6
明け方から浅い眠りの中にいた。
目覚めると、すぐに浮草に火をつけた。最初の一服が身体を一巡りしてから、蒲団の上に胡座をかいた。そういえば月曜日だと、ぼんやりと考えた。
兼業で作家をやっている。つまりは会社勤めをしている身だ。
枕元のスマートフォンを取り上げてみる。どうあがいても始業時刻に間に合わない。その上圏外表示だ。連絡も出来ない。会社に迷惑をかけるが、まだここに留まるべきだと、実は昨晩から考えていた。この機を逃すと、一生後悔してしまうかもしれない。今日は出歩かず、最後の一日として、この島ですごそうと心に決めた。
朝飯を済ませ、灰田さんを見送ってから、離れにこもった。
余白が数ページとなった創作ノートを広げてみる。ただ昨日と同じようなことが起こるとは限らない。が、それは取り越し苦労にすぎなかった。ものの一分で、またつながった。手首には昨日の疲れが残っていたが、そんなことは言っていられない。
こんなことが起こるものなのか。手を動かしながら、疑問を自分自身に投げかけてみるが、すぐにそんな余裕もなくなった。
原理はどうであれ、それらを文字にせずにはいられない。そこに迷いは微塵もなかった。ただひたすらに作業をしていると、感覚がおかしくなってくる。顔を僅かに上げる度に、時間が僕を置き去りにしていくようだ。
昼過ぎだ。
僕はペンを放った。そうでもしなければ、区切りがつかない。右手首を掴み、じんとした痛みに顔をしかめてみるが、ぐうと腹が鳴る。
サンダル履きで母屋へ行くと、ちょうどエミさんが、昼食をつくっている最中だった。
「もう少しで出来るよ」
エミさんは背中越しに呟いた。
「……ありがとうございます」
こうやって言葉を交わすのは、初めてだ。
「エミさんは、この島の方なのですか?」
僕は躊躇いがちに尋ねてみた。
「いいや」
卵二つを丁寧にボウルに割り、それを太い箸で掻き混ぜた。
「いろいろあって、ここへ逃げてきた」
手を止めて、エミさんは首を傾げた。その仕草から喜怒哀楽を読み取ることは出来なかった。
「昔のことはよく覚えていないね。すべて島亀様にお供えしてしまった」
「お供え……?」
「そう、煩わしいものをすべて。島亀様に」
「島亀様とは?」
問いかけながら、昨日見た祠(ほこら)の神体が脳裏をよぎった。
「ありがたいことだ。とても静かに暮らすことが出来る。もうここに、悩ますものは何もない……」
エミさんは眉間の辺りを指差した。
熱せられたフライパンに溶き卵が注がれた。じゅじゅっと卵は膨らみ、手早く丸められていった。
島亀神社へ行く道中に出会った島人もまた、エミさんが言う『お供え』をした人々なのだろうか。
この島には何かがいる。
それは八百万の神の一つなのかもしれない。
この島のどこかにいて、密やかに人々の心をつないでいる。
……ここに住みたい。
どこか空家があれば、そこを買い上げるか、借りることも出来るのでは。会社を辞め、創作一本にシフトしてもいい。何とかなる。これほど創作に没頭出来る環境はほかにないだろう。
灰田さんに相談してみるか……。
この島で創作を続ける自分の姿を思い浮かべ、僕は久しぶりに興奮した。
もう迷いなどない。
何をどうすればいいか、自覚出来ていた。
何ものにも縛られず、自分にやりたいことをやればいいのだ。それは昔から夢見ていたことだ。
「風呂だ。悪いが俺は先に入った。すぐ入ってくれ」
離れにやってきた灰田さんの声で、現実に引き戻された。
「はい、すぐに……」
僕は目蓋を擦って、伸びをした。
持ってきた創作ノートはつかいきってしまった。剥がされた日めくりカレンダーの裏側までも、文字で浸食されている。
ゆらゆらと風呂場へ行き、湯に身を沈めた。手首から小指にかけて、腫れたように熱を持っていた。
「仕事はどうだ? 何かいいのが書けそうか?」
開け放たれた窓越しに、灰田さんが話しかけてきた。
「ええ、何とか」
僕は髭をそる手を止め、言葉を返した。
「そりゃあ、よかった。……楽しみだな」
釜戸を開き、薪をくべる気配がする。
「明日、戻るんだよな」
「ええ、そのつもりです」
このまま居続けてしまいたいが、そうもいかない。しかるべき手続きを踏んで、もう一度ここへ来るべきだった。
「何時に発つんだ?」
「特に決めていませんが……」
「明日は仕事が入ってないから、いつでも送ってやれるよ」
「多分、昼前ぐらいにお願いすると思います」
「そうか」
「……あの、灰田さん?」
「なんだ」
「灰田さんはこの島に住んでどれくらいですか?」
「十年ぐらいになるな。といっても、島人じゃない。行ったり来たりで、ここは寝るだけだ」
「この島を気に入っているのですか?」
「わからんな。……しかし、ここにしか自分の居場所がないように思える」
「僕はここが気に入りました」
釜戸の中で薪がはぜたような音がした。
「灰田さん、この島に住みたいのですが、どう思いますか?」
「ここにか? 何をするつもりだ?」
「……創作、活動です」
「なるほど、そういう人間には何もないというのが、かえっていいのかもな。……まあ、もう一度、ゆっくりと考えた方がいい。おまえさんが考える以上に、この島は不便なところだ。それに……」
灰田さんは何かを言い淀んだようだったが、そのまま口をつぐんでしまった。
風呂から上がると、離れに戻り、蒲団にくるまった。
きっといいものが書ける。とにかく住んでみよう、この島に。すべてはそれから考えればいい。
僕は蒲団を頭からかぶり、深く目を閉じた。
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