訪問者

善田ケイスケ

訪問者

 相談があると言ったのが克樹だった。つい昨日の話だ。急な話だったけど、ちょうど克樹に用もあったし、わたしは化粧もほどほどに、集合時間の二十時に間に合うよう、克樹の住むアパートへ向かった。


 自宅から克樹のアパートまで、それほど遠くはない。電車に十分ほど揺られ、さらにそこから五分歩くとあっという間に着いてしまった。少しばかり早い訪問に、克樹はよく来てくれたと快く出迎えてくれた。克樹には高校時代、何かと世話になっているしとわたしが言うと、持つべきものは友達だぜと、おおげさに泣き真似をしてみせた。

 はっきりと「友達」と言った。

 もうわたしが彼女だったということも忘れているような口ぶりだ。こういうデリカシーのないところも、全く変わってない。


 すぐにその相談とやらに移るのかと思いきや、どうやら克樹の大学の友達も呼んでいるらしく、しばらく二人で待つことになった。相談も、その友達が到着してからの方がいいだろう。わたしの用も、友達が来るようでは日を改めた方がいいのかもしれない。


 少しは部屋を片付ける努力をしろと、部屋の隅に寄せられたゴミを眺めていると、克樹の携帯が鳴った。例の大学の友達かららしい。聞き耳を立てると、どうやらこの辺りで迷ってしまったとのことだった。確かに駅から克樹の家までは入り組んだ路地が多く、わたしも来るときに危なく迷いかけた。

 電話を切った克樹はすぐにクローゼットからコートを引っ張り出し、友達を探しに行くと告げた。もしも友達と入れ違いになってしまったときのために、わたしはそれまで留守を預かることになった。

 克樹が家を出ると、言いようのない緊張感に襲われた。人の家で留守番というのも、なかなかないことだ。部屋の中を少し探ってみたい衝動に駆られるが、後から怪しまれるようなことはしない方がいい。


 数分ほど落ち着きなくそわそわしていると、インターホンが鳴った。はいと返事をして玄関に向かい、ドア越しにスコープを覗くと、同い年くらいの女の子が立っていた。その姿に、わたしはああ、と察しがつく。おそらく道に迷っていた、克樹の友達の一人だろう。

 ドアを開けると、彼女はわたしを見てえっと声を漏らし、身を引いてしまった。当然の反応だ。友達の家を訪ね、見知らぬ人が出てきたら、誰でもこうなる。克樹も少しは説明しとけと思いながら、わたしは困惑の色を隠せない彼女へ微笑みかけ、警戒を解こうと試みる。


「すみません、克樹の友達ですよね?」

「え、いや、そ、そうですけど」


 ぼそぼそと呟くように彼女は答えた。


「わたしは克樹の高校のときの……知り合いです。今ちょうど友達を探しに克樹が出て行って、留守を任されていたんですけど、入れ違いになっちゃいましたね」


 彼女はまだ状況を摑めていないらしく、目線を下に向け、何か考えを巡らせているようだ。茶色に染めたショートヘアーの隙間から、赤いピアスがちらりと見える。納得のいくまで説明したいけど、季節は冬。キンキンに冷えた空気が、今もなお止めどなく部屋へ流れ込んでいる。彼女も右手をダウンのポケットに突っ込んだままだ。


「もうすぐ克樹も帰ってくると思うんで、寒いですし、とりあえず中入っちゃってください」


 彼女は数秒迷った末、辺りをキョロキョロと見渡してから、駆け込むように部屋へとあがった。なかなかクセのある子だ。克樹が帰ってくるまでになんとか打ち解けないと、気まずくていられない。


 部屋に戻ると、わたしは友達が着いたことを伝えるため、克樹に電話をかけた。が、しかし。しばらくコール音が繰り返されるだけで全く出る気配がない。あきらめて電話を切り、彼女へと視線を向けると、彼女はソファーに座り、まだ何か考えごとをしているようだった。わたしはキッチンでヤカンに火をかけながら、まずはコミュニケーションだと、それとなく話を振る。


「いやー、あの克樹が相談だなんて珍しいですよね。大学ではどんな感じなんですか? そんな悩んでる素振りありました?」

「あの、今日はどういう……」


 目を合わせずに彼女は言う。


「どういうって……あれ? 今日って克樹の相談を聞くための集まりで――」

「いや違うんです、そうです、そうでした」


 わたしの言葉を遮るように、彼女は早口で返答する。緊張しているせい……なのか? 緊張していなくても、普段からこうなのかもしれない。いやそうだとしても、あの克樹がつるむようなタイプじゃ……

 そんなことを考えているうちに、グラグラとヤカンの水が沸騰したようで、火を止めてから適当に二人分のコーヒーを作る。どうぞと彼女の前にマグカップを置くと、彼女は何を思ったのか、突然こちらへと振り向き、口を開いた。


「克樹はもう帰ってきますか?」


 唐突、と思ったのも束の間。ようやく合ったその瞳はどこか薄暗く、そして……真っ赤に充血していた。一瞬ぎょっとしてしまうが、何か答えなければいけない、そんな迫力に圧倒され、わたしは慌てて返答する。


「い、いやさっき電話かけてみたんですけど出な――」


 突然ピロピロという電子音が部屋に鳴り響く。わたしの携帯だ。画面を見ると、タイミングよく克樹からの着信だった。


「ああ、ちょうど克樹からです。出ますね」


 わたしはずっと合わせたままだった視線を無理矢理に切ると、窓際へと立ち上がり、通話ボタンを押した。すぐに克樹の声が聞こえてくる。


「おお、咲。今友達見つかってさ、近くのコンビニにいるんだけど、なんか食いもん買ってく?」


 呑気なやつめと心の中で毒づく。文句の一つでも言ってやろうかと思ったが、彼女が部屋にいる手前、平静を装ったふりをする。


「うん。じゃあ適当に飲み物とお菓子買ってきて。二人分」

「おお分かった。二人分だなんてお前ずいぶん腹減ってんな」

「いや違う違う。克樹の友達一人来てるよ」

「えっ誰? 俺が呼んだ友達、全員こっちにいるけど?」

「は? 女の子だよ女の子」


 そう答えると、克樹は急に黙ってしまった。黙るというよりは、言葉を失うというのがふさわしい、そんな会話の切り方だ。電話の向こうでは、コンビニの愉快な店内BGMが小さく聞こえてくる。


「……なあもしかして、茶髪か?」


 急にトーンダウンした克樹の声が耳に届く。


「うん」

「髪短いか?」

「うん」

「赤いピアス」

「うん」


 また嫌な沈黙が流れる。おそらく友達の声だろう、克樹どうした? と気遣う声が聞こえた。


「咲、なんか適当な理由言ってすぐこっち来い」

「え、なんで? ちゃんと説明してよ」

「いいか、落ち着いて聞けよ。慌てて逃げたりすると余計危ないからな。そこにいる女、今日相談しようと思ってた俺の元カノだ。俺が別れようって言ってからなんか様子がおかしくなってよ、死ぬとかお前もとかなんとか……とにかくなんか危ないんだよ」


 思いがけない告白を耳にし、わたしは動揺する。別れた? わたしじゃなくこの子が? この子も克樹の彼女だった?


「静かに、刺激しないように外に出ろ。外に出たら走れ。俺がいるコンビニは、来るときにあったから分かるよな?」


 夜闇やあんに反射し、鏡のようになったガラス戸が、部屋全体を映し出す。一瞬、鏡の向こうの彼女と目が合った。大きくギョロリと見開いた真っ赤な目。ほんの一瞬のはずなのに、これが本能というものなのか、頭の中はこの場から逃げることでいっぱいになっていた。


「え? なに? 克樹聞こえない、電波悪いみたい」


 おかしいなと呟きながら、わたしは足早に玄関に向かう。もちろん咄嗟に思いついた演技だ。怪しまれているか、いないのか。その間にも刺すような視線を背中に感じる。


 この視線に応えてはいけない。


 振り向いて三度目が合ってしまえば、彼女はたちまち全てを悟ってしまうだろう。全てを悟った彼女はどうするか、わたしはどうなるか。あの狂気じみた瞳から連想されるのは……血、死体、それも他の誰でもない

 玄関で自分の靴を探す。こんなときになぜわたしは面倒なブーツを履いてきてしまったのか。そんな後悔に駆られながら急いで足を突っ込む。が、手が震えてうまくヒモが結べない。やっとの思いで右足を履き終え、左足のブーツに手をかけると――背後でサっと、何か擦れるような音がした。

 思わず身動きが止まる。何の音? 何が起きている? このまま逃げるべきか、なんでもないふりを続けるべきか。予期せぬ事態の連続に混乱したわたしは、状況を把握できない怖さに負け、ゆっくりと肩越しに振り返る。


 するとちょうどソファーから立ち上がりかけた彼女が、視界の隅に映った。


 彼女はわたしと会ってからずっとポケットに入れたままだった右手を、

 慎重に、

 慎重に動かし、

 何かを取り出してみせる。

 その右手には――



 鋭い刃を覗かせた、果物ナイフが握られていた。



 わたしは片方のブーツを手に家を飛び出す。直後に「待て!」という絶叫と共に、扉を乱暴に開け放つ音が聞こえた。わたしは全力で足を動かし、動かし、動かし、走りながら、ふと彼女も一緒なのかと考えた。克樹はまた大学でも、わたしのときのようなヒドい振り方をしたのだろう。逃げずにわたしも同じだと打ち明ければ、分かり合えたかもしれない。目的も同じことだし、協力もできたはずだ。失敗だ。今からではもう遅い。わたしも彼女も話し合えるような冷静さは、すっかりあの部屋に置いてきてしまった。もう逃げるしか方法はない。逃げるしか――


 いや、違う。


 これはひょっとするとチャンスなのかもしれない。

 彼女をこのまま引き連れて行けばどうなるか。何が起こるか。

 再び連想されるのは、血、死体、それもわたしを傷つけ、一方的に突き放した、

 ここから例のコンビニまであと少し。

 うん、きっと上手くいく。

 自分の手を汚さずに、それはきっと上手くいくだろう。


 ぐんとスピードを上げたわたしの足――太ももに何かが当たる。

 ズボンのポケットに隠した、カッターナイフが邪魔だった。

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