スタートアップ サラリーマン

@WP01

第1話

2006年1月。

戸田公平は、いつもと同じく、真夜中の首相官邸前の道に出て、タクシーをつかまえて乗り込んだ。ここのところ、毎日のように会社を出る時間は深夜の二時を回っていた。今は何よりも時間が足りない。明日も朝七時には出社して、出資者に対する事業計画のプレゼン準備をしなければならない。タクシーの運転手に目的地を告げて、いつものようにコンビニで買ってきた夕食用のサンドイッチを食べ始めた。戸田は、いつもこの時間帯にタクシーに乗っているので、顔見知りの運転手も何人かいたが、今日はいつもの運転手ではなかった。


霞ヶ関から首都高に入り、真夜中の都会の景色が流れ始めると、普段は眠気に襲われて気が付くと自宅がある川崎のマンションの前に着いていることが多い。でも、今日は頭の中が覚醒していて、ぐるぐると一日の出来事を思い返していた。午前中に、ベンチャーキャピタルとの打ち合わせ、新たな事業戦略に向けての新サービス開発の打ち合わせを行って、午後は取締役会で正式に取締役マーケティング本部長に就任することが決まり、その後、人材採用のための面接を行い、夕方から取引先との会食、その後会社に戻って、資料作成、社長との打ち合わせをこなした。


以前の職場では、こんな充実感は味わえない、と戸田は考えていた。戸田が以前いた会社は、従業員三万人を超える業界首位の通信会社だったが、業務が細分化されていて、個人での裁量は限られてしまい、中々思うように仕事が出来る環境ではなかった。それに比べて今の会社は、立ち上げたばかりの従業員三十名、売上二億円程度のベンチャー企業ではあるが、将来の可能性や、会社を成長させていくという目標に向けて、自分の裁量で色々なことを進めていくことが出来る。大企業からベンチャー企業に転職した人たちの体験談等を雑誌で読んだときに書かれている内容そのものではあるが、読むだけなのと、実際に経験するのとでは、天と地ほどの違いがある。戸田は、この貴重な経験値を得ることと、そして何よりもストックオプションを貰って、株式を上場させることで、サラリーマンをやっていたら得られないような収入を得たいという目標があった。そのためには、ベンチャー企業の経営陣に加わる必要があったが、今日めでたくその目標も叶えられて、取締役に就任することが出来た。ベンチャー企業の経営陣に入ることがどういうことなのか、ということを戸田は知りたかった。戸田がまだ社会人一年目の頃、インターネットを使ったベンチャー企業ブームが巻き起こり、戸田の周囲にいた先輩などが、会社を辞めて起業したり、ベンチャー企業に転職し活躍していた。戸田も、それらの周囲の人間たちの活躍に触発される形で、現在所属している株式会社モバイルエンジンの社長である大田義彦の誘いにのって、転職することにした。社長の大田は、四十五歳で、もともとは大手外資系IT企業の役員の経験もあったので、まだ三十二歳の戸田に比べて、経営者としての経験値も高かった。単なる若い社長が立ち上げた勢いだけのベンチャーとは違うだろうと考えたことも、戸田がこの会社を選んだ理由でもあった。

この先どうなるかは分からないが、この会社でどこまでやれるか、本当の勝負はここからだと戸田は考えていた。今後事業を成長させていくためには、いくつかのキーファクターがある。これらを順当にクリア出来れば、会社を上場させることが出来るはず。上場することが出来れば、資金調達のオプションが増えるのと同時に、事業規模も拡大できるので、本格的な成長軌道に乗せられる。まずは、そこまでが勝負の第一段階だ。戸田は、明日からの本格的な取締役としての仕事に期待を抱きながら、明日のために少しでも寝ておくために、タクシーの中で仮眠をとるために、目をつぶって眠りについた。

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