Moonlight Sky~朧月夜と桜花の宴~

「照りもせず曇りもはてぬ春の夜の」

 半分ほど日本酒の入った猪口に口をつけながら、色香の立ち上る声で歌うように彼女が言う。さぁっ……と生温い風が吹いて、彼女の透き通るような茶髪がそよそよと揺れた。

 その隣で、同じく持っていた猪口――こちらには、並々と日本酒が注がれている――に口をつけていた奴は、ゆっくりとそれを口元から離し、淡い笑みを浮かべながら続けるように言った。

「朧月夜にしくものぞなき――……か」

「何だそれ」

 紙コップに注がれたコーラをビニールの敷かれた地面にそっと置くと、俺は盛大に顔をしかめながら首を傾げた。

「あら、知らないの?」

「国語の授業で習わなかったのかよ」

 まるで珍しいものでも見るかのように、不思議そうな表情でこちらを見る彼女と、ハンッ、と俺を馬鹿にするかのごとく鼻で笑う奴。どちらによりイラッとしたなど、今更特筆するまでもないだろう。

「記憶にねぇな」

 そう言って奴を軽くあしらい、俺は彼女に問うてみる。

「その、照りもせず~っていうのは、いったい何なんですか?」

「短歌よ」

「いや、それくらい分かりますけど」

 困ったような顔を作れば、フフッ、と悪戯っぽい笑い声が返ってくる。

「それはごめんなさいね」

 さすがに馬鹿にしすぎたかしら、と小首を傾げられたので、そんなことないですよ、ととっさに否定する。

「こいつが馬鹿にしてくるのはもんの凄くうざいですけど、あなたは……そんな執拗に俺をからかったりとかは絶対にしないって、分かってますから」

「ずいぶん信用してんだなぁ」

 なぁ、と言いながら彼女にちらりと舐めるような視線を送ったあと、若干据わった半眼でこちらを見てくる奴は、もう早くも酔いが回っているのだろうか。立ち上がって蹴り飛ばすのもおっくうになって、とりあえず無視をする。奴の方もそんな扱いにはすでに慣れているらしく、小さく肩をすくめただけで特に何も言わなかった。

 そんな俺たちを見ながら可笑しそうに笑みを零した彼女は、「じゃあ、教えてあげるわ」と言いながら、猪口の中の日本酒をもう一口含んだ。

「さっきのは、大江おおえの千里ちさとという人が詠んだ句よ。源氏物語の『花宴はなのえん』という巻でも詠まれるわ。ちなみに、この巻に出てくる姫君――右大臣の六の君は、『しくものぞ』じゃなくて『似るものぞ』と詠んだのだけれど……まぁ、そちらの方が有名かしらね。意味は……」

「照りもしない、だからといって曇りもしない。そんな春の朧月夜に及ぶものはこの世にないだろうな……ってことだ。ほれ、見てみろ。今の空に出てる月が、まさにそうだよ」

 ほれ、と奴が指をさす先を見れば、そこには黄色っぽく丸い光が一つ浮かんでいた。その輪郭は絵の具がにじんだかのようにぼんやりと夜空に溶けていて、まるで現実味がない。

 その手前に見える桜の木は淡い光を受け、それ故にか知らないが、昼間に見るものよりもひどく幻想的に見える。普段の真っ暗な夜空からは想像できないほどの圧倒的な美しさに、思わず溜息が漏れた。

「綺麗でしょう」

 彼女の声が耳に届き、無意識にこくりとうなずく。

「すっかり、見惚れちまってるみたいだな」

 ハハッ、とからかうような笑い声を上げる奴の声に、反応しているほどの余裕すらもなかった。

 夜空にぼうっと浮かび上がる大木から、ひらり、ひらり、と数枚の花弁が零れ落ちる。昼間の青空の下で見るそれも踊り子のように華やかで綺麗だけれど、夜に見るそれにはまた違った妖艶さがあって、これもこれで悪くはないなと思った。

「夜桜の下で飲む酒も、なかなか乙なもんだ」

「そうね。……あら、」

 何かに気付いたように、彼女が弾むような声を上げる。気になってチラリとそちらに視線をやると、彼女と目が合う。ちょいちょい、と手招きされて、俺は彼女の方へとにじり寄った。奴もまた、同じように彼女の方へと近づく。

「お、これはまた……」

 彼女が持っていた猪口を覗いて、奴が楽しそうな声を上げる。

 同じように中を覗けば、透明な日本酒の中にぷかりと浮かぶ一枚の花弁と――それから、小さな月明かりが目に入った。

 彼女が遊ぶように猪口をゆらりと揺らせば、するりと花弁が僅かに移動する。同時に、浮かんでいた月明かりが水面の動きに合わせてその形を崩した。

「綺麗だ、な」

 小さく呟けば、「そうね」「そうだな」という同意の言葉がほぼ同時に返ってくる。

「夜桜の下で――それも朧月夜に、こうやってみんなで静かに日本酒を嗜む。これはこれで、いい夜だな」

「本当ね」

「お前の言っていた通りだ」

「そうでしょう」

 彼女がフフ、と今度は無邪気に笑う。その心の底から楽しそうな表情と、つられて笑った奴の笑顔に、俺も今夜くらいは絆されてやってもいいかな……という気分になった。

 曖昧な形に光るおぼろげな月を、もう一度見上げる。

「ねぇねぇ、」

 不意に俺を呼ぶ、甘えるような声がしたので、その景色を一瞬で目に焼き付けた後、「なんですか」と答えながら声の主――彼女を見た。

 徳利を揺らした彼女――酒のせいか、ほんのりと頬が染まっているように見える――は、こちらを見ながら悪戯っぽく笑っている。

「君は、飲まないの? せっかくいい夜なのに」

「俺は、ちょっと」

「こいつ、弱いんだよ。猪口一杯でもうノックアウト」

「うるさいな……まぁ、事実だけど」

「あら、そうなの? 残念ね」

「俺はコーラ飲むので、二人で楽しんでください」

「うーん、でもやっぱり勿体ないわ……あ、そうだ」

 名案を思い付いたとでもいうように、ニヤリ、と彼女が笑う。俺は背筋がゾクリとした。彼女がこの顔をするときは、決まって何かよからぬことを企んでいるときだ。

 奴も似たような気配を感じ取ったらしく、「ど、どうした?」とほんの少し表情を引きつらせながら彼女に尋ねる。彼女は「ふふん」と自慢げな笑い声を上げ、人差し指をピンと立てた。

「あのね、二人とも。『花宴』の巻では桜花おうかえん――つまり桜を愛でる宴と、藤花とうかの宴――藤を愛でる宴が行われているの」

「はぁ」

「今夜私たちは、桜花の宴をしているといえるわね」

「まぁ、そうですね」

「……ん? おい、お前まさか」

「そのまさかよ。今日は飲まなくても許してあげるけど……その代わり、今度は藤花の宴を開催しましょう。藤の花が綺麗に咲いてるところも、事前にリサーチしておかなくちゃね。原作では桜花の宴のひと月後だから、今年もそれくらいでいいかしら」

「いいけどお前、その頃日本に帰ってきてんのか?」

「そうですよ。明後日、また発つんでしょう」

 そう、彼女は世界各地を回って絵を描く旅をしている。ほとんどひとところにいる時間が短いので、今回こうやって会えているのも半ば奇跡のようなものなのだ。

 だが彼女は意に介さず、「大丈夫よ」とあっさり言ってのけた。

「どうせ自由気ままな旅だもの。出発の日も帰国の日も、私が勝手に決めていいの。だから心配しなくても、ちゃんとひと月後に帰ってくるわ」

 だから……ね?

 上目づかいで見上げられ、う゛、と思わずカエルの潰れたようなとんでもない声が漏れる。ね? と言われても、どういうことだか話がさっぱり見えてこない。何かよからぬことだろうということだけはかろうじて分かるけれど。

「あー、そういうことね」

 奴の方はもう彼女の言いたいことをすでに察したらしく、腕を組みながらうんうんとうなずいている。こっちに視線をよこしたかと思えば、何故か憐れむような目を向けられた。

「大丈夫だ……後処理は、俺がちゃんとやってやるから」

「何だそれ、どういう……」

「藤花の宴までに、鍛えとけっつーことだよ」

 とたんにサッと血の気が引く俺と、あー……と低く声を上げながら悩ましげに頭を抱える奴。

 そんな俺たち二人の気など一切知ろうともせず、彼女は我が意を得たりというようににっこりと笑った。

「ひと月後が楽しみだわ」

 刹那、俺の心情を代弁するかのごとく、奴が心の底から深い溜息を吐く。

「ホント……朧月夜みたいな女だな」

「どういうことだよ」

「源氏物語の朧月夜――つまりさっき言ってた六の君のことなんだけど、そいつって作中ヒロインの中で一番奔放な奴なんだ」

「なるほど、そういうことか。……確かに言えてるかも」

「二人とも、何を話しているの?」

「なんでもねぇよ」

「なんでもありません」

「……? 変な人たち」

 ――桜花の宴は、まだまだこれからだ。

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空色物語 @shion1327

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