5
灰田宅の裏手から、島亀神社へ続く近道があるという。
垣根を縦に割るようにして、石階段が伸びていた。灰田さん曰く、これをただひたすら登ればいいとのことだ。
とんとんと四、五段踏み上がると、木々に囲まれ、視界の大方を遮られてしまった。石階段はすぐに終わり、獣道とおぼしき、幅一メートルもない狭い道につながった。
道はなだらかなU字になっていた。堅い地質で、根を通さないのか、木々の根が蛇の群れのように、道の上で絡み合っている。ひどい場所では足の置き場に困るほどだった。
見上げると、ちぎれ雲が風に流されている。なぜだか心がざわついた。見慣れた空なのに、どこか違和感を覚える。そんなことを考え巡らせながら、先に進んだ。
道は左右に二分岐した。島亀神社は島の頂上にあるのだから、勾配のきつい左の道の方を選ぶ。しばらく行くとまた、分岐した。案内看板のようなものはない。Y字の分岐になっていて、さっきと同じように左へ進むと、人家と見つけた。道が落ちくぼんでいるので、僕はそれを仰ぎ見る格好になった。
古びた家だった。外壁の板が反り返り、色褪せている。全体的に少し左に傾いているようだった。
縁側の辺りに、男が立っていた。白い肌着に、作業ズボンを身につけている。薄汚れた印象だ。
男は僕の気配を感じたのか、こちらに一瞥をくれた。男の表情には好意の色も敵意の色もない。目を伏せ、ゆっくりすぎる動作で家の中へ入っていった。
驚きと、ばつの悪さで、僕は足を止めず、そのまま行き過ぎた。
すぐ先に、二軒目を見つけた。
その家は緑に苔むしていた。雨樋の赤茶色が差し色になっている。やはり建てつけが悪いようで、側面を材木で斜めに当てていた。洗濯物が干されていて、その下に初老の女が座り込んでいた。
女は頬杖をつき、じっとしていた。道でも尋ねてみようと、遠目から挨拶をしてみたが、無反応だった。こちらを見ようともしない。警戒しているという様子でもない。さっきの男といい、取りつく島もない。
彼らと自分の間には目に見えない壁が存在しているようだった。
これ以上干渉してはいけない。そんな想いが胸の内に広がった。
何も見なかった、そんな体(てい)を装い、立ち去ろうとすると、不意に茂みから何かが飛び出してきた。
ウサギだった。
ごそごそと草の間から姿を現し、鼻をひくつかせている。
僕は悪戯心に取りつかれ、立ち止まった。そっとしゃがみ込み、ウサギを捕まえようとするが、するりと逃げられる。見かけによらずすばしっこい。指先がやわらかい毛に触れるものの、すり抜けてしまう。意地になって追いかけ始めると、深い茂みの中へ姿を消した。
なぜこんな場所に繁殖してしまったのだろう。ペットが野生化したのか。猫や犬の姿はここにはなかった。
僕はウサギを諦めて、先へ進むことにした。
登り道が続く。さすがに足が疲れてきた。傾斜は徐々に急になり、あるところで階段になった。膝に手をつき、ただひたすら登り続ける。
遙か先に赤鳥居が見え始め、一段一段近づいていくと、赤い柱に島亀神社の文字を見出した。
僕は立ち止まり、腰に手をやった。
神社とあるが、社(やしろ)らしきものはない。丸く開かれた空間に、小さな祠(ほこら)が一つ建っているばかりだった。
息を整えてから、僕は祠に向かった。その中には楕円の白い石が祀(まつ)られていた。ほかには何もない。後に回り込んでみると、古びた石碑に目がとまった。そこにはこの島が浮島と呼ばれる謂(いわ)れが彫り込まれていた。
年老シ大亀アリ
力尽キ浮カビタリ
甲羅ニ土積モリテ
木々茂リ浮島トナリケリ
祠の石は亀を象(かたど)ったものだろう。おそらく浮島の噂はこの碑文が元になっている。それを知ったからか、急に足元が頼りなく思えてきた。
祠を背にして、頂上から穏やかな午後の海を眺めた。白波を立てながら行き来する漁船の姿がある。
この島が亀そのもので、ぽっかりと海原に浮かんでいるというくだりは、物語として素朴な面白さに満ちていた。
僕は足元に意識を集中し、海中にある島亀の表情を想像した。おそらく長い首を甲羅にしまい、皺深い目蓋をぐっと閉じている。安らかに。……そんな妄想を弄んでいると、急にくらくらとなって、その場にしゃがみ込んでしまった。
頭の中で声がする。
もごもごとくぐもった声は次第に重なっていく。
顔がイメージされた。陰影だけで、輪郭が曖昧だ。
耳で聞いているわけでも、目で見ているわけでもない。
すべては脳で行われていた。
独り言を呟いたり、過去を甦らせたり、夢が訪れる場所だ。
そこにそれらはある。
声は大きくなり、喧噪となった。
顔は集まり、群衆となった。
うしろに引っ張られるように、僕はそれらからどんどん遠ざかっていった。
広大な湿原、雲一つない空、虚しい風音。
何だろう。
熱い想いが頭の底から沸き上がり、彩りを与える。
膨れ上がり、きゅうと締めつけられる。
心が揺れて仕方ない。
僕は頭を押さえつけた。
横に倒れ、背を丸めた。
空がぐるぐると回り始め、それらは彼方に去っていった。
島亀神社から戻ってくると、僕はぐったりとなった。
煙管をたぐり寄せ、浮草を吸った。
それで目眩のようなものはおさまったが、まだむずむずとしていた。
またあれがやってくる。そんな予感がある。
僕は膝を抱いた。
意識をそらそうとすればするほどに、重力のようなものに引きつけられた。
そして、来た。
眉毛の下から上唇の間、その内側の領域にイメージが出現した。
……細い指が、アルバムをめくっている。
映像だ。
ふと指が止まった。
並ぶ写真。
差し込む日差しが、その表を白く反射させている。
とある、一枚の写真。
再び指が現れ、いとおしそうに触れる。
それに赤みが差す。
……これは物語。いや、記憶そのもの?
僕は創作ノートを広げ、書き取っていった。文字に置き換えるところで情感を損なっては意味がない。集中を高め、最適な言葉を選ぶ必要があった。しかも素早く。
情感を伴った映像は止めどなく続いた。
あっという間に空白の創作ノート一冊が文字で埋め尽くされていく。痺れた手首をさすり、もう一度見直す。連なる文字は断片にすぎなかったが、生々しさがあった。
これらは何になるのだろうか。
それよりもこの現象は何なのか。
冷静に思考するには、頭の中が混乱しすぎていた。
久しぶりに創作ノートが文字で埋まった。妙な充足感に包まれながら、僕は首をまわした。喉がひどく渇いている。
僕は母屋へ出向き、土間の棚にあったインスタントコーヒーを拝借した。やかんに水を張り、コンロに火を入れる。プロパンガスの青い炎が、小さく揺らめいた。
しゅんしゅんと湯気を上げ、やかんの水が沸騰していく様を眺めていると、また、あれとつながった。
まるでもよおしたように、僕は身を縮ませた。
別の情景が滲み出し始めていた。
コンロの火を消し、土間を飛び出した。コーヒーどころではない。離れで創作ノートを開くと同時に、ペンが勝手に動き出した。気を張っていないと、情報の渦で意識が持っていかれそうになる。右手を左手で掴み、支えるようにして文字を連ねていった。
かつて、そんな形容を口にしたこともあった。不可思議なゾーンに入っているときは気分がいいが、後々読み直してみると、決まってちんぷんかんぷんだ。ものになるものはほぼない。物語は身を削って、苦しみぬいて紡ぐものだ。しかし、この現象は、その『降ってくる』に近い。空っぽの頭の中に物語のつぼみがついた情景が溢れてくる。高揚感に支配され、気がつけば日が暮れていた。
一日があまりにも早すぎる。
僕は創作ノートを閉じ、ペンを置いた。
「おーーいっ」
呼ぶ声がした。
「飯だあ」
灰田さんの声だ。
離れを出ようとするが、足がもつれ、危うく転びそうになる。
「大丈夫か?」
「少し根を詰めました」
夕食をとり、湯船に体を浮かせると、疲れ切っている自分がそこにいた。頭の回路が焼きついてしまったようだった。
蒲団を引き、崩れるように身体を横たえた。仰向けになり丸い蛍光灯を意味もなく見つめた。
創作ノートの後半に綴られたのは、とある女の記憶だ。切り取りしだいで、新しい感覚のドラマを成立させることが出来そうだった。
ああ、まずい。
また、むずむずとしてきた。
僕は寝返りをうち、それらを意識の外側に無理矢理追いやった……。
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