第4話



あるとき呼びかけに応じて来たのは、若い女の子だった。待ち合わせ場所に行くと、シャツにスカートに革靴という学生服姿で、派手な原色のキャリーバッグを引いている。僕はそれを指差し、


「荷物多くない?」と訊ねた。


「お姉ちゃんちに泊まりに行く」


そう返ってきた。学生服のまま?まさかキャリーバッグで登校していたはずはないだろう。明日登校するために学生服が必要だったのだろうか。いずれにせよ、先にそのお姉ちゃんちに行って、荷物置いてこようとはならなかったみたいだ。邪魔にならないのだろうか。ただでさえ女はどこへ行くにも重さ数キロの不必要にでかいバッグを抱えている。しかしこのキャリーバッグはそんなもんじゃない。旅行者のそれと言える。


「それ持ったまま移動するの?先に置いてくれば?」


「遠いから。あとお姉ちゃん帰ってくるの夜だし」


ああ、そうだよな。重い荷物を引きずるのが好きなわけではなく、それなりの事情があるんだよな。そのお姉ちゃんが帰ってくるまでの間が暇だから、今この場に来たというわけか。他人の事情なんかどうでもいい。僕自身、大した理由があってここにいるわけじゃない。


「でも」


「なに?」


「近くに置くところあるかな。コインロッカーとか」


やはりキャリーバッグを引いて移動するのは本意ではなかったようだ。しかしコインロッカーと言ったって、駅にあるようなサイズだとキャリーバッグは入らない。この近くにキャリーバッグを預けられるような、そんな都合のいい場所はあるだろうか。そもそも街なかでキャリーバッグを預けられるような場所って?


「思いつかない。強いて言えば、うちとか」


他に思い当たる場所がなかった。検索して調べればあったのかもしれないが、そんなことは自分でやればいい。


「家近いの」


「歩いて10分ぐらいかな」


「わかった」


僕と学生服の女の子は、一旦荷物を置くために僕の住むマンションへ行くことになった。彼女はキャリーバッグを引いて歩く。アスファルトの上でキャスターがゴロゴロと鳴る。何か話そうかと思ったが、キャリーバッグを引きながら歩くのに手間取っているようなので、僕はそのペースに合わせながら時折うしろを振り返り、自分の住むマンションを目指した。


マンションは半世紀ぐらい前に建てられた古い3階建てで、オートロックもエレベーターもない。当時はお金がかかっていたのか、壁や外装などはしっかりした造りにはなっているが、すでに色あせており、塗装を塗り直した形跡もない。外から見た印象は、廃墟とまでは言わないが、人が住む建物というよりも取り残されたオブジェのような風格がただよっている。こんなところに好んで住む人はいない。ただ家賃が安いから、僕のような学生やフリーター、その他よくわからない人が住んでいる。それでも部屋は余っているようで、マンション全体は閑散としている。あまり人に見せたり、人を連れてきたりするのに向いた家ではない。印象がよくない。大学に入ってからは友人もおらず、今まで来たのは引っ越しの時の親ぐらいだろうか。


「ここ」


そう言って僕らはマンションの前にある集合ポストを通り過ぎ、部屋の前へ向かった。さいわい一階に住んでいるから、でかいキャリーバッグを持って階段を上がる必要もない。ポケットから鍵を取り出し、鍵を開けてドアハンドルをひねる。中は真っ暗だ。中へ入り、玄関の電気をつける。後から彼女がキャリーバッグを引いて入ってきた。キャスターが段差を昇る音がすると、そのあとにドアが閉まった。


「疲れた。あがっていい」


と彼女が訊く。キャリーバッグを引いて歩いたためだろう。


「どうぞ」


僕は靴を脱いで廊下を奥に進み、部屋の電気をつける。彼女はキャリーバッグを持ち上げ部屋に入り、横向けに倒して置いた。部屋に誰か来るなんて予想していなかったから、服が散らかっている。僕は脱ぎ捨ててある服や靴下をまとめて洗面所の洗濯かごに入れ、部屋に戻り僕が普段使用している座椅子を彼女にすすめた。


「何か飲む?お茶かコーヒーかビールしかないけど」


廊下にある冷蔵庫を開けて訊ねた。彼女は座椅子に座って足を伸ばし、答えた。


「ビール」


僕は缶ビールを2つ持って廊下の扉を閉め、彼女が座る前のテーブルに一つ置いてベッドに座った。彼女はテーブルに置かれた缶ビールを手に取り、開けて少し口に含んだ。座椅子にもたれ、伸ばした足はテーブルの下に隠れている。僕も缶ビールを開けて飲んだ。


彼女はときどき缶に口をつけながら、どこを見るわけでもない表情をしている。どうやら僕が話しかけなければ何も言葉を発しないようだ。


「で、今からどうしようか。今からって言っても、飲み終えてからで構わないんだけど」


彼女は手に缶を持ったままこちらに視線を向けた。黒い髪がシャツの襟にかかっている。化粧っ気はないが、やや人工的なまつ毛がうかがえる。


「今から」


彼女は僕の言った言葉の意味を確かめるようにつぶやく。僕は自分にとってわかりきったことを説明する。


「つまり、どこへ行く?このあたりは喫茶店ぐらいしかないけど、駅前へ行けば食事をするところはあるし、お腹すいてる?」


彼女はビールの缶を口につけ、少し含むとテーブルに置いた。


「すいてない」


確かに、まだ夕食には早すぎる時間帯だ。ネットで人と会うときは、たいてい近くのファストフードかカフェに入って、てきとうに会話をしてその場で解散する。夜だとファミレスで食事をすることもあるけれど、今回のように自宅へ上げたのは初めてだ。


「じゃあ、どこか行きたいところはある?」


「いきたいところ」


僕の言った言葉を、ひとりごとのように反芻する。考えているのか、考えていないのかさえ判断がつかない。


「ここでいい」


考えるのも移動するのもめんどくさくなったということだろうか。


「ああ、そう。じゃあ、今日は何してたの?」


「学校行ってた」


僕は手に持ったビールをベッドの端に置いた。


「そっか。まさか学校帰りじゃないよね?」僕は部屋で横倒しになっているキャリーバッグに視線を向けた。


「違う。荷物取りに帰った」


「そうなんだ。そのとき着替えなかったの?」


彼女はテーブルの缶ビールをとって、口に含む。答える様子はない。僕は再び缶ビールを口に含み、飲み込んだ。


「このあたりに住んでるの?」


「少し、遠い」


彼女はゆっくりしたテンポで答える。僕はさらに中身のない質問を続けた。


「そっか。電車で来たの?」


「そう」


「お姉ちゃんの家に泊まるんだっけ。それ」


僕は横倒しになったキャリーバッグを指差した。彼女の視線はキャリーバッグに向いたが、そのあと缶ビールのあるテーブルの方へ向き直った。


僕の問いかけに対する返答はなかった。僕は彼女との対話をあきらめ、ベッドに背を倒した。暇をつぶすために、ネットを介して見ず知らずの人と会うのは初めてではない。いつもは場を保つために言葉を続けていたが、相手が望まないなら無理に話すこともない。誰かと話さなくとも、自分以外の誰かがこの場にいる。ただそれだけのことに、それなりの意味があるだろう。ずっと一人でいることが退屈で、ときどき人と会っているだけなんだから、会話をしなければいけないというわけでもない。外だとこうはいかないが、自宅なら許されるような気もする。


「あ、そのへんにあるものてきとうに触ってもいいから」


僕は自分の部屋で相手に自由を与え、自分も相手に気兼ねなく自由にできる状況を作った。気が向いたら僕からでも相手からでも、何か話すだろう。そして彼女からは相変わらず返事がなかった。彼女は座椅子にもたれたまま、ときどき缶ビールに口をつけ、うつろな表情をしている。彼女は一体何を考えているのだろう。どういうつもりで今回の呼びかけに応じて来たのだろう。部屋に来ることになったのは偶然でしかないが、移動するわけでもなく、ここで何か話す様子もない。見ず知らずの人の家に上がり込んで緊張している様子もない。それどころかむしろ、外で会ったときよりも落ち着いて見える。


姉の家に泊まりに行くと言ってるから、ただそれまでの時間つぶしなのかもしれない。だったら同じように過ごしている僕だって、人のことは言えない。この時間に何の意図も中身もない。ビールを飲んでいると、少しずつ酔いが回ってきた。ベッドの端から足を垂らし、布団の上に寝転んでいたら、そのまま眠ってしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夜の部屋 川添 @kawazoi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る