第2話



どこで昼食を取るか、二人はエレベーターの中で談議したが、予期せぬ事態の進展に男の提案は覚束ない。美穂ちゃんは卒なく主導権を握る。


「あーそれなら」


美穂ちゃんが良い店を知っていると言うので案内に従う。上下関係が存在しないかのように彼女が振る舞うのは今日に始まったことではない。酔うと先輩であろうとタメ口になるし、分け隔てないと言えば聞こえはいいが、あけっぴろげでもある。そこが彼女の美点でもあり欠点でもあった。


美穂ちゃんは、丸顔で童顔。メイクは派手すぎず流行を押さえたものだった。身なりはこぎれいで、どこにでもいそうな、かといって男を退屈させない目配せや物腰は堂々として魅力的だった。


彼女は千葉の生まれらしい。都会に染まろうとネイルの写真をSNSにアップしているのを男は知っている。男も上京してきた過去があるから勝手なシンパシーを抱いている。


美穂ちゃんに連れて行かれたのは、徒歩数分の会社の向かいにあるインド料理店だった。くどいほどのカレーの臭気と独特の店構えは常日頃から目に入っていたものの、冒険心に欠ける男はこれまで足を向けるのをためらっていた。



入店するとすぐに幾分あつかましい感じのするインド人のおばさんが出てきて席に案内してくれた。


「え? 初めて来たんですか? もったいないですよぉー。ここ美味しいのに」


ランチの店も満足に決められず、先輩の沽券はもはや地に落ちたようなものだった。しかし、職場で高嶺の花の美穂ちゃんからお誘いを受けたのも初めてということもあり、男の舞い上がりは尋常ではない。今にも狭い店内を飛び出し、叫び出したい衝動に駆られた。


美穂ちゃんは天真爛漫に語尾を伸ばしつつ、スマホのカメラに運ばれてきた料理を収める。


「あ、先輩、ストップ。腕動かさないでもらえます?」


男はギクシャクとテーブルの上の腕を曲げる。


「だーもう、動かさないで下さいってば。先輩、腕だけならイケメンなんだから活用しないと損ですよ」


男は、イケメンという単語に過剰に反応し、テーブルに足をぶつけた。痛みは脳内物質によりぼかされ、気持ちの悪い笑みを隠そうともしない。


「私、現代の何でもかんでも揚げ足を取る風潮が嫌いなんです。良い所は褒め合わないと。ね? 先輩」


そう言って、美穂ちゃんは先輩である男の腕をなれなれしく叩く。彼女にかかれば大抵の男の威厳など何の役にも立たなかった。


「それはそうと、今日の先輩いつもと違いますよね」


「そ、そうかな。どのあたりが」


美穂ちゃんはスマホに目を落としながら、ぞんざいに答える。


「そーですねー、0.75倍イケてるかな」


美穂ちゃんにおだてられたと思った男は料理に手をつけず、その視線は宙をさまようばかりであった。


美穂ちゃんが美味しそうにカレーを飲み下す姿も目に入らない。


食後にナプキンを口に当てた美穂ちゃんが、あることに気づく。焦ったように忙しなく席を立った。


「あ、すみません。先輩。私、職場に財布置いてきちゃいました。お会計払っといてもらえます?」


「オレニマカセロー」


魂を抜かれたように椅子にだらりと座る先輩を置いて、店の外に出た美穂ちゃんは薄紅色の唇を歪める。


「あの人、鼻毛出てたし、残念過ぎでしょ。あーあ、腕だけは好みなんだけどな」


美穂ちゃんは腕フェチで、上腕二頭筋が好物だ。高校時代の彼氏の腕に辛抱たまらず噛みついてしまったこともある。


「美穂って食人鬼の生まれ変わりなんじゃね? いつかお前に食われる気がする」


そう告げられ別れた彼は高校を出ててすぐ大工になったらしい。地元の友人に聞いた。昔よりたくましく育っているだろう。同窓会が待ち遠しくてならない。


だが、大事なのは今だ。目下、会社のうだつの上がらないあの先輩の方が気になる。


仕事中も、あの腕に腕枕されたらどうしようかと妄想に耽ることが多い。


手首も太すぎず細すぎず、鍛えているとは思えないが、シャツの袖からチラリと覗く浅黒い肌に心奪われてしまう。


これは恋? いいや、きっと違う。それでも我慢しきれなくなり、ランチに誘い出した。彼女が行動に出たのには理由がある。


昨日まで、冴えなかった先輩に変化があった。


洒落たネクタイに、アイロンのかかったシャツ。靴もピカピカに磨き上げられていた。


この兆候はまさしく別の女が絡んでいると美穂ちゃんは睨む。探りを入れようとしたが、プライドが邪魔して予定より早く店を出てしまった。


二人連れのサラリーマンとすれ違う。二人の腕には高級時計が巻かれていたが、美穂ちゃんが注視するのは人体のパーツのみ。


「ちっ……、腕細いんだよ。ジム行って鍛えろ。ボケが」



美穂ちゃんとのランチは一度切りの夢だった。美穂ちゃんの方は乗り気だったが、男の方にいよいよ隙がなくなったのである。


男は連日、会社の飲み会を断り、いそいそと帰宅するようになった。


仕事はてきぱきこなすものの、それ以外の会話は上の空だった。同僚たちは心証を害されたが、それ以上に彼の変貌を案じていた。


「おかえりなさませ、ご主人様」


男をアパートの部屋の入り口で三つ指ついてお出迎えしてくれるのは、浮き世離れした美女だった。翡翠色の瞳をして、白い紗が細い体を覆っている。


「お風呂にしますか? キャットフードにしますか? それとも毛繕いにしますか?」


男は白の足下にしゃがむ。胸の前に右腕を持ってきて、媚びるように答える。


「毛繕いにゃ」


何ということであろう。男はアパートに一歩入った途端、人としての所作を忘れたように四つ足で床を歩きだしたのだ。


「ご主人様。ご主人様は良い猫になってきましたね。その調子ですよ」


 白は、ご主人様だった男を見下ろし、猫じゃらしを振って上げた。男は嬉しそうに前足を伸ばす。


原因は三日前、恒例となった添い寝をしていた時に遡る。


「もう限界だー!」


男はうなされたように布団をはねのけた。


 「何ですか……、寒い」


白は着物の襟を直しつつ、不平を言った。


「こんな生殺しあんまりだ」


男が拾った猫は白と名乗る美女に変身し、毎日布団に潜り込んでくる。猫とはいえ、うら若き肢体を毎夜ちらつかされ、それに触れてくれるなとは、非情という他ない。


「前にもお断りしたと思いますが、あちきは身持ちの固い女。番になる雄は、猫と決めておりやす。人間の雄とでは釣り合いませぬ」


身分の差を煽るように、白は袖で顔を覆う。男はむしゃぶりつくように白の前に体を投げ出す。現金なものだ。もはや美穂ちゃんのことなど頭の外にある。袖触れ合うのも多少の縁と言うが、肌を重ねたことで情が伝染するのは自然の摂理という他なし。


異様な熱気を帯びた目で男は白のうっすら香を放つ首筋や、しとどに投げ出さたふくらはぎを見つめる。


「どうしても駄目か?」


「はい、でも……」


恥ずかしそうに顔を伏せ、言いよどむ白に魅せられた男は、より深みにはまっていく。


「でも何だ?」


「どうしてもとおっしゃるなら、一つだけ方法が」


白が突きつけた条件は、男が人であることをやめることだった。男は躊躇したが、白のだめ押しが強烈過ぎた。


「雌猫は子供をたくさん孕むんですよ。見たくありませんか? 私とご主人様の子。きっと愛い子に決まってます」 


男は自分の腹を愛おしそうに撫でる白に釘付けになった。


「教えてくれ! 何でもする」


懇願する男に、白は猫になるための全てを体に教え込んだ。つまり寝食全て、トイレに至るまで猫になるまで徹底的に躾を施したのである。


砂のまかれた長方形のトレーが部屋のすみに置かれている。


「毛繕いの前にトイレトレーニングしましょうか」


仕事から帰宅した男のズボンと下着を脱がし、トレーの前まで歩かせる。


トレーを男の股の下に置くと、男はカエルのように足を曲げ、尻を震わせ始めた。


白は男の尻の真後ろにしゃがみ、蛇口から勢いよく溢れる黄金水をじっと眺めた。


「一杯出ますね。もう人間のトイレは出来ないのでしょうね。見ててあげますから心おきなくどうぞ」


やさしく包み込むように言いながら、片時も目を離さない。


一分近くの長い放尿が終わると、ティッシュで男の蛇口をさっと拭き取る。


 「さ、お布団で毛繕いしてあげますからね」


嬉しそうに尻を振る男を、白は布団に横たえる。自分の膝の上に男の頭を乗せて慈しむ。


かように男を動物に堕するのはたやすいのである。良い子は真似しないように。



 


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