え?スシの初恋?
木本雅彦
え?スシの初恋?
S氏とは、というところから始めよう。
S氏はショートショートに頻繁に出没する、没個性化された主人公である。没個性とはすなわち、個性のスポイルであり、汎化であり、作品を不変性にするギミックでもある。
しかしS氏には別の顔もある。S氏とはエスシであり、つまるところスシの一種である。
S氏は今日も食べられる。たい焼きの日常がそうであるように、人を食った話にばかり登場するS氏は、実のところ人に食われる側でもあった。
「とは言え、だね」
S氏は主張する。
「私がスシの一種であるなら、横山やすし師匠もスシの一種であるな」
うん、この話題はやめようか。それよりも、S氏自身のことに戻そう。彼が没個性な名前で不便でないかというのは気になるところだ。
「いや、わりと不便はない」
ほう?
「たとえば、この名前で恋愛することもできる」
ラブ寄せで来たか。斜め上の個性的な発言だね。
「ねえ、君。考えてもみたまえ。恋愛というのは、通常ふたりの間に成立する。『君と僕』『あなたと私』。つまり親しくなれば親しくなるほど、相手を指し示すのに固有の名称が必要なくなる」
主張は分かる。
「私がS氏であることは、不利にはならない。むしろ最初から、みんなのS氏として扱われる。博愛の中心にいる。世界の中心の愛は私のもとに集まる」
大きく出たね。つまり元から確立された名前をもたない君は、すべてのひとびとと恋愛関係にあるということだね?
傲慢だね?
「ところで、S氏である私としては、エスについて語りたいのだが」
エス?ああ、あのエスか。少女同士の強い関係を表現する隠語として、戦前に用いられた言葉だね。
「実は、私、S氏は女性なのだ」
ほほう。奇遇だね。実は『私も女性なんだ』けど。
「そうか」
そうだね。
「ちょっと君のことが気になっているのだが」
エスってやつだね。おかしな出会いだけれど、そんな恋でもいいかと思うよ。
「じゃあ恋をしよう」
そうしよう。
え?スシの初恋? 木本雅彦 @kmtmshk
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