兎は笑って手を振った
遠森 倖
兎は笑って手を振った
額に赤いポインターが照準される気分はどんなものだと思う?
もちろん最低だ。反吐が出るくらいには。強引に頭を反らしてマークから逃れると、代わりに後ろにあった木の幹に穴が空く。鬱蒼とした密林を模した箱庭の中、標的を逃した赤い点が無様に踊った。
ピッーピッーピッ…スピーカー越しに時を刻む針の音が響く。一日の内三分間。たった百八十秒が俺に課された時間。後三秒…二…一…
ビーーーーーーーッ!
低く呻るブザーの音。俺にとっては祝福の鐘の音に聞こえる。
”ウサギさんは逃げ切りました。ウサギさんは逃げ切りました”
淡々とした女性のアナウンス。ちなみにウサギさんとは俺のことだ。
”オオカミさんは退場します。オオカミさんは退場します”
そして先ほど俺のドタマ撃ち抜こうとした名前も知らないオオカミさんは、防護服に身を包んだ大人たちに拘束され引き摺られて行った。今生の別れだ。真っ赤な夕日に全身を染めながら、バイバイと俺は口の中だけで呟いた。
今日はかなり外側まで追い詰められた。大きく息を吐きながらフェンスに勢い良く寄り掛かると、思ったより大きな軋みをあげるから思わずヒヤリとする。
ここは切立った崖の上であり、高いフェンスの向こうは見渡す限りの大海原だ。この隔絶された研究所では一番外界の気配を感じられる場所でもあり、此処が逃げ場のない地獄なのだと最も思い知らされる場所でもあった。
「よくやったわね!今日もノーダメージボーナスでついに合計九十七点だわ!」
生い茂る草木を高いピンヒールで踏みつけながら白衣を着た妙齢の女が歓声を上げ近づいてくる。自己満足だけで完成させられた濃い化粧に香水の匂いを撒き散らしながら女学者は俺に抱きついてきた。極限まで五感を薬物で高められた俺にそれは毒ガスに等しい。
「ぐおっ!くさっ…!」
思わず声を上げる俺を他所に、女学者は俺の体に損傷が無いか執拗なまでにチェックする。そしてどこにも怪我がないと分かると誇らしげに目を細めた。自分のペットを自慢する時の飼い主の目だ。
「私の手持ちから九十点台まで漕ぎ着けるウサギを作り出せるなんて、なんてすばらしいの…!明日のゲームで君が三点取れば初の自由を得られるウサギよ!」
そしてお前は研究者、訓練士として他の奴等を出し抜いたことに高笑いするのだろう。というかもうすでに女の口元には笑いが滲み出している。
「なあ、俺明日のために早めに飯食って寝たいんだけど…」
テンションが上がりっ放しの女学者にいい加減嗅覚も麻痺しきった俺が冷たく言い放つと、彼女はやっと我に返ったのか俺から離れた。
「そうね、今日も合成物質満点の夕飯を用意しておいたから!それと」
何の断りも前触れも無く俺の腕に突き立てられる注射器。
「明日死んじゃうと困るから、今のうちに血液サンプルだけは取らせて頂戴ね」
せめて俺の飼い主なら俺の勝ちを祈れ。
「どうぞ。合成有機強化剤とアミノ酸系感覚鋭敏薬もお忘れなく」
まったく食欲の湧かない字面の夕飯を受け取ると、俺は狭い食堂のテレビから一番遠く暗い不人気な卓に落ち着いた。唯一人席に座っていた先客が顔を上げる。
「おめでとう」
「おめでとう」
挨拶代わりに交わすのはお互いの生存を祝う言葉。今日この兎小屋で一緒に夕飯にありつけるということが、すなわちゲームで逃げ切れたということなのだ。
「兎番付見たぞ。ボーナス点付いてついに出所にリーチがかかったじゃねえか」
そいつは不精に伸ばした髪を邪魔そうに後ろに流しながらうどんを啜る。「やっとだ。でもお前もついに七十点台だろ、ウサギの中じゃ俺の次点だ」
薬で素材の味がまるっきり殺されたカレーを頬張りながら俺は答えると、まあなとそいつは周りを見渡す。食事を取っている同じウサギ達はみな俺達より三歳は若い。それは圧倒的にこの”狩り”ゲームの中でウサギは不利だからにほかならない。武器の使用が許されるオオカミと違い、丸腰で逃げ続けなければいけないウサギの平均耐用年数など同時期のテレビに映る一発屋の芸人よりも短かったが、何故か奇跡的に同期では俺だけが三年間を生き延びていた。肉体的にも精神的にも他の追随を許しまくっていた俺としては純粋にこれは奇跡の産物だと言うしかない。強いて言うならゲームの組み合わせの引きが良いところが唯一の俺の才能なのかもしれない。
「なあ知ってるか?小型軍馬ってウサギ」
「知らねー。馬なの兎なの?」
不味い飯だが腹いっぱいになればそれなりに心も満たされて口の滑りも良くなってくる。寝るまでの時間はいつもこいつと他愛もない話をするのが常だった。そうでもしないと明くる朝に待ち受ける死の重圧にお互い耐えられない。こうして寄り添うのはウサギとしての宿命なのだろうか、それともオオカミ達もこうして夜を過ごしているのだろうか。
「シートン動物記だよ。まぁすげー野兎の話でさ、犬に混じってレースでずっと勝ち続けたんだと。仲間のウサギがどんどん死んでく中でさ」
そいつは興味を示したのか大人しく話を耳を傾けている。
「勝った数だけ耳に星型の穴をパンチされて、最後はどうなったんだったかな。逃げれたのか犬に食われたのかは覚えてねーわ」
「おいおいおい、そこは嘘でも逃げれたことにしよーぜ」
俺らの大先輩だな、っとそいつはだらりと机に臥せた。今も昔もウサギはイヌ科に追い回されて見世物にされているのだ。そいつは長めの前髪で表情を隠したまま呟いた。
「……明日、逃げ切れるといいな」
俺達の中に勝利などという言葉は無い、ひたすらに転がり回りのた打ち回って生き長らえろ、そう芯まで精神汚染されている。
「俺は正直どっちでもいいんだけどな。小型軍馬は自由を求めて逃げたらしいが俺にはその自由は必須じゃあない」
もともと野兎だった小型軍馬にとって人に囲われる事はさぞかし耐え難かっただろうが、研究所で純粋培養された俺にはそこまで確固たる志のようなものなど何処を探しても見当たらない。残念なことに。
「もちろん死にたくは無いから全力でがんばるけどな」
どこをとっても矛盾だらけな俺の言葉にそいつは肩を揺らした。
「十六歳がそんな枯れた事言うなよな。俺はしたいこと山ほどあるぞ」
現時点七十三点をマークする俺よりひとつ年下のウサギは笑う。
「例えば恋とか」
「ほう。コイですか」
俺はコイを故意とか鯉とかに誤変換する位にはその言葉に無縁だった。コイすなわち恋。やっと漢字が出てきた恋。俺は周りを見渡した。ウサギの中にも女子はある程度いるが、俺はいまだかつてそのウサギ女子達にピンと来たことは無かった。まず死んだ目で食事を摂るウサギ女子達が総じて幼い。ほとんどが新人のうちに狩られてしまうからだ。そして生き残ったウサギは怖い。みんな逃げることに固執しすぎてついに現実からも逃げ出した奴等ばかりだからだ。
「ここじゃあまともな恋なんてできないからな。俺はあのテレビでやってるみたいな彼女がほしいんだ」
夜九時を回ったところで小さく煤けたブラウン管テレビには、ちょうど俺達と同じくらいの男女が手を繋ぎ買い物しているシーンが映っている。
「とりあえずお前が幼女趣味じゃないということだけは分かってよかった」
ウサギ女子を横目に俺は立ち上がった。ドラマはこれからがいいところのようだが、俺はまだ風呂にも入っていなければ明日のための準備もしていない。
「じゃあ俺先戻るわ。お前もいい加減寝ろよ」
「これ見たら寝るよ。来週が気になんないとゲームで気合入んないでしょ」
明らかに茶葉以外から抽出したものが混ぜられているだろうドリンクを片手に持ったまま、画面に目が釘付けのそいつは手を振って俺に別れを告げた。俺も軽く手を上げて応じる。
お互い、明日をも知れぬ命だということを愚かにも知らないかのように。
「本当はね、君達が争うことに意味なんて無いのよ」
最後のゲームが始まる直前に女学者はぽつりと告げた。俺は思わず知ってると即答しそうになる。大体これが崇高な意味を持った研究であったとしてそれが使い捨ての実験動物たちにとって何になるというのだ。誇りでも持てというのか。
「君達を改造して改善して修繕して進化させることには研究としての意義を持つけど、それでも君達に一度でも負ければ死が待つ試験を行う意味は見出せないでしょ?」
俺は無言で上着のジッパーを上げた。モスグリーンのサバイバルジャケットから洗剤の匂いがして思わず舌打ちする。これじゃあオオカミに匂いで見つけてくださいというようなものではないか。
「ウサギとオオカミそれぞれのプロジェクトリーダーである教授同士が犬猿の仲なのよ。ウサギとオオカミなのに犬猿なんて変な話よね」
笑えない。
「それでどっちの進化への方向性が正しかったかを判断する方法として……」
それ以上の言葉は俺の鼓膜を震わせはしても正しく脳内処理されることはなかった。諜報員だとか戦争中だとか兵隊だとか新薬だとか洗脳だとか端々の単語は何とか聞き取れるが、それが組み合わさり文章をなす前に一文字一文字がゲシュタルト崩壊を起こし解けていく。
「聞いてる?」
気付けば女学者の顔が至近距離にあった。その表情を見て俺は察する。これさえも耐久試験の一環なのだと。微細な心の揺れも見逃さないというように彼女は俺の瞳の奥の奥を覗き込んでいる。彼女の学者魂に俺は自分の立場を忘れていささか感服すらした。
「ああ」
冷静に返事をすると女学者は満足したように背筋を伸ばした。どうやら俺は彼女が期待する以上の反応を返せたらしい。あるいは俺が試験の意図に気付いていることにすら、気付いているのかもしれない。
「あんたはさ、結局何が目的なの?」
同じく自然色のグローブを手に嵌め、何度か拳を握って感覚を確かめる。だが馴染まずに結局それは外してしまった。
「そんなの、君を逃がすために決まってるじゃない」
「ミッキー・ドーかよ」
「まさか。私はあんなに優しいウサギ係じゃないわ」
そう言って彼女は俺の背中を押した。
「さあ逃げて、私を出世させて」
”本日のゲームを開始します”
崖の先端から研究所までの猫の額ほどの箱庭で、いつもと変わらない静謐さの中、俺の最後の三分間は始まった。
俺は箱庭に降り立つとまず地面に這い蹲った。オオカミは五秒後に入ってくる。五秒間で自分の存在をどれだけ薄められるかでその後の三分間の流れが決まる。すなわち”鬼ごっこ”となるか”かくれんぼ”となるかだ。断然俺はかくれんぼがいい。ところがそんな俺の願いを他所に、今日も変わらない女性のアナウンスがとんでもない言葉を告げた。
”本日のマッチング。オオカミさん九十四点対ウサギさん九十七点”
俺は目を剥いた。空気が思わずひゅっと音を立てて気管に飛び込んでくる。
九十四点、何だその化け物は。いや俺もだけど。ここまで点を積むのにいろんな奴と戦ったが、九十点台が相手になるのは初めてだ。正直オオカミの中には九十点台の高得点プレイヤーはいないとさえ踏んでいた。噂すら聞いたことが無かったからだ。よくよく考えれば相手の点を知れるのはゲームが始まってからなのだから相手の組に自分の存在を知られることは無いのだ。死人に口無し。だからこそ逆に俺の九十七点を聞いて相手も相当動揺しているはずだ。
だけどこれは確実に鬼ごっこになるな、と確信した瞬間に俺は力の張り詰めた四肢を思いっきり使い跳躍してその場を離れた。コンマ数秒後に元居た場所に散弾が雨の如く降注ぐ。俺は地面に着地すると同時に走り出す。案の定次は激しい音と共に機関銃の弾が俺を追走してくる。
「くっそ、こんなに早く見つけるか普通!?」
木の幹の裏に滑り込むが、しつこい位に銃弾は幹を叩き抉り続ける。俺は縮こまってひたすらにそれをしのぐ。しばらくすると弾切れを起こしたのか急に辺りが静かになり、そしてその空白を埋めるかのように涼やかな声が響いた。
俺の異常に聴覚を引き上げられた耳に、その声は酷く美しく聞こえた。
「あなたが最強のウサギなの」
俺は思わず幹から半身を出して声のする方を無防備に仰ぎ見た。ヘッドショットでも決められるかと覚悟していたが、弾は飛んでこなかった。
「違う、俺は無敗なだけだ。戦果を成果で受け取れるお前達とは違ってな」
ウサギとオオカミは得点方式が大きく違う。俺達には逃げ切りの基本点に上積みはノーダメージぐらいしかボーナスがないが、オオカミはどういう訳かウサギを仕留める過程で大きく点が変わるのだ。
「無敗という形容詞はここに立つ私達にはあまりに安っぽいわ」
その少女は木の枝に座っていた。白く細い片足がだらりとだらしなく垂れてぶらぶらと揺れている。アッシュブラウンの髪の間から、色素が薄い、羽毛のような睫毛に縁取られたラズベリー色の大きな瞳が覗く。
「ねえ?うさぎさん」
ばっちり目が合ってう俺は確信した。
やばい、まじで惚れた。皆さんお待ちかねのボーイミーツガール。
正真証明、生涯最初の一目惚れだった。
「そうだな。おおかみさん」
ここから俺の思考回路は180度切り替わる。すなわち俺がどうやって生き残るかではなく、彼女をどうやって生かすかにである。
実に簡単だ。俺が死ねばいい。
単純明快で且つこれ以上無い答えだったが、唯一つ困ることがあった。彼女に自分の思いを伝えていないということだ。これでは彼女の心に俺は唯最後に少しだけ歯応えのあったウサギとしか刻まれない。きっとすぐに風化してしまう。
そこで俺は賭けにでた。おばあちゃんが言うところの古い古いおまじないレベルの言葉。天空の城を落とせるような力は無いけど。
「狙うなら、首を取って楽に殺ってくれよ」
俺は脱兎の如く走り出した。頑丈さより機動性に特化したブーツが柔軟に起伏のある地面に吸い付いて次の跳躍への踏み切りを助けてくれる。
「俺について来れるかな!?」
すぐ傍を銃弾が掠めていく。
「的外れだ」
さらに激しい着弾の音。果たして彼女には届いているのか。
「遠慮しなくていいぞ」
俺は歪なジグザグ走行に枝に手を引っ掛けて遠心力を利用した不規則な動きを織り交ぜることで弾から逃れつつ、着弾の衝撃で撥ね飛ぶ泥を浴びながらも目的の場所へ近づいていった。ゲームの始まった研究所側から、徐々に海寄りの崖っぷちへと。
「当たらない…!」
オオカミ少女の苦い声を耳に捕らえる。
「頑張んないと後2分切ってんぞー」
波の音が聞こえ木々の間から青い海とそれを遮る高いフェンスが見えてきた。
「なんのつもりなの?」
「すぐにわかるさ」
さすがに怪しまれてるかな、と張り巡らされた監視カメラをちらりと見るが、その向こうにいる研究者達の顔までは窺い知る事はできない。ただ、試合の状況を考えれば最終戦でテンションのあがった高得点被験者二名にしか映ってはいないはずだ。木々の生茂るゾーンから俺は飛び出す。
日の下で汗と泥に塗れた無様なウサギは、オオカミ少女にはどう映るのだろう。
「きれいだろ?」
「そうね」
陽光を反射してきらめく海面を眼下に俺は降参とばかりに手を上げた。海に迫り出した崖の上は海風も強く、二人の髪や服の裾を激しく揺らす。
「だから、ここで勝負をつけよう」
と言いながら、実は俺の目的はもう達成されていた。なぜなら目の前のオオカミ少女は陽の下で顔を紅潮させ、零れ落ちそうな真ん丸い瞳を震わせて俺を見つめていたからだ。自動小銃を構えているから何とか獲物を前にして高揚しているように見えなくも無いが。
「死にたいの?」
彼女は空いた手で腰の後ろから目視できるぎりぎりの細さのワイヤーを引き出した。捕縛するつもりか、絞殺するつもりか。それとも濡れた刃物と同じ光を放つワイヤーは案外切断する為の物なのかもしれない。
「そんな訳無い」
「ならこんな外壁に逃げてこない」
「そうかな?」
「なめてるの?」
思ったより言葉遣いが汚い。いや、この不自然な言葉選びはもしかしたら…
「そろそろ時間だ」
そこかしこに仕掛けられたスピーカーから残り三十秒を刻むカチコチという古臭い秒針音が一斉に流れ出した。
「いい加減終わらせましょう」
彼女は慣れた動作で銃の引き金を引いた。だがその弾は、俺を貫かない。
「おい、ひとつも当たってないぞ」
「できないからよ!」
波音を裂く透明度の高い叫びが俺に突き刺さった。
それが答えか。
俺は高鳴る心臓を抑え付けて、残り十秒で決死の逃避行を決意した。
だって、彼女に俺を殺させるわけには行かない。死なないで。彼女は確かにそう言った。
首を取れ。長い長いウサギとオオカミの狩りの中で冗談のように広まっていった唯一のじゃれ合い。
一時期ウサギとオオカミを定期的に交換してハイブリッドを作ろうしていた頃に、互いのチームを行き来した少年少女が決めたというルール。拙い言葉遊び。
ウサギからすれば楽に殺してくれ、オオカミからすればさっさと勝負を決めたい時に割と不自然なく会話に織り交ぜられるキーワードだ。意味はそのまま、言葉の頭を取れ。発した言葉の一文字目を繋いでいけば相手からの真のメッセージが理解できる。研究者や訓練士に気付かれずに、捕食者と被食者が意思の疎通を図るための拙い手段。
俺は”お前が好きだ“と恥も外聞も無く告げ、彼女は”死なないで“と俺に返した。たった、たった3分の殺し合いという逢瀬で芽生えた俺の感情に、なぜ彼女が心の琴線を揺らし応えてくれたのかなど俺にはわからない。だがオオカミもウサギも心根の深いところは結局同じで孤独と不安と誰かと関わりたいという想いで占められているということなのかもしれない。
「そっか。ありがと」
応えになっているような、答えになっていないような。
残り5秒。俺は自分の持つウサギとして凡庸で最高の力、脚力を存分に活かして崖の先端へと走り出した。助走を活かし跳び上がり、その勢いのままフェンスを両足を揃えて思いっきり蹴り抜く。
自分の背より何倍も高いフェンスがその衝撃を受け止めようと軋みをあげてしなり一瞬それに耐えたかのように見せ、しかしフェンス同士を繋ぐ金具がその衝撃に耐えられず弾け飛び外へと倒れていった。
元々この一枚のフェンスのみ留め具が弱っている事には気づいていて、そこに俺は不自然じゃない頻度で、気の遠くなる時間をかけて負荷をかけていた。
俺の視界に映るはじめてのフェンス越しでない海面。
「待って!」
俺は空中で身体を捻り彼女を視界に入れる。必死で彼女は手を伸ばし、よく見るとその白い指先からはワイヤーが光って伸びていた。助けるつもりなのだ。
俺は笑ってしまった。ここまで上手くいくとは思わなかったから。
最後に、彼女に自由を与えなければいけない。
俺は手を伸ばしてそのワイヤーに腕を絡めた。そして落下の勢いを利用して力一杯その腕を引いた。
ブツリ。
この感触が彼女の手に残ることが嬉しくて悲しい。腕から鮮血が噴出し、切り取られた俺の腕だけが彼女の元へと返っていった。落下は俺の脳内でスローモーションに進み、呆然としている彼女の表情までしっかりと見て取れる。なんで、と彼女の唇が動いた。それはそうだろう、今まで生き延びたオオカミ少女の腕ならば、薄皮一枚切断することなく俺を捉えて引き上げることができたはずだ。
俺は自分にできる最上級の笑顔と共に彼女に残っている手を振った。宝石めいたダークチェリーの瞳孔が引き絞られた。彼女は気付いたのだ。そして俺の腕を抱きしめて崩れ落ち、それが俺から見えた最後の彼女の姿だった。
「基本得点二点+高所落下ボーナス二点+部位破壊ボーナス二点…」
俺は小さく呟いた。昔読んだ教本に書いてあったオオカミ側のボーナス点一覧からの知識。本来は高得点を狙うオオカミがどういう攻撃をしてくるかを予測するために暗記した配点とボーナス内容だったが、こんなところで役に立つとは。
持点九十四点の彼女に俺があげられる精一杯のプレゼントだ。
もう良いだろう。俺は海面に引き寄せられる重力を心地良く感じながら目を閉じた。
「ありがとーございましたー」
少年は元気良く礼をして裏口から店を出た。片手にサインが走り書かれた受領書を持ち、もう片方の手はまるで当たり前のように喪失していた。
潮の匂いが漂う街を少年は駆ける。まるで走ることだけを至上の命題とした機械かのように、片腕の無いアンバランスさを感じさせずに駆ける。一つ横の区画にある店に戻ると店先の”配達中“の看板を引っ繰り返した。食材や調味料が天井まで積み上げられた店内に入りレジに座るとぼんやりと店番を再開する。
とある事情も無くこの街に流れ着いた腕の無い少年は、たまたま売り上げを引ったくられた店主を助けた縁で、店主が店を放り出して諸国漫遊する間の雇われ店長としてここに落ち着いていた。何度か追手らしき者が街に現れたが、逃げることと隠れることだけは得意な少年は髪の毛一筋ほどの存在も彼等に気付かせる事も無く店長業を続けていた。
少年にとって、今の生活は長い長い余生でしかなかった。彼がその短い半生において本当に生きていた時間はたった三分間であり、その三分間で彼は十分報われていたから。
「眠い…」
現時点での主は自分なのだから遠慮などする必要は無い。少年は午前の配達の疲れを癒すよう彼は寝息一つ立てず野生動物のように静かに眠りについた。
しばらくすると、店の扉が音も無く開き、華奢な人影がするりと店内へ入り込む。少年が飽きるまで施したブービートラップを意にも介さず、静かの店の奥へと人影は進み、少年を起こすことなく目の前に立つ。
「お待たせ、うさぎさん」
薄い掌が少年の真白な髪を撫で、少年の瞳が薄く開く。柘榴色の虹彩が目の前の人物の像を結び、潤み、やがて透明な雫が目元から流れ落ちた。
「あぁ、やっぱりウサギはオオカミには適わねえなあ」
そう言ってウサギは、目が赤くなるまで泣いた。
兎は笑って手を振った 遠森 倖 @tomori_kou
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