8
「そろそろ出るか」
灰田さんは大きな欠伸を一つした。
僕は鞄を肩にかけ、灰田さんと船着き場へ向かった。
朝から頭がぼおっとしていた。島酔いではない。きっとあの夢のせいだろう。
「荷物の積み替えがあるから、ちょっとそこらへんで待っていてくれ」
鞄を下ろし、僕は桟橋から砂浜を眺めた。静かな波が打ち寄せている。そこに一羽の白いウサギを見つけた。躊躇いながら茂みから姿を現し、後足で砂を蹴り、跳ね上がる。そんな姿を見つめているうちに、まるで昨夜の夢の続きが始まったかのような気になった。
辺りを見回し、老人の姿を探してみるが、見当たらない。夢は夢だ。ふと、夢の中で語られた言葉がよみがえてきた。
……ウサギを抱くといい。
僕はウサギに恐る恐る近寄っていった。不思議なことにウサギは逃げ出さない。そればかりか、僕の足元に擦り寄るようにしてうずくまった。やわらかい毛で包まれた脇に手を差し入れ、静かに抱き上げた。薄い皮膚と骨の硬さが手のひらに伝わってきたが、それだけしかない。重さというものが、全く感じられなかった。
僕は息を乱した。
ウサギはおとなしく抱かれている。高く持ち上げれば、そのまま空へ逃げてしまいそうだった。ふっと指の力を抜く。すると、ウサギは身をねじり、僕の手から離れていった。宙をふわりと飛んで、音もなく砂の上に降り立った。そのまま砂浜を駆け上がり、茂みの中へ消えていった。
放心したまま振り返ると、砂浜には僕の重みでついた足跡だけが続いていた。
……煩悩か。
「おーーいっ」
僕を呼ぶ声が聞こえた。灰田さんの準備が整ったのだろう。
「あっという間だったな」
渡し船に乗り込んだ僕に、灰田さんは寂しそうに呟いた。
その言葉に、僕は何も言えなかった。
エンジンが始動し、島を離れていく。
灰田さんは舵をとりながら、煙草に火をつけた。二口で半分まで吸い、軽い咳をする。吐き出される煙が海風にさらわれていった。
「浮かない顔だな」
灰田さんも遠ざかる島に視線を送っていた。
「ウサギを抱いたことはありますか?」
その問いに横目でじろりと僕を見据え、灰田さんは小さく頷いた。
「どうでした?」
「多分、おまえさんが感じた通りだったと思うね」
僕は灰田さんを凝視した。
「たいしたことじゃない。考え方一つで何もかもが自然と受け入れられる。ウサギは一羽、二羽と数える。羽のあるものは、浮かぶことが出来る。そういうことだ」
「この島の何を知っているのですか?」
「あの夢を見たんだろ?」
灰田さんの思わぬ一言に呆然となった。
「亀のような爺さんに、ここには住むなと言われたんだろう」
「灰田さんも……見たのですか?」
「ああ」
「いつですか?」
「昔だ。浮草で泡銭(あぶくぜに)を稼ごうと躍起になった時期があった。まだ若くて血の気が多かった」
「灰田さんも重いと言われたのですか?」
「そうだ」
煙草をもみ消し、灰田さんはくすりと笑った。
「重いらしいな。……その夢のせいかどうかわからない。この島に家を構えてみたが、落ち着かず、渡しをするようになった。一山当てるつもりだった浮草もとれるにまかせている。おまえさんは本気で島に住むつもりなのか?」
僕は首を横に振ってから、小さくなった島を視野に入れた。
「あの島は本当に浮島なのでしょうか?」
「さあな」
二羽の海鳥とすれ違った。藍色の雲が浮かぶ空に平行線を引くように、島を目指して飛ぶ。目に見えないその二本の軌跡は、なぜか心の中に残った。その瞬間に、くらくらと島が揺れたように感じられた。二線がぶれたのか、船が波に乗り上げたのか、本当に島が揺れたのか、もうわからなかった。
もう一度揺れるかもしれない。
それから随分と目を離さずにいたが、もう二度と揺れることはなかった。
〈了〉
浮島にてウサギを抱く ピーター・モリソン @peter_morrison
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