鳥籠少女目録

影山間

序 夏墓雨

 水無月みなづき少女しょうじょについて、わたしは多くのことを知らない。

 知っているのは、少女という名前でありながら14歳の少年であること。半里ヶ原はんりがはら中学生徒のみならず県外の高校生にまで告白され、芸能事務所に何度もスカウトされる絶世の美少年であること。勉強をさせても運動をさせても人より頭ひとつ抜きん出ていること。そのくせ驕ることも出しゃばることもない爽やかな美少年であること。それくらいだ。

 教室の片隅でぼんやりと本を読むばかりのわたしにとって、水無月少女はまるで異次元の存在だ。黙って座っているだけで周囲に人が集まりおおいに会話がはずむ。他のクラス他の学年の生徒まで教室をのぞきにくる。教師も、なんなら親たちだって、多かれ少なかれ水無月を気にかけていた。とはいえ、人目をひくものより地味なものが好きなわたしは、これまで水無月少女をさほど気にしてはいなかったのだけれど。

 その日水無月少女は一人だった。一人、自分の席に何をするでもなく座っていた。梅雨の終わりの空はどんよりと暗く明かりのついていない教室はほとんど夜のようだ。

 彼が一人でいることは珍しい。いつも五、六人の気心知れた友人と一緒にいる。だが一人だからといって声をかけるほど、わたしは気安い人間じゃない。ただの人見知りともいうけど。

 無言で教室に入り、無言で机に忘れていた本(江戸川乱歩全集第3巻だ)を回収し、無言で教室を出ようとした。

夏墓なつはかさん」

 聞き間違いかと思ったが、振り返るとしっかりと目が合ってしまった。まさかあの水無月少女に声をかけられるとは思わなかった。わたしを見る切れ長の、どことなく憂いを含んだ瞳は、たかだか14歳の男子中学生では持て余してしまいそうなものだが、水無月少女の綺麗な顔には惚れ惚れするほど似合っている。

「なに」

 無愛想に応えてから、水無月少女のほんのり焼けた首筋に後毛がぴったりとくっついていることに気づいた。この蒸し暑い教室に随分ながくいたようだ。いったいなぜ。

 水無月少女はこちらを見たままうっすらと唇を開く。

 何か話し出すのかと思ったがしばらく沈黙が続いた。水無月少女はいいあぐねたように唇を舐め、手の甲を何度か口にあてる。思いつめた表情は妙に色っぽく、叶わぬ恋に悩む乙女にも似ている。いつもキャーキャー言ってる女子が見たらそれはそれは喜ぶことだろう。

「夏墓さんは——」

 話し出しそうとした時、校庭から陸上部の号令が聞こえた。水無月少女は肩を震わせ、また黙る。まるで誰にも聞かれてはならないみたいに。

「……なにか用?」

 いつのまにかわたしの額にも汗がにじんでいた。暑さのためだけではない。プレッシャーのようなものを感じていた。水無月少女はなにかわたしに打ち明けようとしている。それも、わたしに全幅の信頼を置いているからとかそういうことではなく、単にここにいて、その上ほとんど他人だからという理由で話そうとしている。

 彼は吐露しようとしているのだ。秘密を。もしくは、それに近い隠し事を。

 そういうのに対するカンは昔から鋭いほうだった。というか、ぼんやりしているとみんなわたしに自分の罪を吐き出していく。あの子がいやで消しゴムを隠した、きらいな野菜をそっとトイレに流した、何度もカンニングをした、わたしは心理カウンセラーでもないし告解室の聖職者でもないというのに、みんな一方的に内に抱えた苦しみを吐き出していく。わたしが夏墓なんて陰気な名前だからって、愚痴のごみ捨て場か何かと勘違いしているのではないだろうか。

 だがごみ捨て場にもいいことはある。吐き出したやつの弱みがわかるし、いざとなればそれでちょっとした頼みごともできる。もちろんそんな脅しみたいな真似をしたことはないけれど、完全無欠の水無月少女の弱点は、少しばかり知ってみたかった。

 わたしは彼が話しやすいようほんのちょっぴり目を逸らす。言い出すまで待ってあげる、の姿勢だ。待つのは慣れている。

 待つこと数分。鳴き声で校庭にセミが何種類いるのか考えるようになった頃、水無月少女はぽつぽつと話し出した。夏墓さんだったら、と前置きをして。

「逃げ出したいのに逃げ出せなくなったら、どうする?」

「どこから」

「……いたくない場所から」

 ずいぶん抽象的な質問だ。

 いたくない場所とはどこだろう。家か。学校か。それともこの地方都市か。いずれにせよ水無月少女ほどの美貌も才能もある人間なら、どこにいたって他人の視線が煩いだろう。逃げたくなる気持ちもわかる。

「脱出方法を考える」

「考えてもダメだったら」

「考える方法を変える」

「考える方法?」

 水無月少女は首をかしげる。

「自分一人で考えてダメなら、自分より賢い人に相談する。同じ境遇に陥ったことのある人とか、もっと経験豊富な人に」

「それでもダメだったら?」

 ほとんど諦めきった表情だ。救いはないと言わんばかりに、目を伏せる。わたしはどうやら水無月少女の求める答えを渡せていないようだ。まあ、普通はこんなざっくりとした質問に的確な回答を出せるわけがない。

 だからわたしも投げやりに答えた。いろいろなものをボカした質問なんてまともに答えるだけ無駄だ。

「何がダメか知らないけど一人でグズグズ考えるよりさっさと吐いて理解してくれるまともな仲間を作ったほうがマシだよ。それで少しは気が楽になるし、楽になったらしばらく耐えられる。耐えられたら、今はどうにもならないことでも先のチャンスに賭けられるでしょ」

 友達いないわたしが言うのもなんだけど、と心の中で付け加えておく。

 返事は待たずに置いていたカバンを拾って廊下に出た。タイミングよく下校放送も流れ出す。水無月少女には悪いがもっと親身になって相談を聞いてくれる友人はごまんといるだろう。要領を得ない相談を受けるのはあまりに面倒だ。

「夏墓さん!」

 意外なことに水無月少女は廊下まで追いかけてきた。普段は良く言えば穏やかな、悪く言えば当たり障りない態度を取っているくせに、声を荒げてわたしの肩をぐっと掴む。そう腕力がありそうには見えないのにずいぶん強い力だ。

「……大丈夫?」

 振り返ると、思わずそう聞いてしまうほどの必死の表情に出会った。肩が大きく上下して、過呼吸になりそうなほど激しく呼吸をしている。とりあえず落ち着かせようと手に触れ、その手すら震えていると気づいた、その時だった。

「誰かいるの?もう下校時刻よ」

 長い廊下の端。暗がりからよく知った姿が現れた。

 黒野灯子くろのとうこ。今月生徒会長になったばかりのクラスメイトだ。背が高く、長い黒髪をきりりと後ろで結んでいる。

「……だって。悪いけどもう帰らなきゃ。相談なら黒野さんにした方がいいと思う」

 逃げる口実として使ったけれど、実際に優等生の黒野灯子ならばきっと的確な返答ができるだろう。

 しかし諭しても水無月少女は手を離さない。それどころかますます力を込めて、泣きそうな目でこちらを見た。他人の気持ちを考えるのが苦手なわたしでもわかる。この顔はの顔だ。

 どうしたものかと戸惑っていると、水無月少女はいきなりわたしを引き寄せてぐいと顔を近づけてきた。知らない匂いがするさらさらの前髪が顔をくすぐって、反射的に息を詰める。

「鳥が見えたら音楽室に行って」

 小さな、小さな囁き。

 ふいに肩をつかんでいた手が離れた。水無月少女はさっきまでのやりとりなどなかったかのようにいつもの笑顔になる。

「急にごめん。ちょっと調子悪くて」

 肩貸してくれてありがとう、と照れたように言うとしっかりとした足取りで歩き出す。黒野灯子にも「見回りお疲れさま」と微笑み、さっさと下校してしまった。

 わたしはそれをただ見ていた。真っ暗な部屋にいきなり放り込まれたような気分だ。水無月少女が言ったことの意味がさっぱりわからない。鳥が見えたら音楽室に、とは一体なんなのだろう。

「ほら夏墓さんも」

 再び帰るようせかされて、ようやく足は動き出した。


 鳥、とは何のことだろう。

 正門からまっすぐ伸びる坂を下りながら考える。わたしの家は坂を下って15分ほどで着くけれど、なんとなくまっすぐ帰る気がおこらなくて、近くのコンビニに寄ってみる。

 コンビニの駐車場には知った顔がいくつかある。何人かと馬鹿笑いしながらアイスを食べているのは同じクラスの滝野楽多だ。あちーとかマジでゲロ吐くわーとか言ってるあたり部活あがりの一本らしい。買い食いは禁止されてるのだけれどわざわざ注意するのも面倒なので、黙って店内に入る。

 雑誌コーナーに『かわいいことり』と書かれた文庫サイズのカラー本が置かれていた。『ねこ日和』とかそういう疲れたアラサー独身女性が読みそうな類のやつだ。

 パラパラとめくってみると、いろんな小鳥がいた。文鳥やメジロやエナガといったスタンダードな鳥から、キューバコビトドリなんて異様にカラフルな小鳥までだいたい20種類くらい載っている。みんな「水浴びだーい」「ちゅんちゅん!いいお天気!」とか本当にそんなこと思ってるんだろうかというセリフがつけられている。このテンションはちょっと苦手だ。

 本をまじまじと読んでももちろん何もわからない。そもそも水無月少女の言った「鳥が」とはいったいどういう意味なのだろう。見えたらも何も、鳥なんていつだって見ている。スズメにハトにカラス。このへんは田舎だから、ちょっと山にいけばトビやタカもいるだろう。

 結局、なんの収穫もないままコンビニを出た。もなかアイスの袋をバリッと開けて口にくわえる。

「……鳥ねえ」

 どこかから逃げ出したい水無月少女と鳥に何か関係があるのだろうか。幸せの青い鳥を見つけたいんだとかそういうポエミーな話だろうか。だったらものすごくアホらしい。

「雨ちゃん!」

 今日はよく名前を叫ばれる日だ。そう思って顔をあげると、目と鼻の先に鉄の扉が迫っていた。

「うわわっ!」

 あわてて飛び退く。ぼんやり歩いていたせいでバックしてきたトラックにひかれそうになっていた。

「あーすみません!すみません!以後気をつけます!」

 わたしより先にトラックの運転手に激しく謝ったのは、さっき雨ちゃんと叫んだのと同じ人物、クラスメイトの指切ゆびきりゆずきだった。茶色がかったボブ頭がちょこちょことしきりに下げられているのはどことなく小動物っぽい。

「もー……雨ちゃんたらあぶないよう。ひかれたらどうするの?」

「そいや最近のアニメって、車にひかれてぺっちゃんこになるシーンないよね」

「雨ちゃん!」

「ごめんて」

 ぷんぷんと頭の上にΩオメガみたいなのを出しているのが見えてきそうだ。ゆびちゃんはこういうところマンガっぽくてかわいい。

「暑いからしょうがないけど、ぼーっとしてちゃだめだよ」

「いや暑いからってわけじゃなくて……今日水無月くんに話しかけられてさ、なんでだろうって考えてただけ」

「ええーっ!水無月くんに!?いいないいなー!!」

 ゆびちゃんは水無月少女の大ファンだ。同じクラスなんだからいつだって話しかけられるのに、いつも教科書の影から熱心に見つめている。体力テストの時なんて、「水無月くんのナマふくらはぎっ!」と言ったかと思うと遠投テストでものすごい距離を叩き出していた。

「水無月くんなんて言ったの?なに話したの?ていうかなんで話せたの?水無月くんファンすごいから下手に話すと地味ぃに嫌がらせされるらしいよ?うわばきにすごい量の木工ボンドいれられたりとか!」

「うわ、地味にいやだな」

 ぐにゅーっと大量の木工ボンドを踏むなんてなかなかできない体験ではありそうだけど。

「あーあ、わたしも水無月くんと話したいなあ!水無月くんってどんなこと話すの?」

「あー……」

 目をキラキラさせて聞かれると、ついつい答えそうになってしまう。だが、あんな切実な顔で言っていたことをポロっと話していいものか。

「水無月くん動物が好きらしくてさ、なんかペット飼ってるのかって話」

 とりあえず少しだけボカしておいた。しかしゆびちゃんはそれだけで妄想大爆発なようで、頰がふにゃふにゃになっている。

「んもおお水無月くんと動物とかめちゃくちゃかわいいじゃん〜!大正義じゃん〜!犬とか飼ってるのかな?それとも猫かな?猫の方が水無月くんっぽいけど、猫っぽい人って犬のほうが好きっていうから犬かなぁ?うん犬としておこう!で、答えはどっち!」

「や、下校時間になっちゃったからそのへんは聞いてないよ」

「なぁんで聞かないかなー!!雨ちゃんコミュ力低いんじゃない!?」

「実際そうだしね……」

 遠い目をするとゆびちゃんは「本当のこと言ってごめん!」と慌てたように謝った。さらりと追い打ちをかけてくる。

 でも、人付き合いが苦手なわたしにあれこれ話しかけてくれるゆびちゃんはなかなか良い奴だ。友人なんて呼べるのはゆびちゃんと、あと一人くらいしかいない。

「雨ちゃんはなにか飼ってるの?ペット」

「いや。自分のケツ拭くのに精一杯」

「雨ちゃんぽいなー」

 ケツって、と笑いながら二人で駐車場を出る。ゆびちゃんちは駅前なので角まで一緒だ。助けてくれた礼にもなかアイスを半分あげると、ゆびちゃんはほろっと笑って一気にほおばった。やはり小動物。

「でもさー、ペットって飼ってみるとかわいいよ。うちもツグミ飼ってるんだけど、けっこう愛着わくし、親の喧嘩とかおきにくくなったんだよね」

「ツグミ?」

 ドキっとした。鳥だ。

「うん。雛が落ちてて、かわいそうだからワームっていううにょうにょした虫あげてたらずいぶんおっきくなっちゃった」

「うげ……あの虫さわったの」

「うん。キモかったけど慣れたら平気だよー。」

「金輪際さわらないでいただけますか」

「えーひどい!」

 ぴえーと泣く真似をするゆびちゃんを笑ってやると、ちょうどまがり角についた。ゆびちゃんはまた明日ねーと手を振って元気に去っていく。ゆびちゃんとくっちゃべっていたらいつの間にか重苦しい雲が去って、綺麗な夕日が差していた。すっかり初夏の空気だ。

 それを見ていると水無月少女の言葉にあれこれ思い悩んでいるのが馬鹿らしくなってきた。間もなく期末試験、それが終われば夏休みだ。他人のことにあれこれと思いわずらっている暇はない。図書館で借りた本も早く読みたいし。

 さくさくと夕焼けに染まる道を歩き出すと、電線の上にカラスが見えた。

 もう鳥のことはいいやと思いつつ、ついつい横目に見てしまった。黒光りするくちばしは小さめの金槌の頭くらいはあるだろうか。日本のそこらじゅうにこんな大きな鳥が飛んでいるってのはなかなか不思議だ。

 カラスはカーとも鳴かず、飛びもせず、なぜかじっとこっちを見ている。自然と見つめ合う形になってしまった。

「カラスなのにガン飛ばすとはこれいかに」

 …………うん、一人でよかった。慣れないシャレなんて飛ばすもんじゃない。

 肩をすくめて再び歩き出そうとしたその時、カラスは音もなく、おおきく翼を広げた。沈む夕陽を背に負って、見事なシルエットをつくりだす。なんとなく、映画の冒頭に出る製作会社のロゴみたいだ。「クロウ・ピクチャーズ」とか。


 ドンッ、と。


 いきなり、衝撃が足元を揺らした。

 続いて右肩に信じられないほどの熱さが走る。地面を踏んでいる感覚がなくなって、ふわりと宙に浮く。どうも何かがぶつかってきたみたいだ、と妙に冷静に理解した。

 轟音が、轟音なのに、遠くに響く。

 鼻の先すれすれを鉄塊が——大型トラックが猛烈な勢いで横切り、左手の古い一軒家に突っ込んだ。塀ブロックがいくつも吹き飛んでゴヅッ、ゴヅッと地面を穿つ。この一つが肩に当たったのだろう。だとすれば、間違いなく骨は折れている。一生使えなくなったり、切り落とさなきゃいけなくなったりしないといいんだけど。

 左半身がザザザザとアスファルトに削られ、また焼かれるような熱さを覚えた。唸るような叫び声が聞こえる。

 目の前はゆっくりと霞んで、夕暮れの橙色は、なすすべもなくくらくなる。

 暗転してゆく景色の中で、あのカラスだけが、わたしを見下ろしていた。



 次に登校できたのは終業式の日だった。

 わたしの左脚には火傷のようなひどい引き攣れができ、右腕にはギプスがはまっている。利き手が左だったのは不幸中の幸いだ。そうでなければご飯も食べられなかっただろう。

 テスト期間中ずっと病院で過ごしていたので、夏休みの間に特別テストを受ける予定になっている。特にすることもない夏休みとはいえ、まだしばらく学校に来なければならないのは憂鬱だ。

 何度かお見舞いに来て花ともなかアイスをくれたゆびちゃんはといえば、わたしが教室に来るとたいそう喜んでくれた。いまは校長の長話が退屈なのだろう、前のほうで大あくびをしている。

 ——さて。

 水無月少女を見る。

 背はそう高くないので男子の列の真ん中あたりにいる。まっすぐに立つ後ろ姿が、今のわたしにはひどくうさん臭く感じられる。

 入院中、水無月少女に電話をした。しかし出るのはいつも母親で、水無月少女本人につながることは一度もなかった。不在であったり寝ていたり理由はさまざまだったが、水無月少女は明らかにわたしを避けている。彼はスマホを持っているはずだけれど、あいにくわたしは持っていないのでコンタクトをとることはできない。

 問い詰めるならば今日だ。

 もちろんあれはただの不運な事故だったかもしれない。けれどもわたしは鳥に関わった時に事故に巻き込まれた。もしかすると水無月少女はわたしが被害者になることを知っていたのかもしれない。もしくは——考えたくないことだが——あの事故になんらかの形で関わっているのかもしれない。

 終業式が終わりホームルームが終わると教室はすっかり夏休みの話で持ちきりになった。仲間内でのキャンプ、部活の夏合宿や大会、秋の文化祭の準備、みんなやることは多そうだ。友人が多く、バスケ部で、文化祭実行委員もしている水無月少女は周りからひっぱりまわされている。もちろんわたしの方は見向きもしない。

「夏墓やーい」

 席に座って水無月少女を睨んでいると、背後からちょいちょいと襟をひっぱられた。見なくてもわかる。数少ないもう一人の友人、文芸部の日暮読文ひぐらしよむふみだ。

「ゴーホーム。いまいそがしいの」

「こりゃあ冷たいねえ。せっかく快気祝いに面白い本でも貸してやろうと思ったのに」

「それより出られなかった分のノートを所望す」

「へいへい」

 直後ドサドサとノートが机の上に置かれた。今日は授業もないというのに。周りと足並みをそろえるのが下手だとよく言うわりには気の利くやつだ。

「で、夏墓もついに水無月ファンクラブ入りか?じーっと見ちゃって」

「言っとくけどわたしのタイプは脆弱な一般人でありながら地球の滅亡を阻止すべくボロボロになりながらも戦友を増やして危機的状況に挑むような平凡ソウルフルな男なの」

「相変わらずの少年漫画脳だな……」

「水無月くんとはちょっと話したいことがあるだけ。邪魔しないでよ」

「あいあい。ノート返すのは休み明けでいいから。お大事にな」

 ぴらぴらと手を振って去っていった。ちょっと冷たくしすぎたかもしれない。日暮の背中を見ると、まるでわたしが目を離したのを見計らったかのように水無月少女が立ち上がった。

「ちょっと職員室行ってくる」

 周りの友人らにそう告げて、足早に教室を出た。わたしも慌てて追う。まだ左足の皮膚が引き攣ってしまうので走るのは難しい。まかれてなるものかと必死にスピードをあげた。

 水無月少女は廊下をずんずんと進んで職員室に向かう。一階の廊下までくると生徒の姿はまばらになっていった。これなら話しかけられそうだ。

 水無月くん、と呼びかけようと口を開き——

「そうだ!」

 思わず足を止めてしまった。びっくりするほど大きな独りごとを言ったのは、誰でもない、水無月少女だった。

に忘れ物をしてたんだ」

 くるりと方向転換し、こちらに向かって歩いてくる。

 ぴしりと伸びた背筋。シワのない白シャツ。嫌味なほど端正な顔。いつもの水無月少女だ。けれどその目は、あの日の放課後と同じく、いやそれ以上に、泣きそうな目になっていた。まるで話しかけないでくれと懇願しているように。

 わたしは何も言えないまま、水無月少女とすれちがう。すれちがいざま、言われた。

「見えないなら行かなくていい」

 あとには、生徒たちの笑い声と先生のたしなめる声が織りなす平凡な喧騒だけが残る。

 左脚の傷跡が、ガーゼの下でずくずくと痛んだ。


 音楽室は4階のはずれにある。火曜と木曜にギター部、月曜と水曜にゆびちゃんもいる合唱部が使っているけれど、今日は終業式の日なので部活もなく、防音扉にはしっかりと鍵がかかっている。うちの学校に音楽準備室はないので、使いたければ一階の職員室まで行って鍵をもらわなければならない。

 そんな気はしていたけれど、水無月少女はいなかった。

 音楽室前に座り込む。歩き回ってどっと疲れた。病み上がりの体にずいぶん鞭打ってしまった。

 もう家に帰って日暮に借りたノートをうつそう。そう思うのに、気づくと水無月くんの意味深な言葉ばかり頭のなかをまわっている。「見えないなら」というのは「鳥が見えないなら」ということなのだろうか。

 やはり水無月くんを問い詰めればよかった。今日こそなにかヒントが貰えると思っていたのに。

 頭のなかを整理するためノートを取り出そうとカバンをあさると、なぜか鳥類図鑑が出てきた。わたしのものではない。まさか日暮の言っていた面白い本というのはこれのことだろうか。ゆびちゃんといい、どいつもこいつも鳥鳥鳥だ。

 カラスの項目を見てみる。くちばしの細いハシボソ、太いハシブト、体の大きいワタリガラス。嘴と足だけ色がちがうミヤマガラス。パンダみたいに白黒のコクマルガラス。

 あの時見たのはとても大きなカラスだったから、ワタリガラスだったのだろうか。だがよく読むとワタリガラスは北国周辺にしかいない。とすれば二番目に大きいハシブトだろう。日本にいちばんよくいるカラスらしい。

「……しょせんは鳥だけどね」

 2トントラックを住宅地に突っ込ませる力なんてないのだ。

 図鑑を閉じて廊下の窓の向こうの空を見上げる。雲ひとつない青空は、まさに夏休みといった景色だ。みんな今頃家に帰って冷房の効いた部屋でそうめんでもすすってる頃だろう。

「ばっからし」

 ぺんぺんスカートをはたいて立ち上がる。わたしは水無月少女のファンでもなければ正義の味方でもない。もちろん探偵でもない。ただ運悪くトラックにひかれかけたケガ人だ。推理ごっこをしていないで、さっさと特別テストの対策をしたほうがいい。

 そういえば社会のテストはいつだったか。もらった特別テストのプリントを取り出そうとまたカバンを漁ると、手元にちらりと影がおちた。

 窓の外になにかいる。

 そう大きなものじゃない。近づいて見てみると一匹の小さなツバメがとまっていた。例によって鳥なので一瞬びくりとしたけれど、青っぽい体と赤い顔は綺麗だし、まるい目をこちらに向けていてなかなかかわいい。

「たく、おどかさないでよねー」

 ふくれて文句を言うと燕はきゅっと首をかしげた。会話してるみたいでなかなか楽しい。わたしもゆびちゃんみたいに鳥を飼ってみてもいいかもしれない。

 けれど、その思いつきはすぐに霧散した。気づいてしまったからだ。

 が廊下の真ん中にいる。

 花嫁のドレスのようにたっぷりとひろがる白い尾。頭の上にぴょんととびでた羽毛。その色に見覚えはないけれど、形には覚えがある。孔雀くじゃく。これは、白い孔雀だ。

 起きていることをうまく認識できない。なぜ中学校の校舎に、白い孔雀がいる。動物園から逃げ出した?誰かのペットが持ち込まれた?野生の孔雀が迷い込んだ?

 その混乱に追い打ちをかけたのは、大きなフクロウだった。突然現れたそれはわたしの真上を音もなく飛んで、音楽室のプレートに鋭い鉤爪が生えた足でとまると、大きな目玉でこちらを見つめる。

 三羽の鳥に囲まれてわたしはすっかり言葉を失った。カバンを抱える力ばかり強くなっていく。いったいこれは、なんなのか。

「夏墓さんもか」

 いつの間にか、白孔雀の向こうに誰かが立っていた。

 男子みたいに短い髪と、すらりと高い背。飛堂ひどうさえだ。陸上部に所属する隣のクラスの女子。

 驚いていないところを見ると、この状況には彼女も一枚噛んでいるようだ。

「……これ、なに」

 やっとの思いで聞くと、飛堂冴は困ったようにポリポリと頭をかいて、助けを求めるように背後を見た。

 後ろにはもう二人いた。生徒会長の黒野灯子と隣のクラスの蓮見花恋はすみかれん

「あは、この子たちが見えるってことは霊感でもあるのかな。めっちゃ夏墓さんっぽーい」

 蓮見花恋が笑う。小さな顔にぱっちりした吊り目のいわゆる美少女だが、はっきり言って苦手だ。先生や男子相手にはかわいこぶるくせに、それ以外に対してはいちいち小馬鹿にしたような物言いをするところが気に食わない。

 かたや黒野灯子はいつも通り人好きする笑顔を浮かべて言う。

「夏墓さんもの?」

「え……うわっ!」

 黒野灯子が腕を差し出すと、背後にとまっていた梟がばさばさと羽を広げて一直線に飛び、腕にとまった。

「やっぱり見えてる!」

 嬉しそうにぎゅっと手を握られてもなにも言えない。頭の中がビックリはてなでいっぱいだ。この三人は鳥類愛好会でも作ってるんだろうか。

 だが「見えてる」ということは、もしかするとこの鳥たちは——。

「立ち話もなんだし入って入って。今日はちょっとだけどお菓子もあるの。腹が減ってはなんとやらっていうしね」

 黒野灯子はウキウキと持っていた鍵で防音扉を開け、わたしの背中を押した。熱気のこもった音楽室に三羽の鳥たちも入ってくる。窓を開けている様子もなかったのに、燕はいつの間に入ってきたのだろう。


 黒板の前に半円状に椅子を置くと、黒野灯子はでかでかとチョークでこう書いた。

『第三回 水無月くん報告会』

「へ?」

「というわけで、ようこそ水無月くんファンクラブへ!」

 ぱちぱちぱちーと一人楽しげに手を叩いている。てっきりこの鳥たちの話をしてくれると思ったのにヘンな方向に話がいってしまった。あとの二人に目を向けてもま黙っているばかりだ。

「いやそうじゃなくて……この鳥なんなの?」

「あー、やっぱりそうくるよね」

 うんうんとのんきにうなずく姿にイラっとする。こっちはさっきから訳のわからないことだらけで混乱しているのだ。わかることはさっさと教えてほしい。

「じゃあわかりやすいようまとめよっか」

 黒野灯子は報告会の字を消すと、三つのことを書き出した。

 一、鳥は周りの人に見えない。(理由は不明)

 二、黒野は梟。蓮見は白孔雀。飛堂は燕。一人につき一羽がついている。

 三、鳥はちょっと変わった力をくれる。

「エサはいらないしフンもしないから本物の鳥じゃないことは確かよ。いまわかってるのはこれくらいかな」

「え。他の人には相談してないわけ?」

「言うわけないでしょ。他の連中に見えないものが見えるなんて言ったら絶対に病院送りじゃない」

 蓮見花恋がさも当然というように言う。足元には白孔雀が寄り添うように座っていて、まるでマフィアの女みたいだ。

「私は、花恋の言うこともそうだし、相談しても打ち明けられた方が困ると思ったから言わないことにした。問題がないならひとまず黙っておいた方がいい」

 飛堂冴の言葉に黒野灯子もうんうんとうなずき、

「わたしも同じ考え。最初びっくりしたけどこの子すごく懐いてきてかわいいし、あんまり問題ないのよね。それでどうしようかと思ってたら、花恋ちゃんと冴ちゃんにも鳥がついてたから、ちょっと話し合ってみるしかないなって思って。そしたら、ふふ、なんと二人とも水無月くんの大ファンじゃない?これは運命だって思ってたまに集まってるの」

「大ファン?」

 飛堂冴はいつも無表情で男子どころか他人にまるで興味ない顔をしてるし、蓮見花恋は男子全員にいい顔をする。どちらも水無月くんにことさら熱を上げているようにはさっぱり見えなかったが——二人に目を向けると、思い切り目を逸らされた。どうやらマジらしい。おそるべし水無月パワー。

「……つまり鳥の正体はよくわかってないけど、今のところ問題ないからとりあえず水無月くんのファン同士なかよくしよー、ってこと?」

「そういうこと!」

 わかるようなわからないような、なんにせよ能天気な話だ。一言申したいところではあるが、とりあえず聞いておかなければならないことを聞くことにした。

「じゃあ、変わった力ってのは何なの?」

 わたしを見下ろしていたカラスの姿が頭をよぎる。もしかすると、2トントラックをどうこうできる力なんてものがあるのかもしれない。

 けれどその予測は簡単にくつがえされた。黒野灯子は「三人ともそれぞれ違うんだけどね」と前置きをし、

「やけに静かに動ける」

「静かに動ける?」

「そう。この子が現れてから、わたし足音がしないんだよね。走っても飛び跳ねても全然しないの」

 なんというかそれは、それは。

「…………地味だね」

「うん。すっごく地味なの」

 忍者とかスパイだったら役にたったんだろうけどなー、と笑う黒野灯子を見たら脱力感が襲ってきた。「力」と聞いて勝手に能力バトルものを考えてしまっていた自分が恥ずかしい。少年漫画脳め。

「あっあっでも花恋ちゃんと冴ちゃんはもうちょっとカッコイイから!そんながっかりしないで夏墓さん!」

「それよりさ、夏墓さんは何がついてるわけ。スズメ?ハト?」

 蓮見花恋のばっちりメイクされた目が、頭からつま先までジロジロとこちらを見る。言葉尻も態度もやたらめったら高圧的だ。

「わたしは別になんの鳥もついてきてないよ。たまたま見えただけ」

「なーんだ」

 正直に言うと思いっきり鼻で笑われた。

「仲間でもなんでもないじゃん。全然違うわ、夏墓さんは」

 ……あーもういちいち上からで腹立つなこいつー!!

 引き攣りそうになる顔をなんとか抑えて「ハハ、ソウダネ」と無難な返事をしておく。昔よりはブチ切れ癖がなおってるようで良かった。

「これから夏墓の鳥が来るのかもしれない。私も、見えてしばらくしてから瑠璃がついてきてくれるようになったよ」

 飛堂冴が険悪なムードをなだめるように言う。瑠璃というのは燕のことだろう。名前通り瑠璃色の燕は飛堂冴の肩から頭を楽しそうに行き来している。小さいながら鋭いフォルムは、手足の長い飛堂冴によく似合う。

「そうね。いずれにせよ夏墓さんはわたしたちの秘密を知ってしまったのだから、ここから生かして帰せないわっ!」

「……そういうノリなの?」

「の、能力者モノみたいな感じで言ってみたかったの!」

 黒野灯子は優等生な印象が強かったのだが、案外話しやすいやつだ。分けへだてないというか、生徒会長に選ばれるほどではある。

「あーでもやっぱり……このことはみんなに黙っててもらえると嬉しいな。いいかな?」

「もちろん。言いふらしたっていいこともないし。それこそ病院送りになるかもしれないわけだし?」

 蓮見花恋はこちらを見ようともしない。たいどわる。

「よかったー!それじゃ夏墓さんの入会に乾杯……はできないから、はい、チョコ食べてって。それで、水無月くん報告会が終わったらみんなで帰ろ?」

 昼時も近いのでチョコはありがたくもらった。ファンクラブに入会する気はないけれど、水無月くん報告会なるものがどんなことをしているのかも興味があったので、端っこで参加させてもらうことにした。こういう女子の集いみたいなものに出るのは小学生以来だ。

「じゃあわたしから。今月の水無月くん報告ね」

 黒野灯子は分厚い手帳を広げると、チョークを片手に、坦々と読み上げながら報告事項を書き出した。

「6月21日。登校時に1年2組の牧村果音が水無月くんに馴れ馴れしく話しかけていたので即時。6月22日。水泳の授業中に2年3組の相川雅が水着姿をスマホで隠し撮り。即没収し。同日、滝野楽多がまた攻撃的な態度をとっていたから指導。6月25日。校門前にて北野江高校の本宮遥が二回目の待ち伏せ。これには水無月くんもかなり困ったみたいだから、警告しておいた。再発を防げるよういい案があったら出してほしいな」

「そいつ絶対また来るでしょ。何か起きてからじゃまずいから先に処罰しといたほうがいいって」

「またやるのか」

「嫌なの?冴は水無月くんになんかあったらって思わないわけ?」

「……心配ではある」

「じゃあ早めに動いた方がいいに決まってるでしょ」

「できるだけ荒立てないように、なら。水無月も自分のせいで揉め事があるのは嫌だろう」

「じゃ、はあとで考えましょ。続けて灯子」

 カッカッカッ。軽快に文字が書かれていく。

 ストーキング。盗撮。威圧的な告白。セクハラ。男子からの暴言。暴力。それに対する指導。厳重注意。警告。処罰。

「7月3日。数学の竹中が必要以上に体に触る。これは留保なしでPTAに広がるようにしておいた。ついでに教頭にも告げ口してある」

「やっぱ生徒会長は頼りになるねぇ」

 ゆびちゃんとのやりとりを思い出す。水無月少女に下手に話しかけると、うわばきに大量の木工ボンドを入れられる。

 それくらいならいい。全然マシだ。

「7月3日」

 ドキリとした。わたしが水無月くんに話しかけられた日だ。

「放課後、二人きりで2年3組の……ああこれ、夏墓さんか」

 黒野灯子はにこりと笑う。背筋が震えた。

「水無月くんから話しかけていたようなので問題無し。ただ、あんまり不必要に近づくと指導対象になるから、気をつけてね?」

 さらりと言うと、「7月5日」と次の事項にうつった。けれどピアノの上のフクロウがじっとこちらを見ている気がする。

 黒野灯子は音もなく動ける。

 ——あとの二人はなにができる?

 もらったチョコはいつの間にか、握りしめた手の中でドロドロに溶けていた。




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鳥籠少女目録 影山間 @kagecage

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