古の呪縛-Leben Holz-

Coelacanth

Ⅰ.再来

1.朱衣を纏った光

少女の両の腕の自由を封じる鎖は重々しいが、体の芯から精力を搾り取られたように疲れ果てたその少女にとっては、自らの肉体と精神を繋ぎ止める楔であった。看守の男から半ば引きずられるように歩く少女は寧ろその重みに頼もしさをも感じていた。

「1593番、牢へ入れ」

「…言われなくても」

看守は表情を変えず、流れ作業のように少女を棍棒でせっせと牢へ押し込み、鎖を杭に繋ぎ止める。雑に鉄扉を閉めると同時に馴れた手つきで鍵をかけて、ため息混じりにそそくさと次の仕事へと向かっていった。

「人をモノみたいに…」

分かりきった結末であるが、一言吐き出さないと少女は気が済まない質である。

1593番、それが彼女のここでの名前であった。本当の名を忘れぬよう、壁に「エレオノール、16」とこっそりと鎖の角を使って刻んだ跡は今となってはかなり風化しており、そう書いてあると思い込まなければ読めなかった。エレオノール=キュヴァリエ、それが彼女の名前である。

「朝と思しき時間」に食事を与えられ、「夕方と思しき時間」まで黒い鉄鉱石の塊の製鉄や炭鉱での採掘を強要される。ノルマを達成出来れば食事が与えられ、出来なければ食事を与えられない上に懲罰房行きである。そのサイクルが、延々と続けられる。囚人は外の空気や太陽の光に直接触れることは出来ず、あくまで時間は推定でしかない。ここに入った時点で囚人の時間系は看守達の手綱の許に置かれる。

彼女、エレオノールは今までノルマを達成出来たことが無い。より正確に言うなれば、達成出来るようなノルマを設定されたことがない。故に懲罰房が彼女の通常房と化しており、看守達の気まぐれで悪意に満ちた"暇潰し"に付き合わされるのが常であった。

貴族身分から転落した者を貶め、辱めることに愉悦を感じる平民身分の者は少なくない。直接的な恨みは無くとも、身分の違い故の非合理な生活水準の差を快く思う者はいない。没落貴族は亡命後もそういった理由で迫害を受けることが多い。えてして行き着く先は収容所か処刑場の二択である。殊に看守という職種を選択する者は少なからず上位身分の者に一泡吹かせてやりたいと思っている者が多い。獄中での殺傷沙汰は、通常ならば間違いなく国外追放であろう犯罪であったとしても、国家法の網目など容易にすり抜けることが可能であるからだ。エレオノールはまさにその標的であった。何故なら彼女はアスタリア王国の名門中の名門、キュヴァリエ家の娘であるのだから。

憂さ晴らしと大海の底から宝石を掴むような儚い期待を込めて無意味に鎖を壁に打ち付けることで、エレオノールは儀式的な安堵を得る。これで涙を流さなくて済むのだ。


(…今日は来ないのかしら、珍しいわね)

随分と長い時間が経ったが、いつものように看守が卑劣な笑みを浮かべてやってくる気配がない。嫌悪以外の感情が湧かない日課も、いざ無いとなるとかえって不安を煽られる。懲罰房の暗闇が不安を増幅させる。いつもより痛くされるのか、朝まで鉱山で働かされるのか。最悪の場合…

「…殺される?…それは…まずい、あの秘密を知られるわけには…」

一人虚しく実態のない不安にうなされ、それでもなお看守はやって来なかった。


「…ん、…朝?」

微かに暗闇に浮かぶ頭を支える腕の輪郭から、いつの間にか眠っていたことを悟る。そして、誰にも邪魔されることなく起きたことは看守が結局やって来なかったことを意味していた。

が、妙な静けさと物々しい雰囲気が、強い力で無理やり引き上げるように、ぼんやりとした意識を冴々とさせた。得体の知れない何かが近くに居る、そんな直感が働いた。

「…だ、誰かいるの?」

緊張と恐怖を押し退けて震え声を絞り出す。しばらく間が空いても返事はなかった。

しかし次の瞬間、エレオノールは微かな衣擦れの音を敏感になった耳ではっきりと認識した。看守ではないのは確かである。身を隠す必要があるのは囚人か、ほとんど有り得ないが外からの侵入者である。この収容所の内部構造は複雑な上に薄暗く、ほとんど明かりのないところも多い。それに加えて元要塞であった所を改装して収容所にしたため、外への警備は抜かりがない。難攻不落の城に例えられるほど堅牢なこの収容所に易々と侵入できる者は、いないに等しいだろう。仮にそうであったとするなら、恐らくエレオノールの生存を聞きつけた政敵の差し金に違いない。するとあの漠然とした不安が的中したことになる。少女は身震いした。

「…お願い、いるのなら返事をして。…仕事の前に声くらい聞かせてくれてもいいでしょう?」

すると、ややあって背後から再び衣擦れの音がした。

「…見くびっていたが、中々鋭いな。悪いがもう少しだけ静かにしていてくれ」

それは低く小さな男の声だった。エレオノールは咄嗟に振り返り、容姿をその目に捉えようとしたが、暗闇の中でぼんやりとした影が何となく見えるだけであった。僅かながら視認できたからか、不思議と恐怖が和らぎ冷静な判断力が戻ってきた。この影が自分を殺めるために来た腕利きの侵入者且つ暗殺者であると推測した後も、どういうわけか恐怖は先刻ほど感じていなかった。

「…あなたは、誰の差し金で来たの?」

「…黙っててくれ、あともう少しだから」

男が退屈そうに答えたため、エレオノールはそれ以上の質問は控えた。見苦しく命乞いするつもりは無かったが、何処の誰かくらいは聞いておきたい、恐らくそんな事は向こうにも分かっているのだろう。


しばらく経って、心臓の音が聞こえるくらいの静けさと埃っぽい冷たい空気が胸を圧迫するような感覚になり、痺れを切らしたエレオノールは再び口を開いた。

「…いつになったら始めるつもり?」

すると今度は舌打ちと共にため息が聞こえた。どうやら神経を尖らせているのはエレオノールだけではなかったようだ。

「ちとばかし待てっつーの、聞いてなかったか?」

「…ごめんなさい」

反射的に反省の色全開の謝罪が口走る。看守の機嫌を損ねた際によく使った手段であった。我ながら上手いという意味の無い自信があった。

男は再び黙りを決め込んだ。

それから間も無く、少女は何やら雑踏のようなものを聞いた。絶え間なく人が行き来している足音、察するにかなり急いでいるらしかった。それも結構な人数である。そしてしばらく耳を済ましているうちにそれが看守のものではなく囚人達のものであることに気付いた。

────それは暴動であった。

並のことではここの看守達は統率が乱れたりはしない。軍隊のような動きで小さな暴動なら短時間で収めてしまう。音からさえわかるその規模の大きさと持続時間は緊急事態と言うべき異常を知らせていた。

そして少女は背後の男の考えを理解した。こんな大規模な演出までして証拠隠滅を図るつもりなのだ、と。暴動が起きれば死体の一つや二つ重なったところで原因特定などされるはずはない。いくら有能な看守とはいえまさか外部犯による暴動とは考えないだろうし、それがわかったところで彼らもまた囚人に罪を擦り付け、証拠隠滅する側に回るはずだ。

「…立つ鳥跡を濁さず…やはりここまで来れただけあって狡猾ね」

ふっ、と男は鼻で笑う。

「そんな面倒なことはしないぜ、後は野となれ山となれってんだ」

男の性格の一片が分かったところでエレオノールは覚悟を決めた。これから自分を殺める人間の正体を知り、その時を待つだけだ、と。

「…そろそろあなたが何者か、教えてくれてもいいんじゃないかしら?」

鼓動が高まっているのが自分でも分かる。心の臓が胸を突き破りそうになるほど脈動している。額にひらりと冷や汗が垂れている。

「…その時になると、やっぱり怖いものね」

沸々と、冷ややかに湧き上がる恐怖を往なすように独り言を吐く。

「怖がる必要はないぜ、直ぐに終わるからな。でなきゃこんな辺鄙なところまでわざわざ来ねぇっつーの。俺の名前は…ローウェル=フルフォート、国籍はな無いぜ、適当なところを彷徨いてたからな」

ローウェルと名乗った男は顔を見ずともニヤニヤとしながら喋っているのが分かるような、特徴的な口調でそう言った。

「…今までどれくらい手をかけたのかしら、随分と手馴れたものね」

喋り続けないと気が持たないような気がして、ローウェルの口車に合わせた。

「まあな。…さて、時間もそんなに無いし、さっさとやっちまうか」

どくり…胸の鼓動が一気に高まる。全身が震えている。抑えきれない恐怖と、悲しみのような何かが体の内から染み出しているようであった。

「…あんまり痛いのは嫌よ?」

やるなら一思いに、願わくば苦痛は少なく…。

「ん?…まあ多少は痛いかもな。じっとしてくれたら痛くはないだろうが…」

影しか見えないが、男は持参した金属製の鈍器を手に持っていた。執行までの作業は手慣れていて、ただその時を待つのみであった。

「よし、じっとしてろよ?」

歯を食いしばり、目を瞑る。その瞼の裏には懐かしき父母の姿と、失踪した兄の姿があった。────ザクッ!

反射的に体を仰け反らせる。恐らく首にいっただろう。激痛が襲ってくるだろう。ほんの一時それを耐えたら安らかに闇に落ちるだろう…。


「…あれ?」

少女は自分の体を確認する。どこにも痛みはない。首に触れても歪な傷口は無い。目の前は変わらずぼんやりとした暗さが支配している。

「ほら、杭をへし折ってやったぜ?これで動けるだろ、鎖はそのまま引きずってもらうしかねぇけど…」

想定と事実の空絶、目の前の現実が夢のように不確かなものとなって判然としない。

「…生きてる?」

「大袈裟だねぇ…もしかして看守から、その鎖は君を守る為のものだとか言われてた?だとしたらすまねぇな、それは嘘だぜ」

煩雑に絡まった糸を解くように少しずつ目の前の事態を把握する。そしてようやくローウェルなる男は暗殺者ではなく、救援者であることを呑み込んだ。

「…あ、あの、ありがとう…ございます」

これも口癖である。とりあえず普段から言っておけば滅多なことで痛くはされない、収容所で学んだ無意味な教訓の一つである。

「礼を言うなら外に出てからで頼む。時間が無いんだ」

ローウェルは先程ひっそりと潜んでいたのとは対称的に鉄扉を乱雑に蹴破った。老朽化が進んでいたらしく、いとも容易く外れた。ローウェルは両腕の枷に繋がった鎖の端を持って、さながら犬の散歩をするかのように少女を誘導した。

「…からかってるつもり?」

ローウェルはいたずらっぽく笑った。

「ふーん、看守の気持ちってこんなかんじかぁ…」

何とも混ざることなく沸々と湧き上がるそれは、ここにいる間は憎しみと一緒くたになっていたような気がした。

「今後はあなたが私の手枷となりそうね…」

ははは、と感情のこもらない代わりに煽るように余韻を残すローウェルの笑い方には悪意を感じなかった。何となく、懐かしいような気がしてエレオノールは感傷に似た気分に浸っていた。

「そんじゃあ、お嬢さん、準備はいいかな?」

ふと問われて何かが引っかかった。何か大切なものを忘れているような気がした。

「…ええと、あれ、何か足りない気が…」

その"何か"はここでの生活の上で最も大切な時間を与えてくれた、温かい存在であることは分かっていたが具体的にそれを思い出すことが出来なかった。少なくともその時の少女には、出来ないことだった。

「思い出せないってことはその程度のことなんだろう。ここにいたことの記憶はきっとこの後も残るだろうから、後悔を遺して行くなよ?」

何かに対する後ろめたさが走る。ローウェルの言葉通り、些細なことなのだろうと言い聞かせてそれを頭から払拭した。

「…何でもない、逃げられればそれでいいのよ」

そう言ったのを聞いたローウェルは無言で鎖ではなくエレオノールの手を引いた。その感触に先刻と同じ懐かしさを感じた。少女は実感した、自由の身なのだと。


「一緒にここから出ようね」

懲罰房から通常房へと至る扉の前でふと声が聞こえた気がして、少女は恐る恐る後ろを振り返った。そこには先刻と同じ薄暗闇が広がっているだけだった。

「…じゃあね」

何に対してそう言ったのか自分でも分からなかったが、言わなければいけないような気がした。そして初めて淡い光の降り注ぐ、薄汚い通常房へと道が開けた。が、その光は少女の目には十分すぎるほど眩しかった。自分の手を引くローウェルの姿はその光の逆光で輝いて見えた。いや、恐らく彼自信が輝いているように見えたのかもしれない。その光の持ち主は朱いマントをたなびかせ、黙々とエレオノールの手を引っ張っていく。その姿に少女は恍惚とした懐かしさを感じていた。

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