オレンジジュース

近藤近道

オレンジジュース

 ヒイが夜に外出すれば、行き先は私の家だって彼の母は知っている。

 最近では土産なんて持たされている始末だ。

 コンビニのビニール袋に入れられたみかんを一つ私に差し出して、

「食べる?」と彼は聞いてくる。

 ベッドに座って布団に包まった私は右手を伸ばして、みかんを乗せてもらう。

 彼の細い指が綺麗だった。

 私はみかんを持った手を引っ込めて布団の中で、なるべくベッドが汚れないようゆっくり皮をむく。

 ヒイは自分の分のみかんを取って、ビニール袋は丸いラグマットに放り投げた。中にはまだみかんがあるみたいで、袋は綺麗にラグマットの真ん中に落ちる。

 私の隣に腰掛けたヒイはみかんを食べ始めた。私もついばむように布団の中から右手を出して一粒ずつ食べる。

 私の両親も彼の母も、どういうわけか婚約した子供を見るみたいに私たちの異性交遊を歓迎している。

 だけど私たちは親が思っているように発情期のただ中にいるわけじゃない。

 私たちが生きているのは間延びした思春期の中だろう。

 いつだか二人でいる時にヒイが言っていたけれど、思春期は春季発動機とも言うらしい。

 シュンキハツドウキ。

 横書きで書かれた片仮名を思わせるような、すっきりしない長さのその言い方。好きじゃないけれど、思春期なんて甘味料に漬けられた言い方とは違っている感じがして忘れられない。

 先にみかんを食べてしまった彼は私の布団に入りたそうにこちらを見てくる。

 しかし私はばっと立ち上がって、前掛けをしてやるみたいに布団を彼に掛けると、ベッドから飛び降りた。

 食べかけのみかんは一気に口の中に押し込んで、汁気を搾り取るように噛みながら飲み込む。

「どっか出かけよう」と口の中のみかんを全部飲み込んでから私は言った。

 彼とする夜の外出は、楽しい夢を見た後の目覚めみたく、ぼんやりとした幸せな気持ちが訪れる時間だ。どうでもいいことばかり話していて、きっと明日には忘れてしまうんだろうという感じがするところも素敵な夢みたいなのだった。

「温かいね、これ」

 彼は立っても名残惜しそうに布団に包まったままでいる。温かいのは私の体温が移っているからだ。

 私はパジャマを脱いで着替える。

 今夜は裸にならないだろうから、気に入っている服を選んで、重ね着するところをよく見せてやる。

 一枚着る度に両腕を広げたり体をひねったりしてポーズを取る私を、彼は無言で見る。

 私と彼の二人で作る静けさが、体のラインを鮮明に描写する。

 十七歳の肉体はもう大人に限りなく近いはずなのに、不完全だと感じさせる。これで人を発情させることができるのかと心配になる。

 それでもそんな私のラインを彼の視線は撫でるようになぞってくれていた。

 もっとよい女体なんていくらでもあるのに、と思いながらも私は機嫌をよくして少しでも煽情的なポーズを取ろうとする。

 彼の視線を意識すると私自身も自分の体を愛撫している気分になる。

「どこに行こうか」

 そう言いながら私は、ジーンズの上から自分の太ももをそっと指三本で撫でる。

「今日は寒かったよ」とヒイは布団をベッドに置いた。

 大して寒くなければ私たちは公園のベンチに座ったり、自動販売機の近くの石塀にもたれたりしていただろう。そういった明るいような暗いような場所が楽しいのだ。

「じゃあ、ファミレスでいいよ」と私は言った。

「ごちそうになります」

「いいよ」

 彼は財布を持ち歩いていないだけでどうせ後で全額払ってくれるから、カルボナーラでも食べようかな、と考えながら私は気楽に答えた。


 ヒイの本名は、平野広人という。

 ヒラノヒロヒト、とヒの音が三つもあるからあだ名もそれにちなんだものになる。ヒッちゃんとか、ヒイ君とか、そういうのだ。マントヒヒとかヒッピーとか呼ばれたこともあったらしい。

 彼は放送部に入っていて、そこで昼休みに流すラジオ番組のような校内放送のパーソナリティーをしている。

 彼の担当は喋ることではなく台本などを作ることだそうだけど、週に一度は彼が喋る。

 そして今日は彼の喋る木曜日だった。

 昼休みになると私はヒイの後ろに座っている子の席に座る。

 その子の友達は私の席の近くにいるので、昼休みの間は席を交換している。

「お昼の放送部ラジオ、木曜日は平野広人がとても不思議な都市伝説をお届けします」

 放送は録音したものを流しているからヒイは自分の声を教室で聴く。

 初めのうちは彼の声が聞こえてくることを面白がるクラスメイトもいたのだけれど、最近ではみんなすっかり慣れてしまって、それぞれの雑談に夢中だ。

 私は意識を放送に傾け、教室内のノイズを避ける。

「今日は愛のテレパシーという不思議なお話を紹介します。これは僕が小学校五年生の時の担任の先生から聞いた話です。先生の友達、名前は仮に田中さんとしておきますが、その田中さんには中学生の頃から付き合っている彼女がいました。幼馴染で赤ちゃんの頃から一緒にいたというような二人で、その二人が仲良くしているところを見るだけで、先生も周りの人も幸せを分けてもらえてしまうような、そんなカップルだったらしいんです」

 トーンを落としたら怪談に聞こえそうだが、ヒイは面白い話をする時のような軽い語り方をする。彼が校内放送でする話はいつもこんなふうだ。怪談として話せそうな話をするけれど、絶対に怪談にはしない。

「そんな二人だったから、お互いのことはなんでも知っている、ということを冗談でもあり本気でもありといった感じに言っていたそうです。でもそれは、テレパシーという形で、本当のことになるんです。二人が大学生になったくらいのことです。彼女の方が、田中さんのことをテレパシーで見抜けるようになってしまったんです。初めは、お腹が減ったとか足が痛いとか、そういう些細なことを言い当てるくらいでした。まあそのくらいのものなら、田中さんの方としてはテレパシーがどうとか疑うこともなかったんです。俺のことよく見ているんだな、って感じで。でもある日、そんな理由では説明がつかないことがとうとう起きちゃうんです」

 バラエティ番組のお笑い芸人の喋り方を真似したような話し方だ。普段とは違って、喋りに熱がこもっている。僕の話でみんなを感動させるぞ、という意気込みが伝わってくる。

「酒が入ったこともあったんですかね、田中さんは浮気をしてしまうんです。同じサークルに可愛い女の子がいて、誘われるまま部屋にその子の家に行っちゃうんですね。それで朝、田中さんがその子の部屋から出ると、そのアパートの玄関に彼女が立っていたんです。田中さんは当然驚きます。それで、どうしてここがわかったんだって聞いてみると、彼女は感じたからって答えるんです。感じたってどういうこと? 彼女が説明にするには、超能力とか第六感みたいなもので場所がわかったということなんです。しかも場所だけじゃなくて、彼が浮気をしているまさにその瞬間の感覚さえばっちり伝わってきていたって言うんですよ。いつシャワーを浴びたとか、そういうところまで彼女は知っていたんです。あまりにも細かいところまで知っているものだから、これはきっと本当に超能力なんだろうな、と田中さんも理解するわけですよ。で、その後も彼女は同じように離れた所にいる田中さんのことを、あの時こうだったでしょう、と言い当てるようになったんです。でも不思議なことに、田中さんと、その二人の間に生まれた子供のことしかわからなかったそうです。他の人のことは少しもわからない。愛しているとアンテナが立つみたいだとその人は語っているそうです」

 彼はそこで一度話を区切って、間を作った。凄いね、と私が心の中で相槌を打つ。そして彼の声が再び聞こえてくる。

「で、ここからが本題なんですけど、この不思議な能力って、よくあることらしいんですよ。たとえば夫の帰ってくる時間がわかる、とかいうようなちょっとしたことならわかるっていう人は、千人か一万人に一人くらいの割合でいるらしいんです。勿論その人たちも、愛している人のことだけわかるんです。離れていても自分のことを知られてしまうっていうのは怖いって思うかもしれないんですけれど、考えようによっては夫婦円満の秘訣にもなるようで、田中さんと彼女はそれからずっと幸せに暮らしているそうです。そのテレパシーの能力があるうちは、田中さんは自分が愛されていると信じられるし、彼女は夫が浮気をしていないことを確信できるわけです。子育ても、そのテレパシーの力のおかげで随分楽できたみたいです。僕たちの中にも、この愛のテレパシーの力を持っている人がいるかもしれません。なんといっても、千人か一万人に一人はいるわけですから。ただ、まだその力が目覚めるほどの恋愛をしたことがないだけで、みなさんもいつかその力に目覚めるかもしれませんよ」

 そして最近発売された有名な曲が流れ始める。その歌が終わると放送も終わる。

「私はテレパシーできない」と私は言った。

「だろうね」

 わかりきったことだった。ヒイが木曜日の放送で披露している話は、彼の創作だ。今日したような超能力者の話や、ちょっと変わった同年代の人の話を彼は毎週作っている。千人に一人が目覚めるテレパシーなんてこの世にはない。

「でも、できないってわかってるけど、もしかしたら本当にそういう能力が人にはあるんじゃないかって思いそうになる」と私はヒイに言った。

 ヒイは過去に、ある神を強く信じていた人たちが起こした三つの奇跡、という話を放送でしたことがあった。神を信じることが奇跡を起こす力の源になる、という話だった。

 その時も私は、強く信じることこそが奇跡を生む力になるんじゃないか、と思った。

「僕も収録している時には、そういう気分になってるよ。作り話をしているはずなのに、まるで自由研究の発表をしているみたいに、自分だけが知っている真実を話しているような気分になる」

 それがとても楽しいんだとヒイは言う。

 私と彼の二人が信じているだけでは、奇跡は起こってはくれないのだろうか。奇跡が誰にも気付かれないように世界をいじくって、人々に愛のテレパシーを付け足してくれたらいいのに、と思う。

 ヒイは美しい少年だ。まず見た目が。そしてその口で語ることも時々。だから奇跡の一つや二つは起きてもいいはずだ。

「ねえ、今日、僕のバイト先に来てみない?」とヒイは言った。

 放送部はほぼ毎日活動しているが、参加するかしないかは部員次第らしい。

 ヒイの場合は、原稿を書くのに集中するという理由で週に二日ほど休んでいる。だけどその二日はアルバイトに費やしているのであった。

「鈴乃に、僕のやっていることを見せてみたいんだ」

「いいの?」

 まず私はそう聞いた。バイトの話は、はぐらかされてばかりで秘密にされていたのだ。

「話しにくいバイトだから話さなかったんだけど、でもやっぱり知ってもらった方がいいと思ったから」

 恐ろしいバイトをしているのではないかと思いもしたが、好奇心が勝った。

「行く」と私は答えた。


 ヒイのバイト先は高層マンションにあった。ヒイは暗証番号を知っていて、中に入る。そしてエレベーターで十六階まで上がり、端の部屋のドアホンを押す。

「こんにちは、広人です」とドアの向こうに彼は呼びかける。

 ドアが開けたのは女性だった。三十代か四十代に見える。若々しくはないけれど綺麗な人だった。灰色に染めた髪の毛が、一層外見を老けさせているようにも感じる。

 その人はヒイを見て、そして私の方を見た。

「こんにちは」と私は頭を下げる。

「もしかしてアリスさん?」

 誰だそれは、と思ったけれど、

「そうです」とヒイが言った。

「どういうこと、アリスって?」と私はヒイに聞く。

 それはね、とヒイが説明しようとするけれど、

「あなた、有野鈴乃さんでしょう」と女の人が先に言った。

 確かにそれは私の名前だ。

「ええ、そうです」

「スズノさんって私の大学の時の友達にもいたのよね。あだ名はスズちゃん。だから別のあだ名を考えたの。それで思い付いたのが、苗字と名前を短くして、アリスちゃん」

「それで姉さん、彼女が見学してても大丈夫ですか?」

「ええ、私は大丈夫。入って」

 女の人は私たちを中に入れる。

「お姉さんなの?」

 先に玄関に入って靴を脱いだヒイに、私は小声で聞いた。

「いとこの、だけどね」

「あ、自己紹介忘れてた。私、中村葉月です。ヒイ君には絵のモデルをやってもらってるの」

 葉月さんが案内した洋室は、イーゼルと椅子がいくつか置いてある他には大きな物のない、さっぱりとした部屋だった。ここは絵を描くための部屋として使っていて、必要のない物は置かないようにしているのだろう。

 暖房が効いていて、既に部屋は暖かかった。

「画家さんなんですか?」

 イーゼルには、油彩で少女らしき人物を描いている最中のキャンバスが載せられていた。

「一応ね。コーヒー飲む? それとも紅茶? オレンジジュースもあるけど」

「じゃあ、ジュースがいいです」

 暑がりの私には、コートを脱いでも暑く感じるくらいだった。

 私は制服のブレザーも脱いで、コーヒーを飲むと言っていたヒイに、

「暑くないの?」と聞いた。

「これくらい暖かくないと困るんだよ」

 そういえば葉月さんも半袖のTシャツで、冬の格好ではなかった。

 ヒイも服を脱ぐ。私と同様にコートとブレザーを脱ぐが、手は止まらずにシャツのボタンも外していく。

 驚いて何も言えないでいるうちに、彼は全裸になった。

「モデルって、裸なの?」

「そうだよ」と彼は椅子に腰掛ける。

 裸なんて見せて大丈夫なの。

 その大丈夫というのは、恥ずかしくないのかというだけじゃなくて、葉月さんに何かするわけじゃないのかっていうことでもある。

 もしかして部屋に戻ってくる時には葉月さんも裸になっているんじゃないだろうか。

 どのようにして二人のことを疑えばいいのか、あるいはどのようにしてヒイを信頼していればいいのか、混乱してたくさんのことが思い浮かび続けるだけの私にはわからない。

「姉さんには親友がいてね、僕の裸はその人の雰囲気と似ているらしい」

「どういうこと、それ」と私は聞いた。

「僕にもわからない。けれどその人が姉さんの青春の思い出なんだろう。そういうものを見ている目をして絵を描くんだ」

 彼の裸に重ねられる青春とは、どういう青春なのだろう。

「私は、どうしていればいいの?」

「絵を描く邪魔さえしなければ、何をしていてもいいよ。ただ見ているだけでもいいし、僕を描いてみてもいい。画用紙と水彩絵の具なら、使わないのがどこかに置いてあると思う」

 ヒイは裸なのに堂々としていて、少しも恥ずかしがっている様子がない。確かに彼の体は恥じる必要がないほど綺麗だ。

「描かないよ」

 絵は下手なのである。そんな私では、ヒイの裸体は描いてはいけないと思った。

 コーヒーを入れた葉月さんが戻ってきた。

 葉月さんはTシャツを脱いではいなかったし、その上にデニム生地のエプロンを着けていた。

「はい、アリスちゃんの分」

 私にはガラスコップに入れられたオレンジジュースが渡される。ヒイのマグカップは余っていた椅子の上に置かれた。

 葉月さんはヒイのことを少しの間観察すると、その何倍もの時間キャンバスを見つめて少女を描く。

 少女の細部、髪や目などまで描き込まれていくけれど、少女の姿がはっきりしてくるほどその少女はヒイの形とは離れていく。

 少女の体からは、強く抱き締めたら力を込めた分だけ体が小さくなってしまいそうな柔らかさを感じる。

 真っ直ぐ伸びた髪からもそんな印象を受ける。

 だけどヒイの髪はちょっと融通が利かなくて、寝癖がついてしまうとなかなか直らない。

 それに少女の目は、絵として誇張されているのかもしれないけれど、ヒイの目よりずっと可愛らしくて綺麗だ。

 そういえば私は彼の目をあまりじっくり見たことがない。

 形のいい唇や鼻に目がいくことはよくある。

 そういう所が違っていたし、絵の少女とヒイを比較してみると、ヒイの体の様々な所には男が見えてくる。

 細身で中性的な美少年だと思っていた彼には力強さというものが外見に備わっていないだけで、それ以外の男の特徴は揃っていたのだと気付く。

「ヒイとあまり似ていませんね」と私は言った。

「外見はね。でもね、あの子と似たものを、ヒイ君には感じるような気がするの」

 そして葉月さんはヒイに、

「ネタはもう思い付いてるの?」と聞いた。

「はい。お願いします」

 ヒイは深呼吸をした。そして昼休みの放送の時のように喋り始める。

 前世のタイムカプセルという題で、仲の良かった四人の男の子の話だった。

 彼らは小学校を卒業する時に、学校の桜の木の根元にタイムカプセルを埋めた。そして二十年後に四人で開けようという約束をした。

 しかし不幸にも事故や病によって、二十年経つ前に四人は全員亡くなってしまう。

 そこまで聞いて、みんな死んでしまったというのはなんか強引だし、怪奇現象みたいで怖いと私は思った。その後もその桜の木の根元にタイムカプセルを埋めた子は全員死んでしまうのではないか。

 それにヒイは考えながら話していて、語りは何度も止まってテンポが悪い。いつも放送でしている話と比べるとかなりつまらない。

 話のオチは、その後生まれ変わった少年たちはまたその小学校の生徒となり、偶然そのタイムカプセルを見つけたことをきっかけに前世の記憶が蘇って再会を喜ぶ、というものだった。

「どうでしょう」

 最後まで話したヒイは葉月さんに聞いたけれど、もう答えはわかっているような感じだった。

 葉月さんがまだ何も言ってないのに、

「やっぱり色々と強引でしたかね。四人も死んじゃったり」と言う。

 そしてヒイは立ち上がると葉月さんの横を通り過ぎ、自分の通学鞄からクリップボードと筆箱を出した。

 クリップボードには原稿用紙かルーズリーフが何枚も挟んであった。そこにシャープペンで記入していく。

 本当に原稿書いてるんだな、と私は思った。部活動に出ない理由は、全くの嘘というわけではなかったらしい。

「確かに、四人の男の子は多すぎだよね」

 ずっと意見を考えていたのか、突然葉月さんはそう言った。

「二人に減らしたらどうかな。女の子二人組で、名前はハヅキとムツキっていうのは?」

 ヒイは驚いた顔をして、葉月さんを見る。

「死んじゃうのに姉さんの名前使っちゃっていいんですか?」

「ええ」

「それにムツキってもしかして」

「そうよ」

 ふふ、と葉月さんは笑った。どうやらムツキというのが、この絵の少女の名前のようだ。

 葉月さんは上機嫌そうに笑ったまま、筆を動かす。

「彼女もそういう子だった」と葉月さんは言う。

「そういう子って?」

「修学旅行の夜だったかなあ、私、彼女に言ったの。前世でも友達だった気がするねって」

 来世でも結婚しようなんて台詞をどっかで聞いたことがあるけれど、そんな感じの言葉だったのだろうな、と私は思った。

「そのくらい仲が良かった?」と私は言う。

「うん、そのくらい仲は良かった。でもそれ以上に、彼女にはそういう運命を感じさせちゃうところがあったの。あの時は全然わかってなかったけど、彼女はそういう人だった。きっと私以外にも、前世とか来世とかそういうのを感じた人はいっぱいいるんだと思う。大学の友達とか旦那さんとか、きっとママ友だって」

「あ、結婚してるんですね、ムツキさん」

「一応、私の方が先にしたけれどね」と誇らしげに葉月さんは言った。

「そうなんですか」

 本当のところ私は、結婚していることではなくて、そのムツキさんって人がまだ生きていることに驚いていた。

 絵に描いてなんかいるから、もう死んでしまっているのだと思っていた。

「でもその相手のこと聞いたら笑っちゃうよ」

「へえ、どんな人なんですか?」

「中学生の頃に引っ越して離れ離れになった幼馴染」

 ヒイは大笑いした。

「それは運命を感じますね」

「タネを明かすと、小学生の同窓会で再会して盛り上がったってことなんだけどね」

 確かにそう聞けば、途端にありきたりな話っぽくなる。

「きっと今日も誰かに運命を振りまいているんじゃないかな、彼女は」

「気になったことがあるんですけど」とヒイは挙手をして言った。

「つまり姉さんは僕の裸にそういう運命を感じるんですか?」

 どこにもそんなものないだろう、と言いたげだった。

「運命はないね」と葉月さんは笑った。

「だけど似た雰囲気は出てくる。服を脱いで、それで原稿の推敲なんてしてると、運命とは全然違うけれど、似たような雰囲気は出てくる」

「なんか、わかるような、気がする」と私はヒイの体をよく眺めながら言った。

 どういうことだよ、と一人だけ理解できていないヒイは困惑した様子だった。

「特別な時間がここにあるって感じがする。思い出って言うのかな。誰にとっての、ってわけじゃなくて、教科書に載ったりしないけれど、でもなんか綺麗な光景」

 そう言っている時、自分は彼を愛している、と強く感じた。そして、ムツキさんやヒイみたいなものを私は持っていないってことを。

「なんだか、難しいな」

 あと一歩で理解できそうなのに、というしかめっ面をヒイはする。

「お昼の放送だってきっとみんなの思い出になるよ。大人になってから、ヒイの話を思い出して、愛のテレパシーが使える人を探したりするよ。私とかそうだし」

 私はそんなことを言いたいから言った。それが理解の手助けになるのかどうかなんて少しも考えない。

「みんなと言っても、お前と放送部の連中くらいしか聞いてないけどな」

「まさか。もっとたくさんの人が聞いてくれてるよ」

 クラスに話し相手がいない人とか、友達とする話に退屈している人とか、そういう人たちがきっと聞いている。

「そうだといいんだけども」とヒイは首を傾げた。


 その後、ヒイは原稿を完成させると、それを読んで聞かせてくれた。

 いつも昼休みに聞いているような美しい話になっていて、私は感動した。

 私と葉月さんに褒められて嬉しそうな顔をしたヒイは安心したのか、

「ちょっとオレンジジュース取ってくる」とマグカップを持って部屋を出た。

「私はああいうふうにはなれない気がする」と閉じられたドアを見たまま私は言った。

「そんなことない。私はもう手遅れかもしれないけれど、アリスちゃんはまだ若い」

「葉月さんには絵があるじゃないですか」

「私の絵に大した価値はないよ。隣町のギャラリーで売ってもらうの。そこの店主が同級生でね、ムツキとも知り合いなんだ。それで絵は、納品してから何ヶ月も経った頃に、不意に売れる。そんな程度」

「でも売れたなら、誰かの思い出になってるってことじゃないですか」と私は言う。

 私は運命も思い出も発してはいなかった。

「ただいま」と言ってヒイが戻ってくる。

「飲む? オレンジジュース」

 私は、うん、と答える。

 ヒイの手が私の持っていたコップを取り、マグカップからオレンジジュースを移す。

 マグカップを伝ってオレンジジュースがこぼれ、ヒイの足の甲に落ちた。

 足の甲に落ちたオレンジジュースを私とヒイはしばらく見ていた。

「舐める?」とヒイは私に冗談で聞いた。

「うん」

 私は跪き、両手で彼の足を両側から押さえると、ジュースを舐めた。

「本当に舐めるの」とヒイは驚き、笑う。

 私はあなたの中に思い出を生み出したい。

 そう思いながら私は顔を上げ、ヒイの目や唇を見る。

 だけど私はまだこんなことしかできない。

 若さっていう可能性が本当に私の中に備わっているのか、心配になる。

「アリスちゃん、大胆ね」と葉月さんは言った。

 聞き慣れないあだ名のせいで、私ではない誰かのことを言っているようにも聞こえた。

 葉月さんの顔を見ると、子を褒める母のような優しい顔をしていて、私は赤面した。

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オレンジジュース 近藤近道 @chikamichi

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