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 灰田宅の裏手から、島亀神社へ続く近道があるという。

 垣根を縦に割るようにして、石階段が伸びていた。灰田さん曰く、これをただひたすら登ればいいとのことだ。

 とんとんと四、五段踏み上がると、木々に囲まれ、視界の大方を遮られてしまった。石階段はすぐに終わり、獣道とおぼしき、幅一メートルもない狭い道につながった。

 道はなだらかなU字になっていた。堅い地質で、根を通さないのか、木々の根が蛇の群れのように、道の上で絡み合っている。ひどい場所では足の置き場に困るほどだった。

 見上げると、ちぎれ雲が風に流されている。なぜだか心がざわついた。見慣れた空なのに、どこか違和感を覚える。そんなことを考え巡らせながら、先に進んだ。

 道は左右に二分岐した。島亀神社は島の頂上にあるのだから、勾配のきつい左の道の方を選ぶ。しばらく行くとまた、分岐した。案内看板のようなものはない。Y字の分岐になっていて、さっきと同じように左へ進むと、人家と見つけた。道が落ちくぼんでいるので、僕はそれを仰ぎ見る格好になった。

 古びた家だった。外壁の板が反り返り、色褪せている。全体的に少し左に傾いているようだった。

 縁側の辺りに、男が立っていた。白い肌着に、作業ズボンを身につけている。薄汚れた印象だ。

 男は僕の気配を感じたのか、こちらに一瞥をくれた。男の表情には好意の色も敵意の色もない。目を伏せ、ゆっくりすぎる動作で家の中へ入っていった。

 驚きと、ばつの悪さで、僕は足を止めず、そのまま行き過ぎた。

 すぐ先に、二軒目を見つけた。

 その家は緑に苔むしていた。雨樋の赤茶色が差し色になっている。やはり建てつけが悪いようで、側面を材木で斜めに当てていた。洗濯物が干されていて、その下に初老の女が座り込んでいた。

 女は頬杖をつき、じっとしていた。道でも尋ねてみようと、遠目から挨拶をしてみたが、無反応だった。こちらを見ようともしない。警戒しているという様子でもない。さっきの男といい、取りつく島もない。

 彼らと自分の間には目に見えない壁が存在しているようだった。

 これ以上干渉してはいけない。そんな想いが胸の内に広がった。

 何も見なかった、そんな体(てい)を装い、立ち去ろうとすると、不意に茂みから何かが飛び出してきた。

 ウサギだった。

 ごそごそと草の間から姿を現し、鼻をひくつかせている。

 僕は悪戯心に取りつかれ、立ち止まった。そっとしゃがみ込み、ウサギを捕まえようとするが、するりと逃げられる。見かけによらずすばしっこい。指先がやわらかい毛に触れるものの、すり抜けてしまう。意地になって追いかけ始めると、深い茂みの中へ姿を消した。

 なぜこんな場所に繁殖してしまったのだろう。ペットが野生化したのか。猫や犬の姿はここにはなかった。

 僕はウサギを諦めて、先へ進むことにした。

 登り道が続く。さすがに足が疲れてきた。傾斜は徐々に急になり、あるところで階段になった。膝に手をつき、ただひたすら登り続ける。

 遙か先に赤鳥居が見え始め、一段一段近づいていくと、赤い柱に島亀神社の文字を見出した。

 僕は立ち止まり、腰に手をやった。

 神社とあるが、社(やしろ)らしきものはない。丸く開かれた空間に、小さな祠(ほこら)が一つ建っているばかりだった。

 息を整えてから、僕は祠に向かった。その中には楕円の白い石が祀(まつ)られていた。ほかには何もない。後に回り込んでみると、古びた石碑に目がとまった。そこにはこの島が浮島と呼ばれる謂(いわ)れが彫り込まれていた。


 年老シ大亀アリ

 力尽キ浮カビタリ

 甲羅ニ土積モリテ

 木々茂リ浮島トナリケリ


 祠の石は亀を象(かたど)ったものだろう。おそらく浮島の噂はこの碑文が元になっている。それを知ったからか、急に足元が頼りなく思えてきた。

 祠を背にして、頂上から穏やかな午後の海を眺めた。白波を立てながら行き来する漁船の姿がある。

 この島が亀そのもので、ぽっかりと海原に浮かんでいるというくだりは、物語として素朴な面白さに満ちていた。

 僕は足元に意識を集中し、海中にある島亀の表情を想像した。おそらく長い首を甲羅にしまい、皺深い目蓋をぐっと閉じている。安らかに。……そんな妄想を弄んでいると、急にくらくらとなって、その場にしゃがみ込んでしまった。

 頭の中で声がする。

 もごもごとくぐもった声は次第に重なっていく。

 顔がイメージされた。陰影だけで、輪郭が曖昧だ。

 耳で聞いているわけでも、目で見ているわけでもない。

 すべては脳で行われていた。

 独り言を呟いたり、過去を甦らせたり、夢が訪れる場所だ。

 そこにそれらはある。

 声は大きくなり、喧噪となった。

 顔は集まり、群衆となった。

 うしろに引っ張られるように、僕はそれらからどんどん遠ざかっていった。

 広大な湿原、雲一つない空、虚しい風音。

 何だろう。

 熱い想いが頭の底から沸き上がり、彩りを与える。

 膨れ上がり、きゅうと締めつけられる。

 心が揺れて仕方ない。

 僕は頭を押さえつけた。

 横に倒れ、背を丸めた。

 空がぐるぐると回り始め、それらは彼方に去っていった。


 島亀神社から戻ってくると、僕はぐったりとなった。

 煙管をたぐり寄せ、浮草を吸った。

 それで目眩のようなものはおさまったが、まだむずむずとしていた。

 またあれがやってくる。そんな予感がある。

 僕は膝を抱いた。

 意識をそらそうとすればするほどに、重力のようなものに引きつけられた。

 そして、来た。

 眉毛の下から上唇の間、その内側の領域にイメージが出現した。

 ……細い指が、アルバムをめくっている。

 映像だ。

 ふと指が止まった。

 並ぶ写真。

 差し込む日差しが、その表を白く反射させている。

 とある、一枚の写真。

 再び指が現れ、いとおしそうに触れる。

 それに赤みが差す。

 ……これは物語。いや、記憶そのもの?

 僕は創作ノートを広げ、書き取っていった。文字に置き換えるところで情感を損なっては意味がない。集中を高め、最適な言葉を選ぶ必要があった。しかも素早く。

 情感を伴った映像は止めどなく続いた。

 あっという間に空白の創作ノート一冊が文字で埋め尽くされていく。痺れた手首をさすり、もう一度見直す。連なる文字は断片にすぎなかったが、生々しさがあった。

 これらは何になるのだろうか。

 それよりもこの現象は何なのか。

 冷静に思考するには、頭の中が混乱しすぎていた。

 久しぶりに創作ノートが文字で埋まった。妙な充足感に包まれながら、僕は首をまわした。喉がひどく渇いている。

 僕は母屋へ出向き、土間の棚にあったインスタントコーヒーを拝借した。やかんに水を張り、コンロに火を入れる。プロパンガスの青い炎が、小さく揺らめいた。

 しゅんしゅんと湯気を上げ、やかんの水が沸騰していく様を眺めていると、また、あれとつながった。

 まるでもよおしたように、僕は身を縮ませた。

 別の情景が滲み出し始めていた。

 コンロの火を消し、土間を飛び出した。コーヒーどころではない。離れで創作ノートを開くと同時に、ペンが勝手に動き出した。気を張っていないと、情報の渦で意識が持っていかれそうになる。右手を左手で掴み、支えるようにして文字を連ねていった。

 かつて、そんな形容を口にしたこともあった。不可思議なゾーンに入っているときは気分がいいが、後々読み直してみると、決まってちんぷんかんぷんだ。ものになるものはほぼない。物語は身を削って、苦しみぬいて紡ぐものだ。しかし、この現象は、その『降ってくる』に近い。空っぽの頭の中に物語のつぼみがついた情景が溢れてくる。高揚感に支配され、気がつけば日が暮れていた。

 一日があまりにも早すぎる。

 僕は創作ノートを閉じ、ペンを置いた。

「おーーいっ」

 呼ぶ声がした。

「飯だあ」

 灰田さんの声だ。

 離れを出ようとするが、足がもつれ、危うく転びそうになる。

「大丈夫か?」

「少し根を詰めました」

 夕食をとり、湯船に体を浮かせると、疲れ切っている自分がそこにいた。頭の回路が焼きついてしまったようだった。

 蒲団を引き、崩れるように身体を横たえた。仰向けになり丸い蛍光灯を意味もなく見つめた。

 創作ノートの後半に綴られたのは、とある女の記憶だ。切り取りしだいで、新しい感覚のドラマを成立させることが出来そうだった。

 ああ、まずい。

 また、むずむずとしてきた。

 僕は寝返りをうち、それらを意識の外側に無理矢理追いやった……。

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