Addition Story

Encounter Sky~香坂椛の出逢い~

 ある日の昼休み、わたしは彼女――朝倉李桜のいる屋上まで足を運んだ。

 教室にいないとき、彼女はほとんどの時間を屋上で過ごす。そういう日は、わたしも屋上へ向かい、一緒に昼休みを過ごすのだ。

 いつもの通り屋上に足を踏み入れると、連日より冷たい風がびゅうっ、と吹いて、わたしの制服と髪を横に流した。乱れた髪を押さえながら、空を見上げる。

 昨日の嵐にも似た悪天候がまだ尾を引いているのか、天気はあまりよくなかった。雨は降っていないが、太陽と清々しい青空は分厚い雲に隠れてしまっている。

 こんな日でも構わず、彼女はいつもの場所に居るのだろうか……?

 そう疑問に思ったものの、教室にいないのだからきっとここにいるのだろうと判断して、わたしは彼女がいつもいるはずのコンクリート製の小屋まで歩みを進めた。

 が……。

 その場所に李桜の姿はなく、代わりに一回り小さな影がわたしを見下ろしていた。近づいてよく見ると、その影はわたしより幼い、小学生ぐらいの男の子のものだった。

「ふぅん……君が、香坂椛か」

 コンクリート製の小屋からひらりと飛び降りると、わたしの全身を舐め回すように見つめながら、男の子はふてぶてしくそう言った。

 初対面で、しかもどう見ても年下の子に、そのような失礼な振る舞いを受けるとは思っていなかったわたしは思わずカチンとする。

 というか、彼はどうしてこんな場所にいるのか。ここは中学校の屋上なのに。明らかにうちの学校ではない制服――見たところ、近くの小学校のものだ――を身にまとったその子が、どうやって潜入したというのだろう。

「君は、誰」

 言いたいことは他にも色々あったけれど、わたしは思考を断ち切るように、ようやくそれだけを口にした。

 男の子は、小学生らしからぬ落ち着いた物腰で、クスリと笑う。その表情や仕草が、何故かわたしのよく知る誰かを連想させて、一瞬どきりとした。

 男の子はまるで気ままな野良猫のように目を細めると、愉悦を含んだ声で答えた。

「ボクの名前は、みきだよ。よろしくね、仔猫ちゃん」

「仔猫ちゃんって……」

 彼の口から出た、その呼び名に覚えがあって、わたしは思わず声を大きくした。「わかるかな?」と男の子――幹くんは笑う。

「ちなみにフルネームは、朝倉・・幹。ここまで言えば、君もちゃんと分かってくれるはずだと思うんだけど」

 朝倉という名字に、『仔猫ちゃん』というごく一部の人間しか知らないはずの呼称。彼女・・を連想させる、その綺麗な顔立ち。声変わり前のねっとりとしたアルトの声、落ち着いた仕草……。

 それらは、彼がわたしの友人である少女――つまり李桜と深い関係を持つ人間であるということを、如実に表していた。

 彼女には世界各国を旅する画家の姉がいると、前に本人が教えてくれたことがある。

 そしていつだったかにも確か、姉の他に小学生の弟がいるという話をしていたような……。

「君は」

「せっかく教えたんだから、名前で呼んでくれるかな?」

「……幹くんは、李桜の弟なの?」

 幹くんは、我が意を得たりというように、にぃっと笑った。……やっぱりこういう意地の悪い表情が、李桜とよく似ていると改めて思う。

「李桜姉が、世話になっているみたいだね。君のことはよく聞いているよ。李桜姉のお気に入りだっていう子――つまり君のことが、前からずっと気になっていたんだ」

「だから、わざわざここに来たの?」

「まぁ、そんなところだね。ボクも小学生といえ、他の人間の隙を見て動くというのは、なかなか大変だったよ。優月先生……だっけ。君たちの担任教師であるあの人に協力をお願いして、どうにかここまで無事に来られたのだけれど」

 わたしは思わず唖然とした。

 まったく、優月先生ときたら……破天荒というか、寛容というか。やはり彼は、どこまでも教師らしくない。そういう所が李桜にも、李桜のお姉さんにも、そして他の生徒たちにも、信頼されるゆえんなのかもしれない。

「今日李桜姉は朝から伏せってるから、代わりに君に会ってみようと思って。それで、ちょっと来てみたんだ」

 伏せっている、という言葉に、わたしは目を見開いた。どこにも姿がないと思ったら、学校自体を欠席していたのか。

「もしかして、風邪?」

「うん……ちょうど昨日、妃芽姉――上の姉が帰国してきたんだが、李桜姉が空港まで迎えに行ったんだ」

「昨日って確か、天気酷かったよね……気温も低かったし」

 建物内にいても分かるほどだった、昨日の酷い雨風を思い出しながらわたしが眉をひそめると、幹くんは「そうなんだよ」と僅かに頷いた。

「実際に妃芽姉が乗っていた便も、悪天候で到着が遅れたみたいだしね……それなのに李桜姉ったら、何の対策もして行かなかったから。天気予報はいつも欠かさずチェックしてる人なんだから、あぁなるってことは十分理解してたはずなのに。それぐらい――つまり傘を持っていくことも忘れるぐらい、妃芽姉と会うのが待ち遠しかったらしい」

 李桜らしいなぁ、とわたしは思った。

 お姉さんのことを話すとき、李桜はいつも空について語る時と同じくらい瞳を輝かせる。きっとお姉さんのことが大好きなんだろうなぁ……と、わたしはそのたびにいつも思っていたものだ。

 わたしはふふっ、と笑って、呟いた。

「ホント、李桜って馬鹿だなぁ」

 おや、と幹くんが驚いた声を出す。

「あの李桜姉に、そんなことを言うなんて……君ってやっぱり、李桜姉の友達なんだね」

「何を今更」

 澄まし顔で答えると、幹くんはハハハッ、と声を上げて笑った。

「面白いな、君。さすが李桜姉がリスペクトしているだけのことはある。……なかなか気に入ったよ」

「ありがとう……と、言うべきなのかしら?」

 どうにも腑に落ちなくて、不満げに首を傾げてみせる。幹くんはそんなわたしを見て、再び笑った。

「じゃあ、これから家に来るかい? 李桜姉の見舞いにも、行きたいだろう」

「いいの?」

「構わないさ。きっと李桜姉は、今頃機嫌がいいだろうから」

 それは、お姉さんが帰ってきたからということなのだろうか。

 少し疑問に思ったものの、すぐにそんな考えは打ち消してしまう。

「じゃあ、行こうか」

「えっ、今から? 学校は?」

「そんなこと、気にしなくていいさ」

 幹くんは屋上の出口へと、何のためらいもなく歩き出す。

 授業があるのに、サボって大丈夫だろうかというちょっとした焦りはもちろんあった。けれど、それよりもわたしの心を支配していたのは、ワクワクする気持ちと妙な緊張感で……。

 気づけばわたしの足は、幹くんの小さな後姿を追って走り出していた。

 いつの間にか雲の切れ間から覗いていた太陽の光が、わたしと幹くんの間に広がる濡れたコンクリートの地面を、一瞬だけキラリと照らした。


    ◆◆◆


『じゃあボクは、自室にいるから。あとは御友人同士、水入らずの時間を楽しんでくれたまえ』

 朝倉家にお邪魔し、李桜の部屋まで案内してくれた後、幹くんはそう言い残し、隣の自室へと籠ってしまった。学校はどうしたのだろうと思ったが、あえてその部分に関しては突っ込まないでおく。

 おおかた、姉の看病で休む、とでも報告してあるのだろう。頭の回転が早そうな幹くんならば、やりかねない。

 昼時ということもあって、家に他の家族は誰もいなかった。どこかに出掛けているのか、帰ってきているという李桜のお姉さんの姿もない。

 わたしは幾度か深呼吸をすると、コンコン、と目の前のドアを叩いた。すぐに反応するように、ドアの向こうからごそごそ、と音がする。

「李桜?」

 声を掛けると、ごほっ、という咳と、掠れた声が聞こえた。

「椛……? 来てくれたのかい」

 まぁ、入りなよ。

 そう促され、わたしは部屋のドアを開けた。

 落ち着いた色合いの家具が並んだ部屋は広く、片付いているというよりは単に物をほとんど置いていないだけらしかった。

 奥の方に置かれているモノトーンのベッドの上で、薄桃色のパジャマを着た李桜が上半身だけ起こし、焦点の定まらない目でこちらをぼんやりと見ている。汗ばんだ顔はほんのりと赤く、色素の薄い瞳は潤んでいた。

「すまないね、こんな格好で……。どこでも空いている場所に、好きに座ってくれていいよ」

「李桜、大丈夫?」

「うん……困ったことに、なかなか熱が下がらなくてね。明日も行けるかどうか、微妙なところなんだよ」

「寝てた方がいいよ」

「あぁ……」

 怠そうな表情で、彼女は再びベッドに横たわる。起きた時にはだけたらしい布団を掛け直してあげると、「ありがとう」と弱々しい声が返ってきた。

「ごめんね、いきなり押しかけちゃって」

「構わないよ。それにしても、よく私の家が分かったね。それに……私が風邪を引いていると、一体誰から聞いたんだい?」

「李桜の弟くんが来て、わざわざ教えてくれたの」

「なるほど。幹に、会ったんだね」

「うん」

 ふぅ、と李桜は息をついた。

「弟が、何かと失礼なことを言っただろう……アイツはあの通り、生意気な性格でね。一体、誰に似たんだか」

 李桜も似たようなものだ、と危うく口に出しかけたけれど、一応自重しておくことにする。落ち着いた性格の李桜のことだから、恐らくそんなことはしないだろうけれど……もし万が一、起き上がって反論でもされてしまったら堪らない。また熱が上がられても困ってしまう。

 わたしは苦笑しながら、李桜に差し入れのスポーツドリンクを差し出す。蓋を開けて口元に持っていってやると、こくこく、と飲み下す音がした。

 ぷは、とペットボトルを口から離すと、李桜は再び「ありがとう」と口にした。

「聞いたよ。昨日天気悪かったのに、傘も差さずにお姉さんを迎えに行ったんだって?」

 李桜は気まずそうに目を逸らした。

「姉が帰ってくると聞いて、いても立ってもいられなくてね……。それに、彼女から事前に嬉しい知らせを聞いていたし」

「嬉しい知らせ?」

「うん」

 こくり、と彼女は小さく頷いた。

「今、姉は家にいないだろう? 今頃はきっと、久々にどこかで彼ら・・と楽しんでいることだろう。……ようやく彼女が決心を固めてくれたみたいで、私も嬉しいんだよ」

 その言葉の意味はあまりよく分からなかったけれど、そう語る李桜の口元は嬉しそうに綻んでいたので、きっとそれほどまでに素敵な知らせだったのだろうということが、部外者であるはずのわたしにも十分伝わった。

 わたしも何だか嬉しくなり、李桜の笑顔につられて口元を緩めた。

「良かったね、李桜」

 わたしの言葉に安心したように微笑み、李桜はゆっくりと目を閉じる。そんな彼女の額にかかる髪をよけてあげると、わたしは買ってきた熱冷まし用のシートを額にぺたりと貼ってあげた。

「あぁ、気持ちがいいねぇ……」

 朦朧としながら、李桜が呟く。

「ねぇ、李桜」

「何だい?」

「迷惑じゃなければ、もう少しだけ、いてもいいかな」

 李桜は、こくりと頷いた。

「迷惑なんて。むしろいてくれた方が、私も安心できる……」

「よかった」

 その言葉を合図とするように、李桜は眠りに落ちていったらしい。間もなく、すぅ、すぅ、という小さくも穏やかな寝息が聞こえてきた。

「おやすみ、李桜」

 わたしは軽く布団を掛け直してあげると、彼女が眠るベッドの脇に身体を預け、荷物の中に入っていた本を開いたのだった。

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