7
それから。
奇妙な夢を見た。
鴨居にあったはずの額が畳の上に落ちて、大きく跳ね上がるところから、その夢は始まった。
揺れている。
何もかもが。
今まで経験したことのないほどの強い地震だ。
かがみ込み、家屋が軋む音を聞いた。おさまれ、おさまれと心の中で唱える。焦れて立ち上がろうとしたが、腰が引けて、全く動けない。途方に暮れていると、徐々に揺れがおさまっていった。
ここぞとばかり、僕は裸足のまま離れを飛び出した。
辺りを見回す。
「灰田さん!」
呼びかけながら母屋を覗いたが、誰の姿もなかった。もう一度呼んでみるが、返事はない。身を低くしつつ、通りへ向かった。
また揺れが来た。
母屋の屋根から、色あせた瓦が滑り落ちる。まるでスローモーションのようにゆっくりと。次から次へと地面の上で砕け散った。
「灰田さぁーん!」
瓦礫の音にかき消されないように、声を振り絞った。
島の奥底から地鳴りが響いてきた。地面が盛り上がるような揺れは、さらにひどくなっていく。
僕はよろけながら浜へ向かった。広い場所へ出たかった。津波の危険は頭にはなかった。
道すがらウサギを見かけたが、いつもと変わりなくじっとしている。僕たった一人がこの異変に怯えているようだった。
姿勢を低くして、林の中を進み、海を目の当たりにした。波は凪いでいる。地震の爪痕はどこにもなかった。
遠く、砂浜の先に、人影があった。
薄曇りの空と砂浜との間に、ぽつんと一人立っている。
灰田さん?
そう思って足早に近づいたが、人違いだった。
人影は俯き加減でぼんやりと佇んでいる。どこか自分とよく似ていた印象を受けた。そういえば服装にも見覚えがある。ダンガリーのシャツとチノパンツ。何度も着た組み合わせだった。
得体の知れない違和感に、僕は歩みを止めた。
そうか、これは夢なのだ。
自分自身が目の前に現れても、驚くことはない。記憶の断片が折り重なっただけだ。そんなふうに論理的な思考を巡らせてみるが、かき立てられるような胸騒ぎは、現実以上に心に迫ってくる。確かに夢なのだ。しかし、今そこに直面している光景から心をそらすことは出来なかった。
人影はゆっくりと顔を上げた。
やはり自分と生き写しだった。
なぜ……。
と思う間もなく、その顔に急激な変化が起こった。深い皺が刻まれていき、表情が険しくなっていった。さらに、背中が曲がり、縮こまる。その姿はもう自分とは言いがたかった。人影は『象徴としての老人』の姿形を備え、弱々しく流木の上に座り込んだ。
「ここに住むつもりなのか?」
老人はそう切り出した。
「あなたは誰ですか?」
「誰でもない」
「もしかして僕自身ですか?」
「違うな」
「誰です?」
「それは重要ではない」
喉を鳴らす老人を、僕は凝視していた。
深すぎる思慮が、霞のように老人を取り巻いている。
「答えろ。ここに住みたいのか?」
「……そのつもりです」
声がうわずる。
「住むな」
「なぜですか?」
僕は両手を広げて見せた。
「ここはおまえが住むところではない」
「この島の何かを変えようと言うわけじゃ……」
「だめだ」
「……あなたに権限があるのですか?」
「ここはわたしの島だ」
「……あなたの……島?」
「そうだ」
老人は深々と頷いた。
「この島には、ほかに島人がいます」
「わたしが認めた人々だ」
そう言い張る老人から視線をそらし、僕は息をついた。夢につきあっても仕方がない。しかし……。
「どうすればここに住めるのですか?」
「たやすく口では言えない。……行き場のない想いをここで解き放った者だけが、島人となる」
濡れた瞳を黒く輝かせる。
「そもそも普通の人間には、この島はまともに写らない。この島に何の興味もわかないわけだ。だから、近づきもしない。たんなる景色の一つだ。陸と隔てた距離は僅かだがな」
「僕は自らの意思でここへやってきました」
「心をかき回しているうちに、たまたまつながっただけだ。島人にはなれない」
「ここで創作に没頭したい……」
「没頭ね」
老人は僕の胸の辺りを指差した。その指先は妙に尖っている。いや、もはや指先とはいえない。手首から先が鰭(ひれ)のようになっていた。象牙色で所々に小豆色の斑点がある。その先には尖った爪があり、それが僕に向けられていた。
「おまえは自分の価値を必死に他人に示そうとしている。創作はその手段の一つだ」
「そうじゃない。いや、それのどこが……」
「おまえは煩悩の塊。わかろうとしないだけだ」
「誰もが煩悩を持っている」
「では、ここで何をしていた?」
「……それは」
「何のつもりだ?」
「アイディアを集めていた……」
「ここでおまえがやったことは創作ではない。他人の記憶を盗み見ていただけだ」
「違う」
僕は創作ノートにびっしりと並んだ文字を思い起こした。
「……違う」
もう一度繰り返す。
「いや、違わない。あれは島人が抱えきれなくなった記憶だ。わたしが抱いているものに、おまえがつながっただけだ」
老人の唇はくちばしのように尖っていた。
「数々の想いがこみ上げたに違いない。しかし、それはおまえの才能ではない」
「感覚で得たものを作品にすることは悪いことなのですか?」
「良い悪いは自分で決めればいい。他人の記憶に触れるには、それなりの覚悟がいる。忘れてしまいたい記憶はおまえにもいくつかあるはずだ。それらをわたしが取り出し、ここに並べて、いじりだしたら、どうする? 目を背けずにいられるか?」
僕はその問いに答えられなかった。
「わたしは記憶を抱くだけだ。行き場のないそれらは浮力になる。ここにとどまり続けるに、必要なものだ」
老人はゆっくりと立ち上がった。
「もういいだろう?」
「ここを出て行けと……」
「重すぎるんだ。おまえは。……背中に乗せたまま、浮かんではいられない……」
ぶかぶかだったダンガリーシャツの背が、楕円状に膨らんでいる。
「明日ここを出て行くときに、ウサギを抱くといい。わたしの言葉が腑に落ちるだろう」
それだけ言い残すと、老人は霧のように掻き消えた。
夢はそこで終わってしまった。
あまりにも鮮明すぎる光景は、目覚めても頭に残り、僕の脳裏から消え去ることはなかった。
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