かっぺっぱっ!!

合上 恩

第1話

 遅刻厳禁。提出日厳守。授業中寝るな、なにがなんでも起きていろ。

 そう説教してきた生徒指導担当の五十嵐茜先生は、小一時間ほどの説教だけに飽き足らず、俺を職員室の外へと引っ張り出した。

 職員室前の廊下は、先生の話が長かったせいでオレンジの光に包まれている。日がとっくに傾いた校舎内を静謐な空気が包んでいた。

 そんな楚々とした雰囲気を切り崩すように、先生は万力で締めつけるような圧力で俺の右腕をがっつり組み、熊のごとき大股で廊下を足早に進んでいる。その先生に引っ張られる形で、俺も強制的な早歩きをさせられていた。


「痛い痛い! 痛いっスよ!」

「この程度のことで騒ぎすぎだ。だから君は貧弱なままなんだ」


 ぎゅうっと一層力を込めて、不敵な笑みでこちらを振り向いた。顔を覆い隠すような長い前髪から、鋭くも楽しげに輝く片目が覗いている。


「体が貧弱なのと肘固めは違いますからっ!」

「んん? 同じことじゃないか? 要は逃げられれば苦痛からも解放される。それが出来ないということは、君自身に力がない証拠じゃないか」


 俺の半歩前を行く先生が子供のように無邪気に笑った。その顔立ちはわりと綺麗なほうで、三十半ばのアラフォーには見えない。けれど、腕の力が強すぎて、その見た目の良さも台無しになっていた。


「ち、力! 力緩めてくださいよ! てか、どこ行くつもりなんですかっ!」


 ありったけの力を込めて、俺は掴まれた腕を引っこ抜こうとする。が、コンクリ固めにでもあっているのかびくとも動かない。


「水無ともう少し話す必要があると思ってな。職員室よりももっといい場所を思いついたんだ」


 もがく俺に先生は余裕そうな声で言う。歩くスピードを更に上げ、嫌がる俺をぐいぐいと引っ張った。リノリウムの床を叩く先生のサンダルが、ぺたぺたと忙しなく音を立てている。


「いい場所なんてこの学校にはないっスよ!」


 というか、今時そんな言葉に惑わされるやつなんていないだろう。完璧に、幼児を攫う変質者と同じ手口だった。


「いやだ! 行かない! 俺は行かないぞっ!」


 両足をなんとか踏ん張らせ、俺は先生から逃れようと腕を引っ張る。すると、先生は気怠げな表情で、


「おい、急に暴れるんじゃない。まだ半分以下の力しか出していないんだぞ。ますます力を入れてしまったらどうするんだ」


 と言った。先生の周りを取り巻くオーラが闇の色を放っている気がする……。

 ぴたりと動きを止めた俺は、思わず先生に問い返してしまう。


「え……半分以下って……まじスか……?」

「柔道女子五十キロ級の覇者である私だぞ。そんなに説教が嫌ならば、はじめから遅刻などしないことだな」


 てこずらせるなと言わんばかりに俺の右腕を組み直す。

 ちょ……これで半数以下のパワーってことは、五十嵐先生とんだゴリラじゃね?

 先生との力の差をようやく悟った俺は、肩の力をふっと抜く。急に素直に従った俺を見て、先生が心底残念そうに言った。


「お? なんだ。もう反抗は終わりか? 骨が無いやつだなぁ」


 俺とさして変わらぬ身長でありながら骨までやられそうな腕力では、おそらく寿退社も遠いだろう。

 先生の未来を予想しながら、ため息交じりに口を開いた。


「はい、まぁ……体育教師でもあり、柔道部顧問の先生から抜け出すなんて俺には到底ムリですし……」


 って言うか、ちょっとどうでも良くなってきていた。

 先生の柔らかい何かがちょいちょい俺の右腕に当たっていて、もう最悪一本を決められても良いような気がしなくもなくなっていた。

 俺がそう言って、先生の歩みに合わせるように横に並ぶと、どこか納得するように頷いた。


「ふむ。君はすぐに逃げに入るのか」


 やっぱりなというような視線が、俺の顔にビシビシ突き刺さる。


「違いますよ。逃げてないっス。甘んじてるだけなんで」


 この状況に、ただ流されてるだけ。

 諦めたように返答すれば、先生はほぅと息を吐き出した。


「水無。逃げも甘えも同じことなんだぞ。違うと思っているかもしれないが、実はイコールで結ばれた同一のものなんだ。その事に気づく時が、いつか君にも来るだろう」


 諭してくる先生に答えないまま、俺は黙って足だけを動かした。

 きっと、先生が言いたいことは「自分を甘やかしているからこそ、逃げに走ることになるんだぞ」ってことなんだろう。

 でも、俺が考えるにちょっと違う。甘えた結果が逃げなんじゃなくて、逃げた先を甘えだと誰かが勝手に言い始めただけなんだ。

 遅刻も、提出日の期限越えも、授業中に居眠りしてしまうことも。最初からやろうとしていたわけではなく、徐々にだらけていった結果だ。

 その結果を見てから訳知り顔で言われたって、俺は今すぐ自分を変えられる気がしない。


「逃げも甘えも許されない。例え校長先生であってもだ。ただ、水無の改めるべき点は許される人も世の中にはいる。社長出勤をしていいのも、課題やらの用紙を提出しなくていいのも、仕事中に寝こけてもいいのも。全部、社長だけに許された特権だ」

「……そんな世の中、腐ってますね」

「まぁな。けれど、真実で真理だ。そうしたいなら水無がトップに立てばいい」


 窓から入る傾いた夕日が、真剣な顔の先生を照らし出した。先生は、しばらく俺の返答を待っていたが、何も答えないのを見て再び言う。


「頂点に立ちたいと思わないのか? 遅刻をしても寝ていても怒られない。課題の提出なんて一切ないぞ。何度注意されても直さない。腐った根性の君にはぴったりじゃないか」

「いや、先生。俺をバカにしすぎじゃないスか? 腐った、は余計ですけどね。こんな俺がなれるわけないっスよ」


 それに、こんな連行中に何が悲しくて先生と夢について語らなきゃならないんだよ。

 トップとか頂点とか社長とか。いかにも体育会系な熱い先生だ。俺はどちらかと言うと縁の下で支え、隙を見て反逆に撃って出るタイプなんだ。


「今は俺も学生だからこうですけど、社会人になったら変わると思います」


 現状は変わる気がしないので、とりあえず綺麗な言葉を選ぶ。

 先生は黙って聞いていた。俺と腕を組んで足を動かしたままで。何か思案しているようにも見える。けど、先生は何も言わなかった。


 もうすぐ一階の突き当たりに着いてしまう。そこにあるのは使われていない空き教室と、三カ所に設置された階段のうちの一つだ。


「先生、本気でどこに行くつもりですか?」


 まだ何処に行くかさえ教えてもらえていない。

 職員室前を通り、事務室、応接室、校長室と主要な教室を足早に過ぎ、生徒用玄関を通りすぎた今は、保健室や図書室、それに俺がよく使っている購買部の前を通っている。

 ここから先にある教室に行ったって同じ説教をするだけならば、職員室のままでも変わらない。

 俺がさっきもした疑問を投げると、先生はそれには答えず、逆に俺に質問をしてきた。


「水無。もし、君が、自分の甘えと逃避行動を打破できるとしたら、君はまず始めに何をする?」


 ちょっと哲学じみているような、心のあり方を問われているような。すぐには答えを見つけられないような難しい事を突然に聞かれ、俺は戸惑いながらも答える。


「え? あの、まぁ、そうっすね……まずはじっくり部屋で考えてから__」

「違う!」


 速攻で、遮られてしまう。

 まだ最後までプラン言えてないんですけど?

 でも先生はそんな俺に気付いてくれず、はぁと深いため息を吐き出した。


「……水無……そんな考えではダメだ……だから君はいつも遅刻をするし、提出日を守らないし、授業中は寝ているんだろう」


 俺の腕を掴んでる手と反対の手で、先生は長い前髪を掻き上げる。職員室で言われていた時よりも、諦めや疲労が見てとれた。


「部屋で考えてから行動に移す。そんなことでどうする。若さがあるならさっさと動け」

「いや若さって……先生の歳からしたら確かに若いっスけど」


 つか中坊なんてまだまだ子供の部類だ。

 すぐさま反論すると、俺の腕がみしみしと不気味に鳴いた。


「ん? 何か言ったか」

「いだだだ! 言ってません! 先生も若いのに〜って不思議に思っただけです!」

「そうか。ならばよろしい。続けるぞ」


 先生は仕切り直すように言い、腕の力をちょこっと緩めてくれる。


「水無には立ち向かう勇気がないからすぐに行動をするという考えが浮かばないんだ」

「それと、立ち向かう為の知能もないっスからね」

「ほぉ? 自分でわかっているじゃないか。そうだ。だからそれを学ぶ為に学校があるんだろう。遅刻常連、授業は聞かない。君は一体なにをしにここに来ているんだ」


 重いため息を吐いた先生に、俺はすぐさま言い返した。


「義務で来なきゃない場所だから来てます」


 中学生までは義務教育! みんなが知っている当たり前の事実だ。

 淀みなく、はっきり言い切ると、先生はふんと鼻で笑った。


「ふっ、そうくると思った。特に君みたいな中味がないタイプの生徒ならばな」

「中味がないって……いやまぁそうですけど、大抵の奴が言いますよ」


 俺の友達なんかもいつも言うし。「義務だから来てるし」みたいな。あれ? これって類友ってやつじゃね? 正確には類は友を呼ぶ、だったか……。誰だよ、類。花男かよ。


「中学までは全ての子供に一定の教育を受けさせなければならない義務。確かにこれに変わりはないからな」

「そうっスね」


 先生の言葉に軽く頷く。と、先生は廊下の端にある階段を上がり始めた。

 どこ行く気だよと思いながらも、俺も先生に引っ張られる形で、一段一段上って行く。


「義務でなければ来ないつもりか?」

「はい。隙あらば部屋で寝ていたいんで」

「ふぅん。つまり、引き篭もりになりたい、と」

「厳密に言えば半端篭もりです。欲しい物があったら買い物だって行きますし。別に外に出たくないわけではないし、引き篭もりの人とはちょっと違うと思います」


 俺がしっかり意見を言うと、先生は苦そうに唇を歪めた。


「そういう細かい所で反発してくる。そんな人間を、世間ではクズと呼ぶんだ」


 しっかり覚えておくようにと付け足し、先生は更に上へと上がる。

 二階から三階へ向かう階段でも、先生の腕力と脚力は変わらない。ぐいぐい引っ張りのしのし上がる。ゴリラって言うよりクマみたいだ。


「男子の体育は受け持ちじゃないから、水無の授業態度は私は知らない。だが、君の問題行動については他の先生方からも上がっていてな」


 真面目な声で諭してくる先生は、三階への階段も上って行く。

 もう……本気でどこに行く気なんスか……。


「水無は部活もしてないそうじゃないか」

「そうっスね。まぁ、やりたいのが一つも無かったからですけど」


 投げやりな感じで答えたら、先生はクスッと小さく笑った。


「やりたいのが無いんじゃない。正確には、やれそうなものが無いからだろう?」


 どこか自信満々な声で言われ、俺は見透かされたような気分になった。

 ちげぇよ。ちゃんと聞いとけよ。やりたいのがなんにも無いって言ってんだろ。野球もサッカーもバスケもバレーも卓球も陸上も囲碁将棋も吹奏楽だって。何もかもがやりたいと思えない。きっと、妥協で入る奴は居るだろう。でも俺はそれをしようとは思わない。だから、帰宅部でいいんだ。

 でも、先生に言い返したいのに、何故か言葉が喉につかえて出てこない。結局、俺は喉の奥底で、小さく「……ぐ、……」と呟くにとどめた。


「運動もダメ。勉強もダメ。だが、水無には無駄に膨大な時間だけが残っている」


 意気揚々と喋る先生を、俺はこっそり後ろから睨みつけた。

 そうだ。確かに俺は何も出来ない。けど、先生にそこまで言われる筋合いはない。それに、遅刻する奴はたくさん居るし、帰宅部の奴だって一定数いる。何も出来なくとも学校には来る。そんな奴は俺だけじゃないはずだ。


「あの、俺だってやれば出来ることもあるんスけど」


 先生の背中に声をかける。

 と、先生の歩みがぴたっと止まった。


「学も知識もないくせに、言い訳だけは一丁前にする。そんな水無みたいな生徒が私は嫌いじゃない」


 こっちを向いた先生は、ふっと優しい顔で微笑んだ。

 ……なんで先生はそんな言い方するかな……。きつく指導してきたと思ったら、急に優しい態度を見せてくる。だから五十嵐先生の事が、俺も他の教師ほど嫌いになれない。

 先生は俺を見つめながら、四階にあるたった一つの扉を指差す。上半分に窓ガラスが埋め込まれた銀色に光るアルミの扉だ。


「さ、入るぞ。君は今日から目標を持って突き進んでいくんだ」


 言いつつ、先生が目の前の扉を開ける。

 瞬間、塩素の匂いとむあっとした空気が辺りに漂った。


「え? ちょっ、先生……ここって……」


 慌てる俺を放置して、裸足になった先生が中へと入って行く。

 そして、腕をいっぱいに広げて、くるりと俺を振り返った。


「ようこそ、男子フィンスイミング部へ。君も明日から明確な目標に取り組む、中学生スイマーだ」


 全然歓迎されてない感じの。むしろ嫌な笑いをした先生に言われて、俺はちょっとだけ泣きそうになった。


***


 波打つ水面。反響する声。全身を包む熱い湿気。


「……すんません、先生。ここって……」


 聞くも、先生はずかずかとプールサイドに向かって歩いて行った。そして、手をメガホン代わりにして奥に居る人を大声で呼ぶ。


「濱口ーー! 最後の一人、連れて来たぞー!!」


 先生のデカすぎる声が、わんわんと場内にこだましている。ゆっくりクラゲみたいに泳ぐ生徒も、何事かと水上に顔を上げていた。

 だが、馬鹿デカいその声のお陰で、すぐに奥から一人の生徒が小走りでやって来る。


「茜先生! もう見つかったんですか?」


 スクール水着に白いジャージ。肩まである赤茶色の髪が、動きに合わせて揺れていた。


「すみません。すぐに見つかるだなんて思ってなくて……まだ準備出来てないんです」

「あぁ、今日はいい。顔合わせくらいで終わるだろうから」


 先生のとこまで来た生徒は、話しながら俺の方へと歩いてくる。

 そして、二人が俺の前まで来ると、先生が手短に俺を紹介した。

 

「濱口、この生徒が新しいメンバーだ」


 五十嵐先生の目がちらと俺を向く。つられて女生徒の瞳も動く。

 途端、大きな両目が更に見開かれた。


「え!? まさか、もう一人ってこいつですか!?」


 俺と目が合うなり、そう叫んだそいつは、心底嫌そうな顔をした。


「そうだ。ん? なんだ。同じクラスだったか?」

「いえ……クラスは違いますけど……」


 言い淀みつつ、視線を下げる。

 おい、どんだけ嫌がってんだよ。

 天井から落ちてる水滴みたいに、濱口のテンションがだだ下がっていた。


「そうか? まぁ……水無も濱口も知り合いなら、互いの紹介はいいだろう。よし、水無も今日から入部だ。濱口、しっかり指導を頼む」


 やっつけみたいに言った先生は、ぽんと濱口の肩を叩く。


「……あの、他に居なかったんですか?」

「今は夏だぞ。部活に入っている者は、大会に向けて精を出している。入っていない者は、塾に通っている者がほとんどだ。それに、練習時間も足りない。となると、ある程度、体育の成績上位者でないと出来ない。だろう?」

「はぁ、そうですね」


 盛大なため息を吐いた濱口は、渋々のていで頷いた。

 いや、嫌なら嫌ってはっきり言えよ。そんな態度を取られて黙ってられるほど、俺の心はまだまだ大人じゃない。


「先生、もう帰っていいスか? きちんと先生の説教は喰らったわけですし」


 先生は宥めるように濱口の肩を撫でている。

 アホくさ。やるなら二人でやってろ。

 来たくてここまで来たわけではないし、そもそも俺自身、ここに用は無い。

 くるっと後ろを向いた俺は、アルミの扉のノブを回す。瞬間、がっしりと腰を掴まれて、次いでズキリとした重い傷みが走った。


「これで終わりになるわけないだろう? いいから靴を脱げ」

「いてててっ! 痛いっスよ!」

「さぁ、早くしろ。時間が無駄に消費される」

「わ、分かりました! 分かりましたから、腰っ! 腰なし! ギブッ!」


 パンパンと先生の手を叩く。すると、ようやく痛みから解放された。


「いってぇ……先生、話しなら聞きますから。場所移動してもらえません?」

「私を何回も階段昇降させる気か? 君たちと違って足腰が悲鳴を上げるんだぞ」

「先生……それ完璧年寄りっスよね……グルコサミン必要なんじゃないスか?」


 膝回しのCMを思い出してると、先生が満面の笑みを浮かべた。


「水無。何度も何度も優しさと年に対する暴言を履き違えるんじゃない。分かったらさっさと靴を脱げ」

「はっ! はぃいいいいいいっ!!」


 笑顔の圧力が怖すぎて、俺は急いで靴と靴下を脱ぐ。「爽太……ほんとあんたってバカ過ぎ」と、呆れた呟きが濱口から聞こえた気がするが、今は答える余裕さえないから無視しておく。

 裸足になった俺は、プール場へと足を踏み入れた。

 ざらっとした床の材質と、ちょっと湿った感触が足裏に伝わってくる。

 プール用のスリッパを履いた先生が、先んじるように一歩踏み出した。


「では、向こうで説明する。濱口、君も来てくれ」

「分かりました」


 濱口に続き、俺も先生について行く。

 入り口から入って右手の奥。そこが男女の更衣室になっている。

 横に並んだ二つの扉のうち、先生は入り口に近い方。俺がプールの授業で使っている、男子用の更衣室を開けた。


「さぁ、入りたまえ。水無の仲間がもう待っている」

「ちょ、仲間って……いつから俺は一員になったんスか……」


 先生の妄言を流しつつ、二人に続いて中に入る。

 壁際にみっちりと隙間なく設置されたロッカー。申し訳程度にある寂れたパイプ椅子。中央に置かれた机の上には、何か荷物の詰まった半透明のケースが乗っていた。

 窓もなく、通気口しかない十畳ほどの狭いそこは、プール場よりもずっと蒸している。

 天井近くに設置された小ぶりの扇風機が、カラカラと音を立てて全力で首を振り回していた。


「おー、もしかして最後のメンバー的な?」


 既に中に居た四人の生徒のうちの一人。金色に髪を染め上げた男が俺を見ながら言った。


「そうだ。これで無事に四人。全員が揃ったな」

「っしゃー!! これでフィンスイミングが出来るっしょー!」


 ガッツポーズを決めたそいつは、先生とがっちり握手を交わす。

 ……おい、なんで入部が決定してるんだよ。つーかフィンスイミングって何?

 頭にはてなを浮かべる俺をよそに、そいつは先生へのノリのまま、俺にも手を差し出してきた。


「俺俺ぇー、三年二組の後堂流ごどうりゅうっつの。そこんとこまーじよろしく!」


 蛍光灯の光の下で、金色の髪がきらりと光る。そのずっとずっと下の方で、トラ柄パンツも異様に輝いていた。

 何故か後堂は指定の水着ではなく、派手な柄物のブーメランパンツだ。おい、そのパンツ完璧アウトじゃね?

 髪色以上に明るく笑った金髪野郎……改め、後堂が強引に俺の手を握ってきた。


「お、おぅ……八組の水無爽太みずなしそうただ。よろしく」


 一瞬、シカトしようかと思ったが、後が面倒そうなので辞めておいた。

 面倒つーか、怖いっつーか。こんなヤンキーの知り合いいた事ないから、正直対処に困る。


「おー! 水無君ね、オッケーオッケー! とりま仲良くやろーぜー!」

「お、おぅ……」


 後堂は俺の微妙な反応を気にせず、握手したまま腕をぶんぶんと振ってきた。

 いってぇな! シェイクハンドの意味間違えてんぞ!

 後堂の激しい腕振りで、俺の体もガクガクと不規則に揺れていた。


「とりま、一緒にがんばろーぜ!」


 最後にぎゅっと力を込めると、後堂はようやく俺を解放してくれた。

 くそっ! 金髪バカ力のせいでっ!

 後堂のラストの親愛アピールで、俺の右手が赤くなっていた。


「後堂、次の生徒に移っていいか?」


 俺たちの話しが終わるのを待っていたのだろう。先生はいつの間にか椅子に座り、足を組んで俺たちの方を見ていた。


「いいっスよー! もう水無君のクラスも分かったしー? いざとなったら俺が呼びに行けばいいしー!」


 え、何それ怖っ! もしかしなくても入部の脅しのつもりだろうか。

 戦々恐々としていたら、扉の前に立ってた濱口が口を開いた。


「後堂君、今週末にはもう夏休みが始まるんだけど?」


 そうだ。金曜には終業式だ。約一ヶ月の長い長い休みに入る。

 だから、後堂のその作戦は通用しない!


「だーいじょぶ、だいじょぶ。何回か誘いに行ったらー? 水無君から来るようになるっしょー」


 なんて能天気なノープラン。しかも、俺がその場でノーと言う予定すら組み込まれていない。

 それを濱口のほうも思ったのか「あぁ……」となんとも言えない表情で固まっていた。


「じゃー、残りのメンバーもサクッと紹介してくからー」


 俺と濱口のことなどお構いなく、後堂は後ろを振り返った。

 まるでバンドのメンバー紹介みたいだが、一人を除いてみんな海パンだ。


「こいつは一組の細谷海翔ほそやかいしょうっつーの。まぁ見て分かるっしょ? 名が体を表すの逆バージョン!」


 細谷と呼ばれたそいつは、ぽっちゃりとした顔を不服そうに歪めた。


「おい、名前は関係ないだろ」

「わっり! ちょっとしたジョークだって! な?」


 怒るなよーと言いながら、後堂が顔の前で謝るような仕草をする。

 ……こいつ、見た目だけヤンキーで中身全然伴ってねぇんじゃね?

 腰を低くした後堂の前で、ぽっちゃり細谷は眼つきを鋭くさせていた。


「ごーめごめ、もう言わねーし!」

「ふん! この次はないからな」


 吐き捨てるように細谷が言うと、後堂はしゅんと肩を縮こめた。まるで親に叱られた子供みたいだ。

 超どうでもいい後堂情報だけが、頭の中にインプットされていく。

 スナック菓子を食ってる細谷は、指を舐めると、俺を見てきた。


「細谷だ。よろしく。ここにある菓子は全て俺の物だ」

「あ、あぁ食わねぇよ……細谷だな。よろしく」


 遠回しに「更衣室にある菓子は絶対食べるな!」と所有権アピールをされた。

 誰が床に落ちてる菓子食べるっつーんだよ。

 すのこの敷かれた更衣室の床に、まだ入ってる菓子袋、もう空になってる菓子袋、そして細谷の口からボロボロ溢れた菓子クズたちが落っこちていた。


「そうか? まぁ食べたきゃ言えよ。気分次第でやるかもしれないしな」

「……そうか」


 ふてぶてしい態度の細谷は、会話を終えると新たな菓子を開封した。しゃり、もぐ、と咀嚼する音が更衣室内に響いている。

 先生は呆れた顔をするものの、なぜか注意をしようとはしなかった。恐らく、この細谷も俺と同じで、いくら言われても間食を辞めないから諦められているんだろう。

 その微妙な空気を変えたのは、濱口だった。


「あ、はいはーい! 細谷君は終わり! ほら、後堂君、最後れーちゃんも言わないと!」


 濱口が手をパンパンと叩いて先を促がす。

 そうだ、さっさと終わらせて家帰って寝ないと。

 ここの熱さと強烈なメンバーとの初対面に、俺の頭はヒートしていた。それに加え、この部屋の暑さから額にじっとりと汗も浮かんでくる。


「だなー、えーと、じゃーあー最後! んじゃ、次いっきまーす!」


 元気良く仕切り直した後堂が、最後の一人を指差した。

 ロッカーに寄りかかるように立っていたその生徒は、恥じらうように身を捩った。


「あ、あの、後堂君。ちゃんと、僕から自己紹介する、よ……」


 一歩そいつが近寄ってくる。ふわっと甘い香りがした。

 くりっくりの目とかちりと合わさる。そいつの頬が少しだけ赤らんだ。


「え、えっと……僕……七組の輪浮泠わうきれいです。その……水無君は覚えてないかもしれないけど、体育いつも一緒だから、僕、勝手に水無君のこと知ってるんだ。よろしくね」


 へへっとはにかむように笑って、輪浮がぺこりと頭を下げる。

 これまでと違う、優しい対応に、ちょっと食い気味に俺は返事をした。


「こ、こちらこそ! よ、よろしく……お願い、します」


 ……いい……なんだよ、この気持ち……。

 上下の白いジャージと同じくらい、肌も透き通るような白さだ。


「よし、じゃあ各々の紹介は終わったな」


 先生が椅子から立ち上がる。

 ちょっと先生! 自己紹介タイム短くないスか!?

 そう思って先生を見ていると、後堂が安心したように息を吐き出した。


「はあー。まーじどうなるかと思ったっしょー。個人じゃムリだとか先生言うしー。水無君来てくれてまーじ良かったわー」


 個人じゃムリって、どういう意味だ?

 フィンスイミングは知らないまでも、水泳については少しは分かる。水泳の競技は個人かメドレーリレー。そこに種目やら距離やらが付随して、色んな種類として競っているのだ。その為、四人で行うリレーよりも、個人競技の方が種類が多い。

 普通に考えて、リレーするよりもメンバー集めをしなくて良いぶん、個人の方がやりやすいはず。それに個人競技なら種類もあるから、自分が泳ぎやすい距離や種類を選んで出場だってしやすいだろう。

 後堂と一緒に答えを待つ。

 先生は前髪を掻き上げてから、重たい口を開いた。


「それは後堂。君が初心者だからだ。君が出来ないから、という意味じゃないぞ。初心者で一人で出るよりも、仲間と出たほうが思い出に残りやすい。そういう意味でリレーなんだ」


 先生の答えは曖昧で、けれどはっきりとした口調だった。


「それに、こうして四人が集まったんだぞ? これでも探すのに苦労したんだ。特に夏休み中は塾の夏期講習に行くという生徒ばかりでな……」


 遠くを見つめた先生を見て、後堂が労うように言う。


「いーやー、みんな分かってないっしょー。先生の気持ちー。高校受験前だからこそ中学最後の思い出を作るのが男ってもんっしょ!」


 ジャージの袖を捲った後堂が、腕の筋肉を見せつけてくる。だが、先生は黙って自らの袖を捲り、筋肉隆々の腕をさらけ出した。


「……」


 俺たちはみんな無言になる。男とは何か。女性であるはずの先生に、それを体をもって教えられていた。

 輪浮はロッカーに体を寄せて、ぷるぷると小さく震えている。……可愛すぎる。何あれチワワなの?

 庇護欲そそられるその姿に、うっかり入部を許諾してしまいそうになる。いかんいかん。まずはフィンスイミングとはなんぞや、を聞いてからだ。

 袖を下ろした先生は、つっと部屋の中央を指差した。


「濱口、あのケースを開けてくれ」

「はい」


 指示を受けた濱口が、机に乗っていたケースを開ける。

 中から取り出したのは、イルカの尾ビレみたいな形をした黒いゴム製の道具だった。


「君たちの中で、フィンスイミングをした事がある者はいるか?」


 先生がぐるっと見回す。誰も彼もが首を捻っている。

 俺たちの反応を確認すると、先生は再び説明し始めた。


「では、まずはフィンとは何かについてだ。

いま濱口の手にしているもの。それがフィンと呼ばれている。それを足に着けて泳ぐことから、フィンスイミングと呼ばれているんだ」


 大きなヒレみたいな黒く光るフィンは、近くで見ると細かな傷が付いている。ケースに入った何枚ものフィンが、使い込まれたようにくたびれていた。

 磯の香りもほのかにする。どう考えても、新品ではない。


「もしかして先生、やってたんですか?」


 ぱっと道具を見た印象から、勝手にそうだと結論付ける。


「いや、私はやっていない」

「え? そうなんスか?」


 じゃあ、なんでこんなボロいんだよ。

 後堂も同じように思ったらしく、首を捻って質問を重ねた。


「えー? するってーとー、誰がやってたんスかー?」


 と、先生が皮肉な笑みを浮かべる。


「あいつらが……私の友人がな……急に結婚が決まっただかで、いらないからって私に渡してきたんだ。……くっ! 自分たちは海で知り合ってそのままゴールインするくせにっ……!」


 言い切って先生は肩で息をする。荒ぶった気持ちを押さえるように、固く拳を握っていた。

 なんでフィンスイミングの説明のはずが、先生独身残念会みたいに変わっちゃってんだよ……。

 爽やかな部活紹介の場が、重苦しい空気に包まれている。

 誰も動けずにいる中、フィンを持ってた濱口だけが、慌てて先生の元へと駆け寄って行く。因みに細谷はバリバリ菓子だけ食ってた。……お前、ちょっとは自重しろよ。


「茜先生! 大丈夫ですか!?」

「だ、い丈夫……だ……続けよう……」

「先生!」


 膝に手をついた先生が、ゆっくりと上体を起こしていく。

 あれか。結婚すると邪魔になるから、先生はゴミ箱代わりにされたのか。

 哀れんだ瞳で見ていると、横から支えていた濱口と目が合った。濱口はパクパクと口を開閉して、声にならない声を出している。


「は? なに? ……え、ん、む、す、び、の、ふぃ、ん?」


 はあ? お前、なに言ってんの? つか言いたいことあるならはっきり言えよ。

 意味不明な濱口を見てたら、先生が掠れた声でぽつりと呟く。


「そうか……そうだったのか……」


 そして、急に生き生きと喋りだす。


「あれは縁結びのフィン。御守り代わりかっ! 濱口、分かったぞ。これには私の友人たちの愛の結晶が詰まっているんだ! 泳げずとも問題はない。御守りだからな」

「すごい! ご利益ありそうですね!」


 何を言ってるんだか分からない。パチパチと拍手する二人の姿は、傍目には怪しい護符を売り付けられた人にしか見えなかった。

 横でフィンを触ってた後堂までもが「先生まーじ正気かよ……」と引き気味だ。

 先生は前髪を掻き上げて、こほんと咳払いする。


「さて、話しを戻すぞ」


 そう言って俺たちに向き直った。

 助手の濱口も素早く移動して、ケースからフィンを二つ取り出す。


「濱口が右手に持つフィンと、左手に持つフィンは違うものだ。その違いは……輪浮、分かるかね?」


 質問を振られた輪浮は、うーんと言って顎に手を添える。たったそれだけの仕草なのに、めちゃくちゃ可愛すぎてもうヤバい。


「右にあるのが一つになってて、左にあるのが別れてます。それ以外は……ちょっと、分かり、ません……」


 体を小さく縮こめて、ますます日守がこじんまりとする。自分の答えに自信がないんだろう。

 心配するように揺れる瞳に、うっすら涙が溜まっていた。

 その輪浮を見て、先生がふっと微笑む。


「輪浮、正解だ。形状は同じだが、双方は別物なんだ。右にあるのがモノフィンと呼ばれ、左にあるのがビーフィンだ。違いについては輪浮が言っていた通りだ」


 先生が正答を出す。輪浮が嬉しそうにえへへと笑っていた。


「モノフィンは一枚板になっている分、推進力が高い。ビーフィンよりも早く泳ぎきることが出来る」

「へーなーる。っつーことはー、俺たちはモノフィンを着けて泳ぐっつーわけ?」

「そういう事だ」


 後堂の確認を受けて、先生がこくりと深く首肯した。


「ビーフィンは別れてるからバタ足でも進めるんだけど、リレーの場合はモノフィンでって決まりがあるんだって」

「ふぅん。なら、ドルフィンキックが上手く出来ないとダメってことか」

「そうなるね」


 ほぉ、フィンスイミングも奥が深いのな。

 濱口と話してるうちに、後堂がフィンを足に嵌めていた。水中じゃなく、地上にいるせいか、ヒレと言うよりは足枷みたくなっている。しかもモノフィンを着用しているせいで、ぴょんぴょん跳びでしか前に進めていない。


「しゃー!! やーっぱやるっきゃないっしょー!」


 ウサギのように跳ねる後堂は、そのまま更衣室から出て行こうとする。

 海パンも普通の海パンじゃないし、相当やる気があるんだろう。

 トラ柄パンツのパツキン後堂が、ようやっと扉の前まで行った。……いや、プールサイドまでは履かずに行けよ。

 そのまま出ようとした後堂だが、それを先生が素早くストップをかけた。


「待つんだ、後堂。まだ話しは終わってないぞ」

「えぇ〜? まーだ何かあるんスかぁー?」


 まだ話しがあるのかよ……。

 後堂じゃないけど、俺も同じ気持ちになった。

 SHRが終わってこっち、ずっと先生と話してるんだ。まだ続くという事実にげんなりしたって仕方がない事だと思う。

 不満たらたらな顔をして、後堂が元いた場所に戻った。


「そう言うな。はやる気持ちも分からないまでもないが、まだ使用する道具があるんだ。濱口、アレを」

「はい、先生」

 

 濱口が、ケースから何かを取り出す。

 細長い筒に丸い咥えゴム。頭に巻くゴムバンドも付いた、海水浴でよく使われるアレだ。


「フィンスイミングはこれも付ける事になっている」

「シュノーケルっスか。ずいぶん大掛かりっスね」


 海女さんとかの素潜りなら分かるが、普通の泳ぎじゃ使わない。もしや、イルカみたいに深く潜ってく競技か?


「シュノーケル!? まーじかよー。俺、使えっかなー……」

「咥える部分があるのか。飴をいくつか仕込んでおけそうだな」

「うわぁ……! すごいね。道具もかっこいいなぁ」


 驚く後堂。感嘆する輪浮。ただ細谷だけが、明後日な方向にやる気満々だった。

 俺たちが四者四様の声を出してると、濱口は更にケースから何かを出す。


「それと、これも鼻に付けることになってるから」


 細く曲がった針金の先には、透明のゴムがくっ付いている。


「鼻栓か」

「そう。あれ? 爽太って使ったことあった?」

「ねぇよ、あるわけねぇだろ」


 よくシンクロなんかで使われてるから、テレビ越しに見たことがあるだけだ。

 そんな何てことない会話をしてると、輪浮が不思議そうにこちらを見てきた。


「? どうした、輪浮」

「うん、あの……爽太って名前呼びしてるから……もしかして二人は知り合いなのかな? って」


 コテンと小首を傾げる。

 違う! 断じて違う! 濱口なんて奴、俺は知らない! むしろ、今日知ったばかりの輪浮をずっと以前から知っていた運命の相手だと思っている。

 俺が否定しようとしたその瞬間。先に濱口が口を開いた。


「ち、違う! こんなキモい奴、知らないし!」

「え? そうなの? 名前呼びだから……てっきり」

「違う違う! れーちゃん何言ってんの!? あんなのと知り合いとか……あ、あり得ないからっ!」

「そっかぁ、そうなんだぁ」

「うんうんうんうん! そうそうそうっ!!」


 意気込んで喋ったせいで、濱口の顔が赤くなっている。濱口への加勢というわけじゃないが、俺も自身の為に付け足しで言っておく。


「そうだ。あり得ない。クラスも違うのに知り合えるはずかない」

「そう……なの?」

「あぁ、そうだ」


 ちょっと不思議そうにしていたが、俺がこれ以上は何も言わないと分かると、素直に頷いて身を引いた。


「ところで、先生」


 腕組みして話しが終わるのを待っていた先生に目を向ける。


「ずっと思ってたんスけど、フィンスイミングって潜水競技なんスか?」


 長距離とか潜るような競技だと、体力がごっそり持っていかれる。全員がそんなタフな体に見えない。なんでお前らってやろうとしてんの?


「いや、たったの五十メートルを泳ぐだけだ。それを四人でリレーで繋ぐ。君たち四人でも出来るだろう?」


 挑発するような目で俺を見てくる。

 隣で、後堂が「五十!? 五十ってーと、えーと……」と首を捻っていた。アホ。うちのプール一本分の長さだろ。


「たったって言いますけど、五十メートルだって長いですよね? それに、誰もしたことがないフィンスイミングをやる意味ってなんなんですか?」


 問うと、先生の目がすぅっと細められた。

 さっきの筋力披露も合間って、殺気みたいな威圧感がある。


「なぜそんな事を聞く?」

「なぜって……普通に気になるからじゃないっスか……」


 少し怖い雰囲気を感じ取り、俺は言い淀みながら答える。先生はじっとこちらを見たままだ。俺も先生の瞳をしっかり見据える。

 数秒。先生は黙っていたが、俺が目を逸らさずに構えていると、諦めたようなため息を溢した。


「五十メートルなのは、ルールでそう決まっているからだ。これが一番短い距離で、後はもっと長くなっていく。一人の泳ぐ距離が長くなるほど、短期間の練習では結果が出しにくい」

「結果ってまさか……俺たちを大会に出させるつもりじゃないですよね?」


 まさか、そんな、未経験者ばかりなのに。

 だが、その問いに答えたのは、先生ではなく後堂だった。


「いーやー、やるからには出るっしょー! 出ないならなんで練習すんだよー的な?」

「お前、頭大丈夫か? 誰もやったことがない、聞いたこともない競技でいきなし大会に出るんだぞ? 断トツのビリをかっさらって、俺たちは会場中の笑い者だ」


 そもそも、大会だってそんな簡単に出られるものなのか? よく運動部の連中が「地区大がー」とか言ってるけど、それも五月の梅雨どきだった。今はもう七月も終わりに差し掛かった夏真っ盛り。普通の運動部だってこの時期は、東北大会なり全国大会なり、選ばれた人だけが出ることになるだろう。

 現に、地区だか県大だかで負けたサッカー部の連中は、引退して自由気ままな生活を送っている。

 あれ? あいつらの方が俺より甘えた生活してね?


「俺もさ、先週の水曜あたりに先生に言われて練習してんだけどー。なーんかフィンスイミングって誰でも大会出れるらしいんだよねー。だから水無君も、そんな難しく考えんなってー!」


 へらへら笑いの後堂が、俺の肩にポンと手を乗せてくる。お前はもうちょい真面目に考えろよ。と、その反対側の肩にも、誰かの手が乗せられた。


「もし一位が取れたら、俺たちは学校で初めてのフィンスイミング優勝者として、永遠に伝説に残ることになる。因みに優勝したら、五十嵐先生から焼き肉食べ放題が貰えるぞ」

「焼き肉って……全然そそられねぇよ」


 細谷がフィンをやる理由だけを、明確に理解することが出来た。


「つーか」


 言いつつ、二人の手を払いのける。先生の眉根がぴくりと動いた。


「フィンじゃなくて普通の水泳だって、いまさら大会に出れないっスよね?」

「それはない。安心しろ。フィンスイミングの参加資格は、健康な小学生以上の人、だからな」

「そうっスか。それで、…………え? 健康な人?」


 聞き流して次に行こうと思ったが、そうする事が出来なかった。

 おい、ちょっと待てよ……なんなんだよ、その超アバウトな参加資格は……。もういっその事、やりたい人は寄っといでー! な方が分かりやすいんじゃないだろうか。


「間口は広いが、余り認知されていない。君たちでも、今から大会までの一ヶ月間、みっちり稽古すればきっと上位に食い込める」

「いよーっしゃ! 俺たちで伝説作ってやろーぜー!」


 先生の発言で後堂が拳を掲げた。それを細谷も日守も濱口さえも、微笑ましい顔で見つめている。

 けれど、俺はそんな風には出来ない。

 なぜなら、先生の言葉が曖昧だから。


「先生、まずはフィン無しの練習からがいいと思います」

「そうか。水泳は私も得意なほうではなくてな。練習方針については濱口に任せる」

「はい。じゃあ、水泳部部長とも話して決めてきます」

「おぉー!? 本格始動しちゃう俺ら、的なー!?」

「ほんとだな。昨日まではプールで泳ぐことすら出来なかったし。マラソンなんてやりたくねーよ。飴が口から落ちるしよぉ」

「うん、確かにマラソンはちょっと……暑いしキツかったね。でも今日は使えるんだよね?」

「大丈夫だよ。顧問の岩沼先生からもようやく許可が下りたし。それに、部長にも話しは通してあるから、今ならもう使えると思う」

「ひょっほー! 待ってましたわ、この瞬間! やーっぱ夏は冷たいプールっしょー!」


 始めから意味なんてないかもしれない。考えるだけ無駄なのかもしれない。

 それでも俺は考えてしまう。意味のない事に理由を求める。先生の言葉の裏を模索する。

 きっと、俺は__いや、俺たち四人は。

 部活に入らず、規則を守れず、堕落した生活を送っている。そんな共通点のあるダメ人間が、ここに集められているんだ。

 先生は来る前に言っていた。自分の甘えと逃避行動を打破する為に何をするのか? って。

 恐らく、その答えこそが、この聞いた事もないフィンスイミング部なんだ。

 きゃっきゃわいわい話してる中に、俺は真っ向から斬り込んだ。


「先生。先生はそうやって大会を使って、俺たちに世の中の厳しさを教えたいんですよね? でもそれで本当にいいんですか? 教師なら、自らの手で指導していくべきじゃないですか? それともこれが、波風なみかぜ中の。いや、五十嵐先生のやり方なんですか?」


 どうせ目的はそこなんだろうけど。

 言っても聞かない。決まりを守れない。

 なら、外側から変化をもたらせばいい。

 知らない人から嘲笑されれば、恥をもって己れを知る事が出来る。そこから少しずつ自分を変えていくのが、先生の理想の形なんだろう。

 しんと辺りが静まり返った。

 後堂と輪浮が気遣わしげに俺を見てくる。濱口は顔を俯かせていた。細谷がポテチをバリバリ食っている。おい細谷、いい加減にやめろよ。


「ならばそうならないようにしたらいい。なぜ君は後ろ向きな結果ばかりを見ているんだ? これをチャンスと捉えて、先へ進めばいいんだ」


 前髪を掻き上げ、ふぅと息を吐く。

 長い前髪に覆われてた顔は、予想に反して穏やかな笑みを湛えていた。


「フィンは後ろへは進めないんだぞ? みんなと一緒に前へと進めばいい」

「……だ、誰が……上手いこと言えっつったんスか……」


 俺の精いっぱいの皮肉な抗弁も、柔らかな笑みで流されてしまう。


「水無と一緒、みんなが知らない事だ。それでも一人じゃないぶん、心強いだろ」


 どこが、心強いって言うんだよ。

 金髪パリピに、我がままボディー、貧乳濱口……あ、輪浮は違う! 唯一輪浮だけが俺のオアシスだ。

 と、輪浮の方を窺うと、そこには驚きの光景が広がっていた。


「え! え!? 待てよ、輪浮って…」


 ジャージの上下を脱いだ輪浮が、白い肌を惜しげも無くさらし、海パン一つで佇んでいた。


「ちょっと待てよ、マネージャーじゃねぇのかよ……」


 俺の小さな小さなぼやきを拾ったのは、ぺったり体型の濱口だった。


「あんたなに言ってんの? ここ、男子更衣室。それに体育で一緒って、れーちゃん言ってたじゃん」

「体育って、たまーにある男女合同体育の意味じゃねぇのかよ!?」

「はあ? 爽太、あんたほんと……」


 至極呆れた顔の濱口は、それ以上なにも言わなかった。言わないどころか、開いた口が塞がらないらしく、ぽかんと間抜けに開いている。


「さぁ、では行くとするか。もうほとんど時間はないがな」

「待ってましたー! これの為に、海パンだって持ってきたわけだしー?」

「くそ。海パンだとポケットねぇから菓子が持ち込めねぇ……」

「うぅ〜なんか緊張するね。久しぶりだけど、泳げるかなぁ……?」

「今日は使わないので、このままケースにしまっておきますね」


 濱口がフィンやらシュノーケルやらを元の通りに戻した。


「そうだよな……普通の水泳でも男女混合リレーなんてないもんな……」

「夢見すぎ。しかも四人中一人しか女子いないの不自然じゃん」

「だよな……全然考えてなかったわ……」


 輪浮は女子じゃない。濱口と同じくらいの体型だけど、輪浮は真性の男の子である。

 それを認知した俺の脳は、急速に動きを鈍くさせた。


「水無。君は水着を持ってきていないだろう?」


 プール場へと行きかけた先生が、俺を振り返って訊いてくる。


「……はい、ないっス……」

「ならば見学だけでもして行くか?」

「……いえ、今日はもう帰らせてください……」


 異様にテンションが下がってるせいか、先生は「そうか」とだけ言って、扉を開けて三人を外へと促す。

 ぞろぞろと出て行く連中は、俺と対照的にテンションが上がっていた。


「明日からは水無も水着を持ってくるように」


 そう申し渡してきた先生の、ジャージの下に着ているぱつぱつのTシャツが視界に入ってくる。はち切れんばかりの胸元を目にして、俺は慌てて顔ごと逸らした。その逸らした先には濱口がいる。モノフィンの推進力のごとき一枚板のようなのっぺりさが、却って俺の心を安心させた。


「じゃあ一旦、鍵閉めるから爽太も出て」


 沈痛な顔する俺を見ても、ぺたんこ濱口の厳しさは変わらない。さっさとしろと言いたげに睨まれ、先生に続いてのろのろと更衣室を出る。

 プール場の入り口まで来ると、先生がくるっと振り返った。


「では水無。今日はここまでだ。だが、明日からは君も一緒に練習するように」

「嫌っスよ。俺、やるって言ってないんで」


 それだけ言って、その場を立ち去る。「爽太!」って誰かが叫ぶ声がしたけど、俺はそれを振り切って扉を開けた。

 俺はまだ中学生なんだ。遅刻も提出物の遅れも居眠りも、学生のうちしか出来ないことで、いつかは直さなきゃいけないってことも知っている。けれど、今すぐ直そうとしなくたって困らないからいいじゃないか。

 真面目になってルールを守って、普通の生活を送ったところで何になれる? 不真面目な奴に社長は務まらないだろうけど、別に俺はトップを目指してるわけじゃない。ある程度の幸せな人生を送れたらそれでいいって思っている。

 ここに来る時、五十嵐先生は「甘えと逃げは同じことだ」と言った。

 本当にそうなんだろうか。

 人生の曲がり角で、ちょっと休息していたり、悩んで立ち止まっている人に対しても先生は同じ言葉を言えるんだろうか。

 考えるな、まず動け。立ち止まるなんて甘い考えは逃げにも等しい行為だぞ。

 あの先生ならば言いかねない。松岡修造ばりの熱血教師なら、ストレートにそう言うかもしれない。

 けれど、俺はその考えには賛同できない。

 何度も立ち止まって考えて、何度も振り返って前へと進む。その方が失敗も少ないし、何より後悔が少ないことを俺なりに経験してきて知っている。

 だから、どんなに蔑まれようとも、俺は逃げと甘えだけで生きている、なかなか前に進めないやる気の無いダメ人間のままでいいんだ。

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