第3話


「ごめんください! 和尚様ー! 開けてください!」


日曜日の早朝、美穂は実家近くの寺の門戸を激しく叩いた。


「何じゃ、騒々しい」


袈裟を着た坊主が嫌々戸を開けてくれた。年は五十代中頃、頭は剃ってあったが、白い口ひげを蓄えている。


じろじろと美穂を上から下まで眺め、顔をしかめる。


「どちら様ですかな」


「昔、近所に済んでた美穂だよ。覚えてないの?」


和尚は大きな目玉を上下させ、曖昧な笑みを浮かべた。まだ人物の特定が済んでいないようだ。それでも相手にしなければならないという苦労を察して欲しいという押しつけがましさが少なからずあった。


美穂は多少たじろぎつつも用向きを伝える。


「ちょっと困ったことがあって」


「まあ入りなさい。それにしても何だい、その格好」


美穂はすっぴんに、アディダスのジャージにランニングシューズという格好だった。東京から千葉まで一夜をかけて車を飛ばしたのだ。身なりに気を使う余裕はない。


「和尚を喜ばせても仕方ないじゃないですか。よく知った間柄だし」


「相談があるんだから、それなりの誠意ってものをねえ。おみやげでもあれば」


そう難癖をつけると思って、サービスエリアで饅頭を買っておいて正解であった。


品を受け取ってなお、お和尚はぶつぶつと不満を漏らしていたが、一応は話を聞いてくれることになった。


本堂の天井の隅に蜘蛛の巣が張っている。美穂は人選を誤ったかもしれないと後悔し始めていた。


和尚とは美穂が子供の頃、心霊写真のおたきあげをしてもらった縁がある。密かに頼りにして訪ねたのである。


「で、何だい、相談というのは」


「これを見てもらえますか」


無駄足にならないかと不安になりつつも、美穂は自分の携帯の写真フォルダーを見せた。和尚は渋い顔に嫌悪感をミックスさせた。


「何じゃ、こりゃあ。男の腕ばっかり。気色悪い」


美穂の写真フォルダこーには、男の二の腕ばかりが納められていた。太いのも細いのも、筋張ったのも彫り物が入り交じり、混沌としたコレクションを形成している。


「男の腕フェチなんですよ。気にしないで。大事なのはこれ」


とある一枚の写真をクローズアップする。そこには、何の変哲もない手の甲が写り込んでいる。血が乾いたばかりの小さい傷がある以外は平凡に見える。


「これは……、噛み跡か。動物の」


「変じゃありませんか?」


和尚は携帯を縦から横にしたが、芳しい顔はしない。


「この腕の持ち主、会社を一週間無断欠勤してるんです」


美穂が曰くありげに切り出すと、和尚は携帯を放り投げるように美穂に渡した。それから隣の部屋に引っ込んだ。


「はい、これ」


尻をかきながら戻ってきたお和尚から美穂に渡されたのは、古いラジカセだった。ところどころメッキが剥げている年代物だ。


「何すか、これ」


「般若心経が入ってる。これをその男に聞かせなさい」


美穂は半信半疑である。いかにも型にはまった怪談話の始末のつけようようではないか。よりエキセントリックな解決法を期待したが、これではあまりにおざなりすぎる。


「和尚が来てお払いしてくれるとかは」


「ない。だって遠いし。面倒じゃ。出張費かさむけどいいの?」


こうして頼って来たのにこの仕打ち。腐れ坊主が。喉元まででかかった言葉を飲み込む。


「猫に噛まれただけだろ。愛とかで何とかなる」


「愛じゃねえし。てゆうか猫ってわかるの? 何で?」


渡り廊下に逃げようとする和尚に詰め寄る。


「長年の勘って奴かな。そいつには、子供を生めずに亡くなった雌猫が憑いてる。雌には雌。じゃ、頑張れ」


美穂は納得いかずに立ちすくんだ。子供の頃から中途半端に霊感があるせいで、トラブルに巻き込まれてきた。

今回の場合、放置していても、自分に害はなさそうだ。


それでも名残惜しく携帯をのぞき込む癖は抜けない。あのインド料理店で撮影した写真が最期になるなんて考えもしなかった。


「でも良い形なんだよなぁ。特に骨のラインが」


美穂はあきらめが悪い。とりあえず、ラジカセを持って東京に戻ることにした。



 二


東京に戻るとそこそこ値段のする鰻屋に直行し、腹ごしらえをする。安くない出費だが、上手くいった暁には、先輩から取り立てることになるだろう。


午後、十六時。美穂は無断欠勤している先輩の住所へと直接向かった。既に当たりは暗くなっている。しかし外から見ても窓に明かりはついていない。


二階に角部屋の前に立ち、戸を叩く。反応なし。インターホンも同じく。


古いタイプの回転式のノブに触れると、少し生温かい。中に何かいる。よくない何かが。


鍵はかかっていない。音を立てないようにそっと手前に引き、室内に侵入した。


 「うんっぷ……」


美穂は鼻を押さえた。暗くて室内の様子はわからないが、生ゴミの臭いが充満している。


靴を脱ぎ、携帯の明かりを頼りに、室内へと踏み入る。フローリングの床はキャットフードの袋が散乱している。猫を飼っているという話は聞いていない。そもそもアパートにはペット禁止の張り紙があるのを見かけていた。


「ゴロゴロ……」


猫が喉を鳴らすような声が濃い闇のどこからか聞こえた。


美穂は左手のラジカセを持ち上げる。いつでも来いと構えた。


警戒を怠ったつもりはないが、部屋の隅にあったゴミ溜めから大きな影が飛び出してきた。


悲鳴を上げる間もなく、美穂は押し倒された。ラジカセも、携帯も手から離れて見えなくなった。


美穂に馬乗りになっているのは、男のようだ。鼻息荒く、美穂の首に顔を近づけているらしい。


「先輩……、何ですか? 私です、美穂です。黙って入ってきてすみません。でも心配になって」


男は息を荒くしているだけで、美穂の問いかけに応じようとしない。ただ事ではないのは部屋に入る前からわかっていたが、自分の手に負えるのか不安になってきた。


 「こら、いけません!」


電気のスイッチが唐突に部屋を照らした。美穂は目をつぶり、網膜にかかる刺激を避けた。


目を開けるとのしかかる男の姿がない。代わりにゴミの山の上に立っていたのは、着物姿の美しい女だ。さっきの制止の声の主は彼女らしい。


「貴女は誰? 先輩の部屋で何してるの?」


 恐る恐る美穂が訊ねると女は、憂鬱そうにため息をついた。ああ、見つかってしまったという諦めが見て取れた。


「あちきは、白。有り体に言えば化け猫でありんす」


和尚の言っていたことは本当だった。ラジカセを手元に引き寄せる。


「貴女様は、ご主人様とどういったご関係でしょう」


いたってしとやかに、白は美穂に訊ねる。これだけ実体を露わにした怪異は初めてとあって、美穂は緊張した。


「わ、私は、ど、ど、ど」


「もしかして、恋人様でいらっしゃいますか」


この白という妖怪は勘違いをしている。しかも今にも泣き出しそうな顔で、両拳を握っていた。そういうことかと美穂は全てを合点した。子供を産めなかった雌猫。同情しないと言えば嘘になる。しかし、一人の男の生活を破壊し、美穂の獲物を横取りした泥棒猫という見方もできる。


「そ、そうですよね。ご主人様も健全な雄なら手近な雌をつまみ食いしても不思議はありません」


「ちょっと誤解があるみたいね」


白と美穂はゴミを片づけ、スペースを作ると正座して対面した。事情を説明し、お互いの立場を明らかにする。


「まあ、貴女様が美穂様! ご主人様がよく私にお話してくださいました」


事情を聞くと、白は美穂の話を男から聞いてうらやましくなったそうだ。そして催眠術を用い、男を猫へと変えたのだ。


「本当はいけないことだってわかってるんです。でもつい、魔が差して」


白は頬を染めながら、ご主人だった男のむき出しの尻をつねっていた。男は段ボールに頭を突っ込み、震えている。明るい所が苦手のようだ。


「つがいでも何でもいいんじゃない。私は別にいいけど」


美穂のお許しが出たので、白の無垢なる頬に一瞬だけ光が差す。


「その代わりといっては何だけど」


美穂は台所の下の収納を漁る。包丁を見つけて、にっこりほほえむ。


「そいつの片腕が欲しいの。右手、左手どっちでもいいわ。ああ、鋸の方がいいか。あんた知らない?」


白は血の気を失い、可哀想なほど震えていた。


「え、え、う、腕でございますか。何故」


「私、腕フェチでさー。そいつの腕が好みにドンピシャなんだわ。どうせ失踪するんでしょ。なら腕の一本や二本、ちょーだい」


未知の恐怖に耐えられなくなった白は土下座し、一目散に部屋の入り口に殺到する。


「ごめんなしゃいごめんなしゃいひとのものに手をつけたりしましぇん、ゆるしてくださいー」


白が消え、扉が閉まると、美穂は鼻で笑い飛ばした。


「ちょろい」


般若心経を大音量でラジカセで流し、男の尻を一度びたんと叩くと、寝転がって漫画を読み始めた。


携帯に高校の同級生からのラインが届いている。同窓会の誘いだ。


美穂は苦しそうに泡を吹き、のたうち回る男の腕を頭で押さえ、枕代わりにした。伝家の宝刀、腕枕である。


快適さを味わいながら、同窓会の誘いを断る旨を通知した。近場に丁度いい物件があるのに他の餌場を荒らす必要もないためだ。


「なるほど、腕はああいう風に使うのですね。切り取ろうとするほど惜しむとは、どんな神通力があるかわかったものじゃありんせん」


白は子猫の姿になり、ゴミの中に潜んでいた。白は他人と一緒に寝る時、恥ずかしがって肌に触れさせないようにしてきた。しかしそれでは雄の心を掴むには足りないとこの時気づいた。


「腕枕なら貞操に関わりありません。これを実行するべし」


白はさっそくその夜から、若い男の布団にもぐりこみ、腕を拝借しては頭を乗っけてみた。しかし中々好みの感触は得られない。


被害者は、若干の腕の痺れと引き替えに美女と一夜を過ごす特権を得た。


これが妖怪ソイネコの誕生話。


その後、白は、最初の男の腕の感触が気になって延々と添い寝を繰り返したそうな。


その腕の主の行方は、ようとして知れない。腕ごと剥製となったか、あるいは猫のように子をもうけたか、まあそんなところだろう。




(了)




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ソイネコ 濱野乱 @h2o

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