーガーいう音も。昨日をもう一度繰り返してるかのように、寸分違わず変わらない。

 下を向いたままの岩沼先生は、極々小さなため息を吐いている。いい加減にしろよと言いたげな空気が、先生の方からバシバシと出ていた。


「はぁ、水無君……先生、君が分からないよ……ほんとに分からない……」


 消え入りそうなか細い声で呟く。

 前にも聞かされたお馴染みの台詞だが、俺は黙って耳を傾ける事にした。

 以前、そう言われた時に「他人を理解できる人間なんて一人もいないんじゃないっスか?」と口を挟んだら、先生の目が潤みだして、その日の説教が長引いたからである。教師のくせに豆腐メンタルすぎだろ。


「先生ね、本当に君が分からないの……どうしてこうなったのかなって……ううん。先生がどうしてあげたらいいのか、それが分からなくて、先生苦しいの」


 アラサーちびの岩沼先生は、胸の辺りをきゅっと掴んだ。息苦しそうなその仕草が、辛うじて残っている俺の良心をじわりじわりと咎めてくる。


「先生がしっかりしてないから……ほんと、ダメだよね……」


 先生がグスッと鼻をすすった。おい、黙ってたのにまた泣いてんのかよ。

 うんざりしてる俺の周りだけ、何やら湿っぽい空気が流れていた。あーあ、こんな湿っぽさなら、昨日のプールのほうがよっぽど良かった……。

 と、プールの存在を思い出し、俺はこっそり辺りを見渡す。

 岩沼先生から二列奥の席。一番窓際の端にある五十嵐先生の席はもぬけの殻だった。柔道部かフィン部に顔を出しているんだろうか。体育教師らしいアクティブさがちょっとだけ羨ましくもある。

 ただ突っ立って話を聞いてるよりは、体を動かすほうが楽だからだ。だから教師はよくよく考えたほうがいいよ! こんなの折檻と変わらないから! つまり、俺を早くここから解放しろ。

 しかし、そんな願いも岩沼先生には届かず、少し首を傾げながら顔を上げた。


「ねぇ? どうしたらいい? 先生、どうしたら水無君を変えれるのかな……?」


 涙声の先生の顔が、ゆっくりこちらを見上げてくる。異様に白い肌の中央で、マスカラばりばりな先生の目元がちょっとだけ黒ずんでいた。


「どうしたらって……俺にも分かんないっスよ」


 つーか生徒に答えを求めるなよ。

 俺がいつものように答えると、先生は不服そうに唇を尖らせた。


「そうだよね、水無君も分からないよね。ごめんね、先生が頼りないから」

「いや、先生がどうとかじゃないっスけど……」

「じゃあどういうこと?」

「どうって……それは分かんないスけど……」

「分かんないって、水無君もそればっかり。先生こそ分かんないのに」

「……すみません……」


 なんだこれ……超めんどくせぇ!!

 要は自発の懺悔を促したいのだろうが、回りくどくて聞いてられない。これならば昨日の五十嵐先生みたく「ダメだ。直せ。ルールを守れ」のほうが、よっぽど心に響いてくる。

 中身のない空虚な会話だけで、時間がどんどん経過していく。さっさと終わらせて帰りたいが、職員室の空気がそれをさせない。

 職員室に呼ばれた生徒=何か問題あって来てる生徒。

 この図式が既に成り立っている為、説教途中の先生を放置して勝手に帰るわけにもいかないだろう。そんなことをすれば、俺は更なる問題児へと昇格してしまいかねない。

 はぁーと長めに息を吐いた先生は、小さくかぶりを振ったあと、細い眉毛の先をキリッと吊り上げて睨むような目つきで俺を見てきた。


「もう水無君も三年なんだよ? 三年生! 高校受験生!」


 岩沼先生が強調しながら三本指を立てる。指が短い。シワが多い。爪が伸びすぎている。切れ! そんな爪!

 オシャレのつもりなんだろうが、もし風波かざなみ中が給食制ならば速攻で切らされていたと思う。良かったな、ここが牛乳のみを出す牛乳給食の学校で。

 三本指を顔の前で振りながら先生は話しを続ける。


「受験生と言えば、真面目にやらなきゃない大事な時期だよ?」

「はぁ、まぁ、そうっスね」


 なら二年間は遊んでてもいいのかよ。むしろ三年までは不真面目でいろと言われているような気がしなくもない。


「三年って人生の節目だよ? みんな真面目に取り組んでるの」

「はぁ」

「だからね。水無君も、みんなみたいにしっかりして欲しい。いつまでも子供じゃいられないんだからね?」


 そう言った岩沼先生の机の上に、某有名なプリンセスのグッズが所狭しと乗っかっていた。


「そういえば歌にもありますもんね。大人の階段のぼるって」

「そう……っ! 君はまだシンデレラさってね。やだっ! 先生まだシンデレラ気分っ!」


 きゃはっ! っと両手で顔を覆う。いやいやいや、いつまでお姫様でいるつもりなんだよ……。年齢的にも限界がある。

 うっとりした目の先生は、幻でも見えているのか虚空を見つめたていた。

 いい加減に帰らせろよ。それと、本当のプリンセスならば、顔だけ白浮きしたり目の下を黒くするミスは犯さないと思うぞ、絶対。


「あ、そうだ!」


 あらぬ方向を見ていた先生が、突然にパチンと手を打った。


「だったらさ、水無君が夏休み中にボランティア活動したらいいんじゃないかな?」

「すみません。だったらってどこに繋がってるんスか」


 どことも繋がりもってねぇよ。

 しかし、先生はそんなのお構いなしにさっさと話しを進めてしまう。


「きっとそれがいいよ。ううん、それしかない。先生が水無君にしてあげられるのは、それしかないんだよ」

「……え? それはちょっとやりすぎじゃないでしょうか」


 ちょっと待てよ。なんだよこの突飛な発想。どこからどう繋がってボランティアになるんだよ。

 だが先生は、嬉々として活動のプランを話し始める。


「学校で飼ってるウサギが居るでしょ? 普段は特別教室の子たちがやってるんだけど、夏休み中は用務員さんがしてるんだって」

「はぁ、そうなんスか……え? まさかそれをやるんスか?」

「そう! 動物への世話であなたのボランティア活動をアピール! 更に水無君の内申もアップ! good idea!」


 英語教師らしく、岩沼先生がペラッペラな発音で言い切った。

 いやいやいや、無い! それだけは無いだろ!

 夏休み中は引き篭る予定なので、反駁しようと口を開く。


「あの、先生__」

「__岩沼先生、ちょっと待ってください」


 すると、絶妙なタイミングで誰かに遮られてしまった。誰だ? と思いつつ後ろを見る。

 俺とさして変わらない目線。片目を隠すような長めの前髪。無造作に括られたポニーテール。

 ジャージを担ぐように肩に掛け、手を腰に当てて立っていたのは、アラフォー体育教師の五十嵐茜先生だった。

 まるで仁王像かのごときその立ち姿がカッコ良すぎてもうヤバい。

 唐突な救世主__五十嵐先生は、俺と岩沼先生の間にずいっと割って入ってきた。


「岩沼先生は担任です。決めるのは先生自身です。けれど、遅刻や提出期限を守らない罰が、ウサギの世話というのはどうでしょう」


 五十嵐先生の急な登場に、岩沼先生はア然としている。

 その先生を見据えながら、五十嵐先生は訥々と語り始めた。


「ここがいくら雪国とは言っても、年々温暖化が進んでおり、関東だろうと東北だろうと、その気温に大差がなくなってきています。暑さにやられるのは、当たり前のことですが人間だけではないのです。植物だって動物だって、気温の変化で体調に異常をきたします」


 え? 環境問題の話しですか?

 岩沼先生も不思議そうな顔をしている。

 が、ここからが岩沼先生の本題だった。


「我が校で飼育しているウサギは、人間が手を加えてやらないと水浴びすら出来ません。しかし、それを行う人間が毎日毎日遅刻をするような怠け者だったらどうなるでしょう。日中の暑さで体内の水分がどんどん奪われていく。待てど暮らせど世話役が来ない。餌もいつしか無くなった。

ウサギには何も罪がないのに水無にやらせるなど……言語道断です!」


 先生がグッと拳を握る。


「おい、ちょっと、先生? 俺を極悪非道な誰かと勘違いしてませんか? 助けに来てくれたんですよね? ヒーローでしょ? ヒーローじゃないんスか!?」


 守ってくれる為に来たのかと思ってたら……。五十嵐先生は最悪な言い方で俺を貶しただけだった。


「そう、ですね……あんなに元気なウサギたちが、もし円形脱毛症なんかになったら……ううん。最悪、餓死なんてこともあるかもしれませんね……」


 深刻な顔で岩沼先生も、五十嵐先生の話しに同調している。ちょ、岩沼先生までなに言ってるんスか? あるわけないだろそんなこと。

 けれど、二人の先生は俺を悪役にし、勝手に話しを進めてしまう。


「分かっていただけましたか。水無には無理だという事が」

「はい。私はウサギを死へと導いてしまうところでした。……やっぱり私ってダメですね」

「そんな事はありません。ダメなのは岩沼先生ではなく、水無なのですから」

「でも私は、その水無君のダメさを知りながら深くまで考えていませんでした……さすが五十嵐先生〜年の功ですね!」

「ふふふ、岩沼先生……年は関係ありません。ただだからですよ」


 ふふふあははと笑い合う。

 岩沼先生……五十嵐先生に年の話しは完全アウトだから。よく覚えといてください。


「そこで、ですが」


 五十嵐先生が一歩詰め寄る。岩沼先生が身構えた。


「水無にはウサギの世話は無理だという事をご理解いただけたと思いますが、だからと言って連続遅刻をそのまま見過ごすというのもいただけません。

どうでしょう____夏休み中、部活動に励ませるというのは」

「なんかおかしいと思ったら……そういう事かよ」


 思わず、口を挟んでしまう。

 なんか先生が入って来た時点でちょっと薄々察してはいたけど、でもまさか、そんなはずないだろって先生を信じていたのに……っ!!


「先生、俺フィンはやりませんよ」

「そうなの? じゃあウサギの世話を」

「もっと嫌なんですけど!?」


 五十嵐先生に言ったつもりが、担任の岩沼先生に拾われてしまった。まぁ俺が先生としか言わないから悪いんだけど、マジで察しろよ。

 こほっと軽く咳払いをしてから、しっかり五十嵐先生を向いた。


「五十嵐先生、俺、ウサギの世話もやりませんし、フィンスイミングもやりませんから」


 それとこれとは話しが違う。そもそも今日は、岩沼先生に説教されているのだ。五十嵐先生はお呼びじゃない。


「ふむ? ならば夏休み中はどう過ごす気かね?」

「必要最低限の行動はとらないつもりです」

「ふっ、君が昨日言っていた半端篭りになるつもりか」


 小さく鼻で笑った先生は、「ならば」と言って岩沼先生を見た。


「岩沼先生、水無は自宅で頑張りたいそうです。他の生徒の倍以上、課題を出しても良さそうですね」

「ほんとですか〜? 水無君、英語が特にひどいので心配してたんです」

「たっぷり出してやりましょう。あ、ついでに数学の小佐陰こさいん先生にも私から掛け合ってみましょう」

「わぁ〜助かります! さすが五十嵐先生! 教師歴が長いだけありますね!」

「ははは、岩沼先生。あなたと違いがないんですよ?」


 うふふふあはははと笑い合っている。

 岩沼先生の年イジリって、これもう絶対わざとだろ。おっと、二人の笑顔を見ている場合じゃない。俺は俺でやるべきことがあるんだと、はっきりと伝えておかなくては!


「先生方、俺はこの夏休み中、やりたいことがあるんです」


 言うと、先生たちは胡乱な目つきで俺を見やる。

 二人分の視線でちょっと怯んだが、俺はぐっと腹に力を入れて、夏休みの抱負を発表した。


「………………じ、自分探しの……旅に、出ます……」


 行くあてのない旅! 男のロマン!

 けど、言ったらなんだか猛烈に恥ずかしさがこみ上げてきた。

 こうした会話は教師とするものではなく、やっぱり友達とするに限る。

 半分ふざけ半分マジな俺の夏休みの課題は、先生二人に軽く黙殺されていた。


「やっぱりプリントだと提出しない可能性がありますし、部活参加にしましょう」

「岩沼先生がそう決められたならば、私は尽力しますよ」

「どこか水無君を受け入れてくれる部活、ありますかね〜?」

「大丈夫です。最近、案が通ったばかりの『特設フィンスイミング部』。あそこにぶち込もうと思います」


 生き生きとした目の五十嵐先生が、筋肉をアピールするように腕を曲げた。

 もう……ぶち込むとか言ってる時点で怖いんで、これ以上は勘弁してください……。


「あぁ〜、そういえば職員会議で言ってましたね」

「ええ。元々、大会参加は決定していて高い順位を出すことを目標にしている部活ですから、彼らもやりがいがあるでしょう」


 大会参加は決定済みって、それなんてブラック部活だよ。というか、話しが着々とまとまっていて、俺の夏休みが消えそうになっている。


「そうですか。じゃあきっと、水無君もやる気を出してくれますよね。五十嵐先生、水無君をお願いします」

「任せてください、と言いたいところですが、岩沼先生も水泳部顧問をされてますよね? 互いに頑張りましょう」

「あ、そうでした〜忘れてました。私、昔からうっかり者で」

「いいえ、先生。それはではなく、ですよ」

「ええ〜やだ〜五十嵐先生じゃないんですから。違いますよ〜」


 おほほうふふと笑い合ってはいるが、五十嵐先生が反撃に出たせいか二人の周りを黒いオーラが渦巻いていた。

 怖い! つーか俺の話しを聞けよ。


「俺、やりたくないっス」

「五十嵐先生、ではお願いします。私も行ける時は見に行きますので」

「分かりました。一先ずは私が見ておきましょう。さぁ水無、行くぞ」

「行きたくな__グェッ!!」


 逃げようとしたその瞬間。素早く伸びてきた五十嵐先生の手に、ジャージの襟首を掴まれた。


「後堂に細谷に輪浮。みんなが君を待っているぞ」


 にっこにこに笑う先生は、俺を猫を扱うように首元を掴んだまま意気揚々と歩き出した。


***


 俺の通っている盛岡市立波風なみかぜ中学校は、面積が北海道に続いて二番目に広い岩手県の中央部に位置している。

 左に奥羽山脈、右に太平洋を抱え、夏は暑く冬はものすごく寒いという、正に日本の四季をしっかり反映してくれる非常に自然み溢れる場所なのだ。

 有名なところと言ったら海女ちゃんが居るリアス式海岸だろうか。

 入り組んだ入り江が特徴で、プランクトンが豊富にあるお陰で、漁獲高もそれなりにあるのだ。できればめちゃめちゃ採れるよ! とアピールしたいところだが、上の青森県や北海道に負けがちなので口を慎んでおこうと思う。

 あ、あと。海女ちゃんがよく「じぇじぇじぇ!?」と言っていたが、あの言葉は岩手じゃマイナーなのであまりオススメは出来ない。岩手でメジャーな言い方は「じゃじゃじゃ!?」である。あんま変わんねぇな。

 因みに、岩手は県の縦幅がものすんごく長い為、県北の者は上の青森県へ買い物へ行き、県南の者は下の宮城県へと行きがちである。中央部の者は雫石に行きがちである。おい、もっと盛岡で買い物しろよ。


 北東北に位置しているとはいえ、昼間の暑さを残す風は、ぬるい申し訳程度の微風となって窓から入り込んでくる。

 ただ立ってるだけでも汗が吹き出す、真夏の午後の廊下はとても静かだ。

 先生は無言でさくさく進み、俺の襟首を掴んだままプールへと向かう階段に差し掛かった。

 一歩、先生が足を踏み出したとこで、俺は慌てて声を上げる。


「せ、先生! 自分で歩きますから!」


 この状態で階段を上がられてしまうと、段差の高低差で首吊り状態になりかねない。先生にやんわり抗議すると、「ん? そうか」と言って、すぐに手を離してくれた。

 ふぅ、良かった。首も無事だ。

 頭としっかり繋がってることを確認しながら息を吐く。ただ、ジャージの襟が若干伸びたのは許されないことだと思う。


「大会は来月の末に行なわれる。時間が少ないからな。しっかりと励むように」


 二階へと段を上がりはじめた先生が、唐突にそう切り出した。


「夏休みが終わってから、という事になるが、まぁ余りメジャーなスポーツじゃないぶん致し方ないところだろう」

「先生、ちょっと、大会って……なに言ってるんスか。俺まだやるって決めてもないんスけど?」


 助けてくれたことには感謝している。けど、これはこれ。それはそれなのだ。

 先生の二段下でぽつりとぼやけば、階段を上がりつつくるっとこちらを振り向いた。


「行きたくないのか? 大会は県内で行われるわけじゃないんだぞ?」

「じゃ、……!?」


 にんまり笑った先生を見て、思わず「じゃじゃじゃ!?」と答えそうになった。あぶないあぶない……そんな言葉を使ってしまったら、先生以上の年寄りになってしまう。


「じゃ、……じゃあ、どこでやるんスか?」


 言いかけた言葉を上手くごまかしながら、先生に大会の場所を問う。


「市民プール? 碁石海岸? 浄土ヶ浜? それか海女ちゃんのとこスか? 」

「それは全て県内だろ……。違う、大会場所には新幹線で行く。君たちが大好きな、関東だ」

「じゃじゃじゃ!!!?」


 もう、うっかりどころでなくはっきりと口から出てしまった。

 関東ったらあれじゃねぇか。オシャレと最先端機具で出来ている、俺の憧れの場所じゃねぇか!

 去年、修学旅行で東京に三泊四日で行ったから、行くとなればそれ以来の関東旅行となる。


「か、かか、関東のどこっスか!?」

「落ち着け。君はまだやりたくないと言っていたじゃないか」


 前を向いてた先生が、ちろっと俺を振り返る。


「うっ!? ま、まぁ、そうっスね……」


 確かに、俺は昨日から拒否ばかりをして、入部するとすら言っていない。しかもさっきも否定をしたとこだ。だが、先生がそれを言うのはなぜだろう? てっきり済し崩し《なしくずし》的に入部させるもんだと思っていたのに。


「先生は俺にフィンをやらせたいんじゃないんですか?」


 というか、始めからそれ目的であそこに連れていかれたのだから、そうでしかないと思う。

 先を上っていた先生は足を止め、俺の隣に並んできた。


「確かに、水無に入部してほしいと思っている。四人揃わないとリレーは出来ないからな。大会申し込みも、もう差し迫っていることだし……」


 ボロい校舎の煤けた天井を見上げ、自嘲するような笑みをこぼす。


「だが、やって欲しいというのは私のただの願望だ。そこに水無自身の意思はない。それじゃ意味がない、と私は思う。なぜなら、そこが水無にとってのぬるい湯船になってはいけないからだ」


 二階を越えて三階へ。昨日と同じように俺たちは話しをしながら淡々と上っていく。


「それってつまり、先生が昨日言ってたことと繋がってますよね。逃げも甘えも一緒だって。そうなる場所がフィン部だったなら、どう意味がないって言うんスか?」


 ぬるい湯船がフィン部を指すのなら、俺の逃げであり甘え場所もフィン部となる。けど、先生は俺を入部させたいからプール場へと連れて行ったはずだ。ならどうして駄目だと言うんだろう。

 先生の考えが俺には分からない。

 天井を見ていた先生は、ふっと穏やかな笑みを浮かべた。


「人は誰しもが楽な方へと進みたがるだろう? 確かにそうする事で、どんどん前へと進んでいけるだろう。人よりも先に進んで行けるぶん、自分がすごい事をしたような気になって感違いをする事もあるんだ。そうして感違いをした人間は、それ以上の先へと進めない」


 いつも元気で煩い先生が、どこか仄暗い空気を漂わせていた。それに対して何も答えることが出来ない俺は、ただ先生の話しに耳を傾ける。


「ただ闇雲に進めと言われたって、つまづく事が多いだろう? だから、明確な目標を、自分自身で見出だしで進む事が重要なんだ。これはあくまで私の主観だが、楽なことは甘えと同じなんじゃないだろうか」


 手すりに掴まり、上を見上げる。あと十五段を上がり切ってしまえば、昨日も来た我が校のプール場だ。


「えぇー……よっくわかんねぇー……」


 俺にとっては逃げの先にあるのが甘えだ。だから楽はまた別な場所な気がする。

 学校は楽の位置づけにあって、遅刻とか居眠りの類いは逃げのポジションに入っている。そして、その結果起こりうる説教というのが所謂甘えと呼ばれる場所だ。

 もし、もしも、例えば。ここにフィン部が入るとしたならば? 俺にとってのフィン部は何になるんだろうーー。


「ところで水無」


 悶々と頭で考えていると、先に階段を上がりきった先生が先の話しを変えるようにそう言った。


「きちんと水着は持ってきたんだろうな?」

「へ? いや、持ってきてないっスよ」


 あれこれ考えながらも素早く答える。

 扉の取っ手に手をかけた先生が、顔だけぐるりとこちらに向けた。


「昨日、帰り際に持って来いと私はしっかり言っただろう」


 射抜かんばかりの鋭い視線は、野生の獣じみていた。俺の背筋を冷たいものが、つつーとゆっくり走り抜けていく。


「いや、あのーそれがですね……昨夜よーくよくよく探してみたんですけど……どうしても! どう探しても! なぜか見つからなかったものですからっ……」


 今は夏だし普通の学校ならば、この暑い中やる体育はほとんどがプールだろう。

 でも、うちの学校はそうじゃない。

 この校舎は五年前に旧校舎から新設されたばかりで、俺たちが入学する前はプールも屋外にあったが、新校舎設立に伴って、外から屋上へと移されたのだ。

 その移転理由はグラウンドが狭いからだとか、もし火事が起きたら屋上から一気に放水できるだとか色々言われているけれど、四階建ての校舎の一番上に壁や屋根まで付け加えてでかい屋内プールが設置されたので、理由はどうでも良くなっている。

 その屋内プールが出来たおかげで、年がら年中水泳ができ、実に快適なプールライフが送れるようになったのだが、但しそれも女子のみの条件で、とある理由から男子の体育は、暑い真夏の体育館でひたすらボールを追うことになっていた。

 だから急に「水着を持って来い」と言われても、他の学校の生徒のようにぱっぱと準備が出来ないのである。去年の海パンどこいっただろ……。


「では今日は誰かに借りろ。無ければそのままジャージで泳げ」

「ちょっと先生、言ってること矛盾してません? 強制したくないって言ってましたよね?」


 おかしい。おかし過ぎるぞ、この流れ。うっかりウォータースライダーに乗ったかと思うくらい、泳げまでの流れが早かった。


「つべこべ言わず、やってみろ。それから考えても遅くはない」

「やっぱりやらせる気じゃないっスか」


 プール用の乾きやすい穴の空いたサンダルに履き替えると、先生は子供のように無邪気に笑った。


「お、やはり素足は最高だな。柔道も水泳も、こうしてあい通ずるものがあるな」


 裸足以外にもあるだろとは思ったが、そんな笑顔を見せられたら反駁する気も起きなくなった。


***


「よし、水無も着替えてきたな。じゃあ早速ウォーミングアップに入ろう」

「まずは柔軟からですね」


 先生の示唆を的確に受け取り、濱口が俺たちの前に立つ。


 更衣室に入った俺を待っていたのは、蒸し暑くて息苦しい空気と、後堂、細谷、輪浮の三人だった。

 足腰の鍛錬をする為だかで、三人は五十嵐先生の指示でグラウンドを走ってからここに来たらしい。プールに入ったわけじゃないのに、なぜか細谷だけが全身がずぶ濡れ状態だったが触れないでおこうと思う。

 かくして俺は、大量の汗を流した三人に続いて鞄をロッカーへと収め、そのまま更衣室を出ようとした。水着がないし、ジャージで泳ごう。帰りは制服に着替えたらいいしと半ばやけくそな気持ちでいたのである。だが、俺の前を歩いていた後堂がくるっと振り返り、水着が無いと言うや否や、ロッカーから海パンを取り出して、笑顔で俺に手渡してきたのだ。なんで二枚も持ってるんだよと思いながら受け取ると、貸してくれたのは紺地の海パンだった。指定の普通の水着に安心しつつ、これも持ってるくせに派手なトラ柄をチョイスする後堂のセンスが俺には全くわからないな、とひっそり首を傾げて今に至る。


「間隔広めにとってー」


 濱口の声で横幅を取っていると、後堂が歩み寄ってきた。


「……な、なんだよ」


 間隔取れよ、間隔。と思ったら、後堂が不満げな顔をした。


「水無君さー、どこ行ってたわけー?」

「はあ? どこって、まぁ、ちょっとその辺に」


 また呼び出し喰らっていましたーなんて、わざわざ言わなくてもいいだろう。だって後堂だし。

 適当にあしらったつもりが、後堂は尚も不満そうだ。


「俺さー、HR終わってさー」

「あぁ」

「そっこーで水無君とこ行ったんだけど?」

「あぁ……え? 来たのかよ!?」


 すげぇビビった。

 昨日そんな話はしてたけど、まさか本気で来るとは思っていなかった。


「一人でも欠けるとよー。部活もなくなるんだぜ? まーじ頼むわー」

「おう、マジか。悪かった。ちょっと呼び出されたもんで」


 とりあえず謝っておいた。だって後堂の後ろに見切れる濱口がめっちゃ怖い顔してるから。早めに終わろうと言ったつもりだが、後ろ向きの後堂は気づいてないらしく、そのまま話しを続けてきた。


「えーなになに? 女子からの呼び出し系?」

「まぁそんなとこだ」


 岩沼先生だって女子に入るから、あながち間違ってはいないと思う。だが、後堂は普通の女子と感違いしたのか、瞳をきらりと光らせた。


「まーじかよー! 水無君やるじゃーん! 俺俺ぇー今フリーだし? ちょー期待して待ってんのによー、みんな遠慮して来ないんだぜー?」


 それは遠慮じゃなくて敬遠だと思う。あ、この場合の敬遠は、よく野球で言われてる意味のほうな。投手が意図的に打者に四球を与えるっていう。これデッドボールだらけじゃね?


「まぁまだ夏は始まったばかりだしな。これから来る可能性が高いだろ」

「くぅー! 水無君、やーっぱ分かってるわー! そうそ、実は夏休み中こそチャンスある的な?」


 川平○英みたいな顔した後堂が、拳で俺の肩をつついてくる。


「ちょっとそこ! 早く並んで!」


 痺れを切らしたらしい濱口が鋭い声を上げた。ついでに首から下げていた笛を咥え、ピッ! と短く吹き上げる。


「ほらほら早く! れーちゃん達もあんた達の無駄話のせいで待たされてるんだからね!」

「はいはい。分かってるっつの」

「なにその態度。大体、爽太なんかを呼び出す女子なんているわけないじゃん。どうせあれでしょ? 先生から呼び出しくらってただけでしょう」


 冷ややかな視線を送ってくる濱口。俺はそれを軽くスルーして、後堂の肩をトンと押した。


「女王様がお怒りらしいから早いとこ並んでおこうぜ」

「おー、首もがれる的な」


 赤の女王かよ、という突っ込みは飲み込み、プールサイドに並び直す。俺と後堂が横の間隔を取り終えたとこで、さっそく準備運動が始まった。


「いちにーさんしー」

「ごぉっ! ろっく! しっち! はっち!」


 濱口の声に合わせるように、後堂もリズムを刻んでいく。輪浮も小さいながらも声を出し、上下に激しく体を動かしている。

 その横で、細谷ただ一人が、既に息切れている状態だった。


「ごぉ、ゴッホゴホ! はっち、ぶぇっく、おっほおほっ! はぁはぁはぁはぁ……」


 お笑い芸人がやっている、中年のおっさんみたいな咳をしていた。……ちゅうはついても中身は中学生のはずだろ。


「いっち、ぶぉっふ、おっほ! はっち、ごぉほごほほぅっ!!」


 おいおい、まじで大丈夫かよ。

 顔を伝ってく大量の汗。息苦しそうな激しい呼吸。屈伸さえもままならない。もう今にも倒れてしまいそうだ。

 傍らに突っ立っていた先生が、ゆっくり俺の隣にやって来た。


「先生、まじでこのメンバーでやるんスか?」

「ん? 当然だろう。どうしてそんな事を聞くんだ? それ! おいっちに、さんし!」


 泳ぐわけでもないだろうに、先生まで柔軟を始めた。体育教師を選ぶくらいだ。元から体を動かすのが好きなんだろう。


「いえ、ちょっと気になることがありまして……ここに居るってことは、もちろんみんな泳ぎは出来るんですよね?」


 一目見た時から気にはなってはいた。特に細谷は泳げるかどうかも怪しいなって。けれど、選ばれたならば出来るだろうとちょっとの希望は持っていた。でも、現実はこの通りだ。泳ぐ前からつまづいているんじゃ話しにならない。


「走ってきたからこその疲れはあると思いますけど、これから泳ぐんスよ? 行けるんですか?」

「大丈夫だ。常に居れるわけではないが、私もきちんと監視している。ゆっくり立ち止まりながらでも泳げばいいさ。今はまだ練習なんだから。水無も、途中で立ち上がっても構わないから、まずは出来ると信じてやってみろ」

「いや、俺の話しじゃないんスけど……」


 先生が斜め上の思考で俺を励ますように言ってくるから、ため息が出そうになった。

 全然泳げないやつがやるのと、元から泳げるやつがやるのでは努力の差だって違うのに。俺だけの問題じゃないんだよな。リレーだから個々の速さが必要になってくる。

 と、突然、指揮をとって体操をしていた濱口が前へと駆け出した。


「細谷君! 大丈夫!?」


 ただの柔軟体操だけでへばったのか、細谷がプールサイドで仰向けに寝転がっていた。


「ほら、先生。初っぱなからコレですよ。どんなに頑張ったって出来ない奴はいるんです。やろうと思ってもなかなか前には進めない。世の中、そんなもんですよ」


 フィンを使おうと風に乗ろうと、その推進力には変わりがない。それぞれの持ってる適性があり、そこを最大限に生かせた時に初めて、すいすい前へと進めるんだろう。

 誰かが無理に変えようとしたってムダなのだ。そいつに似合うそいつのペースで地道にやるのが、しんに進むという事だ。


「もう大会以前の問題じゃないですか」

「ん? 細谷の事を言っているなら心配しなくていいぞ。奴は誰よりも浮遊力に優れているからな」

「浮くだけじゃ意味ないっスよ。前に進めてないじゃないっスか」


 そもそもプールのような水上では、太ってる奴は浮くんじゃなくて底へとぐんぐん沈んで行く。

 先生は体育教師なのに、それさえも理解出来ていないんだろうか。

 細谷にちらっと視線を向けると、床に膝をついて立ち上がろうとしていた。ぷるぷると四肢を震わせるその様は、まるで産まれたての子鹿だ。


「な? 奴の心の浮遊力は、恐らく校内随一だ。細谷の精神力を、甘く見るんじゃない」


 我がことのように、自慢げに先生が言う。


「ウ、ウソだろ……!? 浮くってそっちの意味の浮くだったのかよ……」


 唖然としながら細谷を見ると、ふらふらになりながらも必死に足を踏ん張らせているところだった。それを横から輪浮が支えようと手を伸ばす。が、細谷は首を振ってそれを断ると、なんとか自力で立ち上がった。


「細谷君、大丈夫? 行ける? ちょっと休んでたら?」


 濱口が心配そうに言う。ここで止めてしまえば細谷にとっても楽だろう。

 けれど、細谷はそれにも首を横へと振ってみせ、ぐっと拳を握りしめた。


「やると決めたからにはやる。それが、俺だ!!」


 細谷がぐぬぬっと歯を食いしばる。

 ただの準備運動のはずが、長距離マラソンを完走したランナーかの如く、どこか晴れ晴れとした顔をしていた。

 そんな細谷の姿を見て、濱口が静かに微笑む。


「……そう……じゃあ、始めるよ」

「おう」


 前へと戻った濱口は、止まっていた柔軟を再開させた。


「いーちにーさんしー」

「ごぉっ! ごっほほほっ…… はっち! はぁはぁはぁ……」

「にーに、さんしー」

「ごぉろっく、おっほおほ! はぁはぁはぁ……」


 声だけは何とか出しているものの、やはり動きはかんばしくない。顔から足まで流れた汗は、プールサイドの床を濡らしている。

 もう止めろよ! 見ているこっちが辛くなってくる。


「どうだ? 水無。細谷はすごいだろう」


 誇らしげな声がして、俺の動きは一瞬鈍くなる。


「ふんっ……どうですかね。今こんなんじゃ、泳ぐ時には体力ゼロで柔軟の意味もないかもしれないじゃないっスか」


 今、頑張ったって無意味だ。そう答えると、なぜか先生は楽しそうに笑った。


「ははは! 君は本当に捻くれ者なんだな。細谷の動向を見て細かに分析し、次の行動の心配しているという時点で、水無はフィン部を選らんだも同然なんだぞ? なぜなら、自分自身の意思で細谷とフィン部のこれからを憂いていたんだから」

「そ、……そんなこと……あるわけないじゃないっスか……」


 くすっと先生が小さく笑う。俺は無視して柔軟体操に集中する。

 腕を、足を、それから体の中のどこかを。念入りに伸びさせる事で、頭の中だけが妙にすっきりしていた。


***


 ウォーミングアップをようやく終える。

 息も絶え絶えな細谷の横で、輪浮が労いの言葉をかけていた。単なる前運動だけなのに、優しすぎると思う。


「うぅーむ。やはり体が鈍っているな」


 肩をぐるんぐるん回す先生から、ゴキゴキと奇妙な音が聞こえる。これ以上強くなってどうするつもりなんスか……。

 鈍っているように見えない先生は、きびきびとした動きで濱口の隣に並んだ。


「よし、ではさっそくプールに入って練習を始めよう。水無は昨日居なかったな。濱口、練習について教えておいてくれ」

「はい」


 えぇー濱口から聞くのかよー。聞くんだったら輪浮がいい。

 そう思った時、遠くからエコーがかった間延びした声がした。


「凪沙ー! そっちももう使うところー?」


 高い大きな声が室内に反響する。

 俺たちと反対のプールサイドから、ぶんぶんと手を振りながら早歩きでこちらにやって来る。

 肩からかかる白のジャージの下で、濡れて色濃くなった水着がてらてらと光っていた。


「もし必要なら、一年生と一緒だけど七レーンも使っていいよって言おうと思って」


 濱口に向かってにっこり笑うと、指で輪っかを作った。

 肌に吸い付くようにぴたりと沿われた紺地こんじが、体の凹凸おうとつを強調している。向かい合わせで立っている濱口と背丈は一緒くらいなのに、濱口の体が貧相過ぎて可哀想になってきた。ほんと、成長期って残酷だよな……。


「ありがとう、助かるー。みんな速度がバラバラだと思うからさぁ」

「うんうん、いいよ。他にも必要なのがあったら言って。岩沼先生からもそう言われてるから」

「風〜ほんとにありがと〜」


 濱口が感激したように抱き着いた。

 話しが終わるのを見計らったように、先生がおもむろに口を開く。


羽衣はごろも。ちょうど良いところに来てくれた。我が校の誇り、水泳部部長の羽衣風はやかわふうだ。何度も大会で優勝しているから、君たちも朝礼時に見たことがあるだろう?」


 先生の言葉で、はたと思い出す。

 そういや、全校集会で表彰されてた気がするな。もっとも、朝礼台までの位置が遠すぎて顔までは把握できていなかったが、その名前だけは聞き覚えがあった。なんか、食品会社みてーな名前だなーって。

 それは後堂の方でも同じだったみたいで、そーいやぁなどと呟いている。


「うん、羽衣さん、だよね。一年の時に一緒だったし、羽衣さんが大会で成績取ると、屋上から段幕が垂らされてるからみんな分かるよ」


 ね? と小首を傾げて聞いてくる。もうその仕草だけで女子かのような可愛さが醸し出されていた。


「あぁ、なんちゃら大会一位みたいな、な」

「そーそ、なんちゃらで勝ったー! 的な?」

「勝った褒美って何もらえんだ? 牛肉食べ放題とかか?」


 なんか一人だけ違うこと言ってるけど、俺たちはかなり曖昧にだが、総じて知ってる知ってる! と頷いた。

 すると、羽衣は恥ずかしそうに笑って、頬をちょこっと指で搔いた。


「えへへ。なんか、私なんかのこと、知ってもらえてるなんて嬉しいなぁ。けど、ちょっと恥ずかしい」


 へへ、とはにかみ笑いを浮かべ、恥じるように体をよじる。恥ずかしさを隠すように、羽衣が胸の前で腕を交差させると、右と左からの圧力によって、柔らかな谷間がより際立っていた。

 Oh……これがマウント富士の狭間……。


「彼女もフィンは未経験だそうだ。けれど、幼い頃から水泳をやってきている。羽衣からも指導を仰ぐ予定だから、みな、しっかり部長の言うことを聞くように」

「はいっっっっ!!!!」


 俺たち四人の声が綺麗に重なる。この瞬間、初めて波風中男子フィンスイミング部の心が一つになった気がした。


「爽太、昨日は五十を十本ずつ泳いだけど、もっと行けるでしょ? 時間いっぱいまで泳いどいて」


 それだけ言うと濱口は、羽衣の肩を押して端へと移動しようとする。


「は? ちょっと待てよ。なんで俺だけ」

「まだ細かい練習を決めてないの。いいからやってよ」

「今から羽衣と濱口と練習内容について話してくるから、それまで泳いで体を慣らしていてくれ」

「はぁ。分かりました」


 つーか、やっぱり泳ぐことになるのかよ。

 俺たちが立っているプールサイドの第八レーン。そこ以外は既に、水泳部の連中がすいすいと泳いでいる。


「あ、濱口。なに泳ぎで?」


 行きかけてた濱口が足を止めて振り返る。


「バタフライでっ!」


 俺の問いにそう答えたのは、聞いたはずの濱口ではなく、濱口と一緒に歩いていた羽衣だった。


「あ、……はい」


 まさか羽衣が答えるなんて。驚いたのは俺だけじゃなかったようで、先に言われた濱口の方も、口を中途半端に開けたまま目を丸くして羽衣を見つめていた。


「さ、行こっか」

「う? うん」


 ちょっと戸惑うような顔をして、濱口が羽衣に続いて行く。既にプール場の端へ離れていた先生の元へ移動していった。


「すーげ。アレめっさあるくね!?」


 女子連中が居なくなった刹那、後堂が興奮したように言った。


「まーじパないっしょ。アレ超やべーし」

「だな。だが後堂、それをおもてに出すんじゃねぇぞ」

「えー?」


 なんでーと不服な顔をしているが、これは絶対に守らなければならないのだ。

 真面目な顔して一歩詰め寄る。「……お」と後堂が一歩後退った。


「なぜなら、かつてうちの学校にもあった男子水泳部は、そういう男のさがで廃部になったんだからな……」


 これも五年前に起きた事件らしい。

 新校舎となり、新しいプールになったことでテンションが一気に上がったのか、男子水泳部の連中が女子水泳部の更衣室に進入してしまったとか。そのせいで男子水泳部は廃部となり、体育の授業も夏は女子、冬は男子と、プールの使用まで徹底的に仕分けられたのだ。


「まぁ単なるうわさ話だけどよ。あんま騒がないほうが身のためだろうな」


 下手にそういう事が広まってしまえば、俺たちまでそうだと見られかねない。そんな理由もあって女子ばかりの空間になっているプール場で、変な噂が上がってしまったら、それこそ学校自体も来にくくなる。

 強張った顔する後堂の肩をぽんと叩けば、ギギギと音が鳴りそうな鈍い動きで俯けていた顔を上げた。


「……やっべそれ……俺のにーちゃんだし……」


 目がきょどきょど動いて落ち着きなく、顔の色をすっかり失っていた。


「え……お前、まじかよ」

「そーそ。だからさー、なんで五十嵐せんせが俺をフィン部に誘ったのかわっかんねんだわー」

「普通に考えて、先生がそれを知らないからだろ」

「にーちゃんの担任だったのに?」

「え、……」


 もう何も言えねぇ……。

 学校で起こった事件を担任が知らないはずもなく、徹底的に男女を分けていたプール場に俺たちだけがここに居る事が違和感だらけで急に悪寒が走った。

 俺たちの話しを聞いていた、輪浮と細谷が、それを聞いて近づいてくる。


「後藤君、それって本当に?」

「まーじまじまじ。本人から聞いたし」

「ふん、兄弟揃ってプールに因果を持つのか……恐ろしいな」

「い、……え? なんかかっけー言葉出てきてっしー」


 不幸と言われてるにも関わらず、後藤はアホすぎて気付かない。


「……ま、まぁ、兄ちゃんは兄ちゃんで後堂は後堂だしな。お前はまさか、しない、よな……?」


 もしや先生は、後藤までもがそういう事をするか試す為だけにフィン部を作った? ……いや、まさか、そんなの、あり得ない。

 恐る恐ると確認してみると、ものすごい早さで首肯した。


「しねーし! ぜってーしねーし! つか俺……にーちゃんほどの勇気ねーし」


 ガクンと頭が垂れ下がる。

 おい、勇気と迷惑を履き違えるんじゃねーよ。


「大丈夫だよ。いつかきっと、後堂君も。男らしい勇気が持てるようになると思うよ?」


 両の手をグーにした輪浮が励ますように言った。そんな勇気は必要ないように思うが、言われた後堂は「さんきゅー」と声を震わせ、なぜか涙ぐんでいた。


「ところでよー。汗でべとべとで気持ちわりーし、プール入んねぇ?」

「おう。って、待て待て待て。それどっから出したんだよ」

「は?」


 細谷の手にはいつの間にやらスナック菓子の袋が握られていた。


「昨日、そこに隠しておいたんだ。やらねーぞ」

「だから、いらねぇっつの」


 そこ、と指差したのはビート板を仕舞っている棚だった。そういう使い道もあるのかと感心しそうになる。


「よく潰れなかったな。しかも没収されないとか超すげぇ」

「下にある丸い浮きの方に隠したからな。あれ、誰も使ってないらしい」


 そこまで見た上で不正にプール場に持ち込む。さすが、食への意欲が半端ない細谷だ。


「後藤、なるべくあっちは見るな。んで、ずっと水ん中に潜ってろ」

「ラジャー!」


 どぼんっ! 後藤が勢い良くプールへと飛び込む。後藤はクロールで流れるように泳いでいく。


「輪浮、行くか?」

「あ、ううん。あの、ごめん。僕、遅いから」

「ああ。んじゃ、細谷……は、食ってからな」


 ばりばりぼりぼり貪っている。口もとから溢れた菓子クズが、足元に落ちてふやけていた。


「じゃあ俺、先行くわ」

「うん。行ってらっしゃい」


 ゆるりと手を振る輪浮に頷き、俺は水色に光るプールに身をいれた。途端、ほのかな冷たさが足先から這い上がってきて、体の熱を奪ってくる。


「冬ぶりかぁ……」


 ぽつりとごちてるうちに、後藤が半分くらいまで進んでいた。

 頭まですっぽりと水中に体を沈め、一回浮上し、ゴーグルを掛ける。それから再び俺はプールに沈んだ。

 中に入ってしまうと外の音はぼやけてしか聞こえない。代わりに、自分の心音が酷くうるさく奏で始める。

 よし、行こう。

 俺は壁を思いっきり蹴って、五十の一本目を泳ぎだした。

 最後に泳いだのはまだ雪が降っていた三月の中頃。それから数ヶ月のときを挟んでいるのに、不思議と体がスムーズに動いてくれた。

 上下に大きく揺れる両足。腕を三回動かしてからの呼吸。

 頭で考えるより先に、体が覚えているフォームで勝手に動いていく。自走式の自動車のように、楽に前へと進んで行ける。


「ぶはっ! はぁはぁはぁ……ん? 後堂はえぇな」


 半分を示す濃い線を見つけ、一旦浮上し、前を見る。先に泳ぎ始めた後藤の姿は、ターンをしてこちらに向かってきているようだった。

 暫しそのまま待っていると、すぐに後藤がここまでやって来る。


「うぉーし! 一本完了!」


 ぷはっ! と水しぶきを上げて後藤が立ち上がる。


「すげぇ早いのな。まじで十本行く気かよ」

「もーち、行くっしょ! 水無君も!」


 学年カラーの青帽子に隠れて、後藤ご自慢の金髪は鳴りを潜めている。それでも、昨日見た髪のように、後藤の笑顔が眩しくて見づらい。


「俺はもう一本泳いだら休むわ」

「えー? 五十嵐せんせが言ってたぜー? 筋肉つけたらスピード上がるってよー」

「つけ過ぎても遅くなるらしいけどな」

「んでも、やーっぱ力はつけてーじゃん? 先行くから水無君も早く来いよー!」


 後堂がひょいっと手を上げる。その手にハイタッチをすると、後藤は水の中へと戻っていった。


「あいつ、やる気まんまんじゃねぇか」


 俺なんてまだ入部拒否してるのに、何が後藤をそこまで駆り立てているのだろう。

 後藤を少しだけ見送ったあと、俺もプールに身を沈めた。

 わんわんと響いてた声が消え去り、こぽこぽと小さなあぶくが鳴きだした。自分の呼吸をする音と、腕が水を掻くときの飛沫の音と、ピッと鳴り響く笛の音が、呼吸のタイミングの時だけ聞こえてくる。

 さっきよりも動きやすくなった体は、滑るように水中を進んで行く。どんどん前へと進んで行けば、下に再び濃い線が見えてきた。終わりが近いことを教えてくれている。


「(壁だ)」


 泳ぎながら前を向くと、水色の壁が見えてくる。

 それが視界に入った途端、俺は迷うことなく体を回転させていた。

 くるりと前回りした体は、次には当たり前のように両足を壁へと向けていた。そのままとん、と壁を両足で蹴る。

 誰かに引っ張られているかのように、体はまた流れに乗ってスピードを上げた。

 その威力を壊してしまわないように、体をなるべく真っ直ぐに保つ。

 心地よい滑り出し。

 上手くいった。

 その気持ちが心を占めたまま、いつの間にか二本目を終えていた。

 なんとなくの癖で壁にタッチし、立ち上がる。ゴーグルを額に上げて辺りを見渡すと、隣で細谷がなんかしていた。


「ガボッ! ガボガボッ! ガボッ……ぶっはぁー!!」


 勢いよく飛沫しぶきを上げながら、細谷が水面に顔を上げる。


「細谷、お前なにやってんだよ」

「何回も何回もバタ足してんだけどよーぜんっぜん前に進めねぇんだよ」

「は?」


 なに言ってんのこいつ? と思っていたら、上から声が落ちてきた。


「細谷君ってそうなんだって……」


 話し合いやらが終わったのか。飛び込み台に座って言ってきたのは濱口だった。


「前に進めないんだって、頑張っても」


 声にありったけの悲壮感が込められてて、諦めたような苦い笑みをこぼしている。


「待てよ。沈むんじゃなくか?」

「昨日から見てる限りではずっと浮いてたよ」

「まじかよ……さすがの浮遊力者……もう浮くことだけに関しては右を出る者がいねぇな」

「もうっ! バカ言ってないでどうにかしてよ」


 叫ぶように濱口が言う。


「どうにかするっつったってなぁ……あ、そうだ、細谷。とりあえずビート板使って前に進める練習するか。バタ足が上手くいってねぇんじゃね?」


 これで前に進むかは分からない。とりあえず提案してみると、細谷が海パンをごそごそと漁り始めた。


「おいバカやめろ。なに考えてんだよ」


 こんな所でそんな格好でその行為は完全にアウトだぞ。

 飛び込み台にいる濱口も、気まずそうにちょっと視線を逸らす。その隙に、細谷は海パンから何かを取り出した。


「あーあ、なんで前に行けねぇんだよ。だから小学校ん時からプールの授業が嫌なんだよなぁ」


 ぼやいた細谷の手には茶色の細長い肉の棒が……。ピリッと袋を開けると、なんの躊躇もなく口に咥えた。


「アホか! そんなん入れてるから前に進めねぇんだろ! なんでお前も気付かないんだよ」

「だ、だってなんか見れないじゃん? しかも先生も何も言わないし!」


 まぁ、タメの男の股間を見るとか、とんだ痴女だよな。


「そういや、その先生は?」

「ちょっと柔道部見てくるって。向こうも大会近いじゃん」


 先生のお陰……かは知らないが、うちの学校の柔道部は割と強い。もしかしたら近所に県営武道館があるせいかもしれない。


「昨日も食ってたけど、そのまま注意も出来ずに居たってことか」

「だって、仕方ないじゃん。あたしが言うと、なんか変態くさいし」

「だな」


 それにしても海パンに何個仕込んでんだよ。

 俺と濱口が喋ってる間にも、細谷はカルパスを食いまくっていた。

 細谷の食欲に呆れてるうちに、もう後堂が四本目を泳ぎきったらしい。すいーとこちらにやって来たので、細谷の方へと体を寄せると、後藤が壁にタッチした。


「おー! 何何? 詰まっちゃってる系? やーっぱ俺がフィン部のエースっしょ」


 ざばっと水から顔を上げると、白い歯を見せて明るく笑った。

 あぁそうな。お前みたいな明るい奴が、こういう奴を面倒見てたらいい。

 細谷の実情じつじょうを知らないのか。はたまたどうでもいいと思っているのか、後堂は五本目に取り掛かる。


「水無君、おっ先ー!」

「ああ、行ってくれ。ずっと行っててくれ」


 適当に後藤を送り出すと、また三人だけが取り残された。……ん? 三人?


「濱口、輪浮はどうした」

「あのさ、爽太……問題は細谷君だけじゃないんだけど」

「あん? まだなんかあんのかよ」


 勘弁しろよーと思ったが、周りを見渡して、ようやく気付く。

 隣の七レーンでビート板を抱えて泳ぐ連中の中で一人、白い肌を晒している人物が居ることに。


「ま、まさか輪浮まで泳げないっつーわけないよな?」


 おいおい、そんな状態で大会に出るなんて言ってたのかよ。それはちょっと無理があるんじゃないですか?


「れーちゃんね。水に顔を付けるのが恐いんだって」

「じゃあなんでフィン部なんて入ってるんだよ。断ったらそれで済む話しだろ」

「違うよ、だから入るんだよ。変えたいんだって、出来ない自分を。それで、ちょうど先生がフィンスイミングをやる生徒を募集していたから、れーちゃんもやろうって決めたんだって」


 七レーンは元々泳げない人が使うのか、誰も彼もがビート板を使っている。その中で、必死にバタ足をする輪浮が健気で応援したくもなる。が、それなら個人でやってればいいんじゃないか? という気持ちも湧いてくる。

 そう思いながら輪浮を見ていると、カチッと視線が合わさった。


「あ、水無君! さっき見てたよ。すっごく早くて、本当に、すごく、かっこ良かった!」


 頬がちょっぴりピンクに染まっている。


「ちょ、細谷、邪魔だ」


 隣のレーン側に居た細谷を退け、俺は輪浮に向かい合うように立つ。

 ビート板を片手に持った輪浮は、他の部員に配慮しながら体を端に寄せた。


「僕、絶対出来るようになるからね」

「あぁ、俺はお前が来るのをずっと永遠に待ってるから」


 俺と輪浮の間には、無情にも青と黄色の浮きで出来たレーンの仕切りがぷかりぷかりと浮いている。

 まるで天の川の乙姫と彦星のようだ。


「僕もそっちに早く行けるように、頑張る、から……」

「大丈夫、輪浮ならすぐに来れるさ。まずは顔をつける練習をしてたらいい。なんなら俺がそっちで練習するし」

「ううん、僕が行くよ。ここは泳げない人専用なんだって」


 輪浮の瞳に滴が溜まっていた。儚げに笑うその姿は、今にも泡となって消えてしまいそうだ。と、


__ズッコーーン!!


 ドリルのような何かが、俺のわき腹に勢いよく刺さってきた。


「グボはぁっ!!」


 余りの痛さに体が沈む。が、すぐに誰かに腕を引っ張られた。


「わっり、水無君ー! まさかそこに居ると思ってなくてよー!」


 超スピードで突っ込んできたのはトラ柄パンツの後堂だ。


「てめぇ……輪浮との大事な逢瀬の邪魔しやがって……」

「わっりー! まーじめんごめんごー」


 痛むわき腹を押さえる俺の前で、へらへら謝る後堂。横で輪浮がちょっと心配そうにしてくれているのが救いだ。


「おい、大丈夫かー」


 のんびりと歩いてきた細谷が、海パンから三つのカルパスを取り出した。

 くれんのか? と思ったら自分でむしゃむしゃ食ってた。何がしたいんだよ。


「細谷君よー、食うのはいいけどゴミ捨てろよなー」

「捨ててるだろ」

「プールに近すぎるっしょー。もっと遠くにしてくんねぇ? 波に流されてプールに入ってきてよぉ、さっき俺のゴーグルにくっ付いたんだぜ? まーじ勘弁しろしー」

「細谷君、それならゴミ箱を近くに置いたらどうかな?」

「あぁ。んじゃ明日からはそうするわ」

「お! 輪浮君、ちょーあったまいいー!」


 そもそも食べないという選択肢はないのだろうか。こんな事で話してる間にも、時間は刻一刻と経っていく。

 輪浮も、細谷も、後堂も、俺も。みんな頭のネジがどこかにぶっ飛んだ、ハイパーでダメダメなバカばっかりだ。


***


 もっともっとおよげるような気がしてたのに。後半になると、やはり体は徐々に鈍さを増し、大して泳がないままに今日の練習を終えてしまった。


「あー、明日は筋肉痛だ」


 腕も足もパンパンになっていて、筋肉の無さを改めて実感する。

 ぐにぐにと凝りをほぐしていると、着替えを終えた細谷がやって来た。


「これ食うか? 筋肉に効くらしいぞ」

「は? なんだよこれ」


 細谷の手には白い丸い球体。

 怪訝な顔で細谷を見返せば、ニヤっと笑って高らかに言った。


「聞いて驚け! 見て叫べ! かの有名な元野球選手さえも愛した逸材。そぉこいつこそは__」

「デレれれれれ……」


 ノリが良い見た目ヤンキーの後堂が、ドラムロールを口ずさむ。


「デレれれれれ……で、デン!」

「卵の白身に見せかけたぁ! ホワイトチョコのカモメの卵だぁあああっ!!!」

「ひょえー!! まーじパないっしょー!!」


 白身に見せかけたチョコ菓子かよ……。なぜか後堂が大袈裟に仰け反っている。

 ようやく着替えた輪浮も二人の茶番に参加する。


「そういえば僕もテレビで見たよ。卵の白身がプロテインを作るんだよね?」

「そのとーりっ!!」


 腰に手を当てて細谷が大きく頷く。


「カモメの卵を食べれば、我々は明日から筋肉もりもりマッチョメンだっ!!」


 ……なわけねぇだろ。

 アホくさ、と俺は着替えに戻る。


「っかー! やっばくね!? まじやべーっしょ! これ食べたら俺らも最強っしょ!」

「うん、そうだよね。僕も今日から食べてみようかな」


 細谷の手から輪浮が一つ、カモメの卵を手に取った。

 え? 輪浮、単純すぎねぇか?

 カモメの卵は単なるチョコ菓子であって、白身のような効能は含まれない。ほんのりとした甘さが疲労回復に繋がっても、筋肉を作ることはない。

 細谷のちょろい戦術に騙されるとか、輪浮の将来が心配でならない。


「っん。すごく美味しい」

「やっべ、やっべー。まーじ効いてきたわー。特に腹の辺りに効いてきたわー」


 後堂、それは単に腹が膨れてるだけだろ。

 だが、細谷は二人の反応を見て、満足そうに笑っていた。


「だろう? カモメの卵は最強のドーピングなんだ!」


 ほぉ、ドーピング使用を促してんのか。

 これ、確実通報案件ですね。


 着替えを終えた俺たちは更衣室を出る。

 隣の女子更衣室からは、きゃっきゃわいわいと話す声がして、着替え中もなんだか楽しそうだ。


「ちょうど良かったな」


 息を切らし気味の先生が、プール場の入り口から顔だけを出し、手招きしていた。


「今日の練習の成果はどうだ?」

「どうも何も、俺は特に」


 ふいっと顔を背けると、後堂が元気に答える。


「最高っス! やーっぱ夏はプールっしょ!」

「そうか。後堂は楽しめたようだな。輪浮はどうだ」

「二人のようには泳げてないですけど……でも、その、自分なりに昨日よりは、良くなったかな? って思い、ます」


 終始自信なさげな声で言うと、先生は輪浮の肩に手を乗せた。


「その、昨日より、というのが大切なんだ。輪浮にとって前に進めたならば、それは大事な大きな一歩だ」

「……はいっ!」


 教師と生徒の熱い関係。スポーツ物にありがちな展開にうるっときそうになった。


「細谷はどうだ」

「んー、普通でした」

「そうか」


 おい、どこが普通だって言うんだよ。俺から密告したくなる。


「四人とも、ご苦労だった。明日からもこれで行く。まずはグラウンドを五周してから来てくれ。あとは明日、濱口が練習内容についてのプリントを持ってくるから、それに従って行動してくれ」

「はいっっっ!!!」

「じゃあ以上ーー」

「ちょ、ちょっと待ってください!!」


 そのまま終わりそうな雰囲気だったので、手を上げて一歩詰め寄る。


「明日って、俺は今日だけですよね」

「何を言っているんだ。君は部員になったぞ?」

「強制はしないって言いましたよね」

「あぁ、だから強制はしていない。君は自分から部員の問題に気付き、それを解決する提案をした。そう聞いてるぞ?」

「誰だよ、そんなウソ言ったの……」


 まぁ考えなくとも分かるけど。

 後ろにあるプールの方を見れば、端っこで部長の羽衣と話すそいつの姿が目に入った。


「私から見たら自分から選んだようなものだが、夏休み中に職員室でプリントをやらせるという素晴らしい案がさっき岩沼先生の口から出ていてな……君の一存に任せる」

「そ、そんなっ!?」


 どれも嫌だ! 夏休みはゆっくりさせろ!どれを選んでも地獄でしかない。


「では皆の者、これにて解散だ」


 先生はそれだけ言うと、踵を返してしまった。

 これを言う為だけに、先生は柔道場から走ってここまで来たのだろうか。


「んじゃま! 帰るとすっかー」


 後堂の声で、俺たちはのろのろと動き出す。

 プール場から出てしまえば、塩素の匂いも少し薄れた。


「あーめっちゃ腹減ったしー」

「おい細谷、一人エンゼルとグレーテル状態になってんぞ。ポテロンガー落とすなよ」

「明日はね、濱口さんと一緒に顔をつける練習をする予定なんだって。みんなが向こうで泳いでる時に教えてくれたんだ」

「へぇ。俺は濱口に言われてバタ足練習だとよ。ッチ、あの女。カルパス持ってくんなとかうるせー」


 プールのある四階から見れば、昇降口のある一階まで続く階段は果てしないもののように感じる。けれど、着実に歩いていれば、誰だってたどり着くことが出来る。

 だからきっと、後堂も輪浮も細谷も。そして、何もかもがダメダメな俺だって。

 いつかは前に進んでいる事を実感できる日が来るのかもしれない。

 階段の高い位置にある小さな窓から生温い《なまぬるい》風が入ってくる。俺たちの少し湿った髪と肌を、後ろから撫でて去ったあの風は、また俺より前へと吹き進んで行った。

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かっぺっぱっ!! 合上 恩 @minsou

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