ソイネコ

濱野乱

第1話






男がその不思議な猫に出会ったのは、師走の初め、空気の澄んだ早朝のことだった。


アパートの階段裏に、白い子猫が打ち捨てられていた。つぶさに観察すると、ふんわりとした毛並みの上に西洋人形のような美しい青い目をしていた。


あたら子猫に気づいた男だったが、鼻頭に皺を寄せるばかりで、近づこうともしない。動物が嫌いで、特に猫は昔から大の苦手だった。


子供の頃、手を引っかかれ菌が入ったのだろう。膿んでしまい、その痕が二十数年経った今でも手の甲に残っている。


子猫といえども忌々しい存在を意識の外に締め出すと、男は会社に向けて大股で歩き出した。


ホームに群がる煙るような人だかりが目に染みる。


満員電車内で体を押しつぶされ、誰一人文句を言わず死んだ目をしている。この生活に比べれば、猫の気ままな生活の方が幾分ましなのかもしれない。


電車を降り、スーツの皺を直してから勤めている会社のある雑居ビルに向かった。そこは従業員数二十四名の教材を扱う小さな会社だ。彼は入社三年目だけれども、要領が良いわけではなく残業をすることも珍しくなかった。同期には差をつけられ、後輩から軽んじられても、それでも彼は笑顔を絶やさなかった。笑顔だけが彼の取り柄だったのだ。


その日は比較的、好調なことが相次いだ。事務員の美穂ちゃんと目があったし、上司に怒られたの回数が二回ですんだ。


疲れで朦朧とした頭を振りながら、終電に乗ったまではよかった。


アパートに帰宅した彼は、あるものに瞠目する。


今朝の猫がアパートの階段下、つまり今朝と同じ場所にうずくまって震えている。


アパートの住人は揃って薄情で、猫の生活に介入しようという慈善心は持ち合わせていないらしい。


仮にこの猫がこのまま夜を明かしたとして、寒さに耐え切れるだろうか。


彼の罪悪感につけ込むように、猫がか弱い声で喉を鳴らした。


縋り付くような鳴き方に、男の足が重くなる。元来彼は優柔不断な性格だった。階段を上ったり下りたりを繰り返し、猫の元に滑り込む。


「ええい、仕方ない。今晩だけだからな」


誰に言うでもなく温情を発揮すると、猫の脇に手を入れる。目線まで持ち上げてみて、その軽さに眩暈がした。


何と軽いのだろう。生を受けて一度でもまともな食事にありつけたことがあるのだろうか。そんな想像を苦もなくさせる臓物の薄い頼りない体であった。


一大決心をした彼であったが、録に自炊もしない男の生活などたかがしれている。猫の空腹を満たすための食糧すらままならなかった。


もつれるような足取りで、アパートを出て、深夜のコンビニで猫の餌を購入した。


これでやっと負い目から解放される。ところが、彼の受難は続いた。


否、それは始まりであった。意気揚々とアパートのドアを開けて卒倒しそうになった。


「お帰りなさいませ、ご主人さま」


えもいわれぬ美しい女が正座したまま男を出迎えてくれた。光を反射する白銀の髪に鳶色の瞳、襟元を着崩した白い襦袢姿に目を奪われる。


しばし、茫然自失となっていた男であったが、女の薄くひいた紅の口許が弧を描くと、正体を取り戻す。


「だ、誰だ」


「あちきは……、そうですねえ」


女ははぐらかすようなあくびをして、時計を見上げてから布団に潜り込む。男のいない間に敷いたようだ。


「お疲れでしょう。とりあえず、こちらへおいでませ」


女が主人を迎え入れるような手つきで掛け布団の裾を捲り、男を誘う。滑らかで慣れた風だったものの、それが礼儀と心得ているらしい所作だった。


男は律儀にスーツをハンガーに掛けてから、電気を消して女の言われるままになった。そうすることが、自然な成り行きのような気がしたのだ。決して意志が弱いわけではない。


布団の中は女の匂いが充満していた。脳が融解しそうになるほどの甘い香りだ。女の顔が皓皓と輝いて見える。


「まずはお礼を。寒い所を拾い上げて頂きましてありがとうございました」


身に覚えのない感謝をされ、男は腑に落ちない。部屋を間違えたのだろうか。しかしここは間違いなく彼の部屋である。三日前に食べたカップヌードの空き容器が残っていた。


「悪いけど本当にわからない。人違いじゃないかな」


「いえいえ、確かに私はあなた様に拾われたのです。大事に大事に抱きしめられながらここまで上がって来ました」


この部屋に招き入れたのは、一匹の猫だけだ。猫は人語を喋ったりはしないし、そもそも同じ布団にいる女性が、猫のはずがない。


そこまで考えて、彼は顔から火が出そうなほど恥ずかしくなった。名前も知らない女と肌を寄せ合い、会話しているのが冗談のような気がしてきた。まるで少年の日に戻ったかのように、羞恥に心を奪われる。


「あちきは、白。ハクと、お呼び下さい」


はしゃぐように名乗り、狭い布団を蠢くものだから男のあっちこっちにぶつかった。


「あ、ごめんなさい。ご主人さま」


「い、いいから、そのご主人さまっていうのやめてくれないか。フェミニズムの観点から言ってもね」


「ハクは、難しいことはわかりません。ご主人さまはご主人さまです」


屈託ない女の言い分に押し切られ、有耶無耶になってしまった。


ハクと名乗った女は、男の顔をじっと見つめた。男の方が耐えきれなくなり視線を逸らす。情けないことに男は雄としての本能に欠けていたようである。


「やはりご主人さまは、あちきが見込んだ通りの殿方でありんす。拾われた身分でありながらお願いしたいことがあります」


「な、なんだ」


「ご主人さま、私はこう見えて身持ちの固い女でして、同衾するのはつがいの雄だけと心に決めておりました」


白が尖った爪で男の胸を掻いた。痛みと、痒みの中間といった塩梅だ。


「でも白は、ご主人さまのつがいにはなれません。ご主人さまはヒトであって、ネコではないのですから」


ハクが甘ったるく息を吐く。男は背骨を反らせて悶絶した。


その様を堪能するように白は、目を細めた。


「ですから、あちきに触れてはなりません。ヒトに話してもいけません。どうかひと夜の間違いだったと思って、堪忍してくりゃんせ」


懇願なのか、男の覚悟をはかっているのか白の真意はわからず仕舞いだったが、仕事の疲れもあり男の意識は朦朧となってきた。


「おやすみなしゃい、ご主人さま。よい眠りを」



朝、男の歩みは以前とは打って変わり、快調だった。ビジネスシューズが軽い軽い。


「おはようございます!」


職場に入るや、部屋の隅々に至るまで聞こえるような声で挨拶をした。


同僚たちは苦笑いで彼の変貌ぶりを眺める。


昨日までの遠慮がちな彼の面影は何処にもない。


その異変を殊更重く受け止めたのは、事務員の美穂ちゃんだった。入社、二年目である。


「先輩、お昼一緒してもいいですか」


どよめく職場。社会人にラブコメは不要とばかりに、年かさの女性経理が大きく咳ばらいをした。




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