寿司英雄死す

monae

本編

 炙りのごとき灰燼の荒野をひとり歩む者あり。

 その男こそは、血塗られた築地魔道の中に生き、暗き冒険の荒波を進む、かの大英雄ヴィドヘグ。

 だがその重い足取りは、打ち上げられたマグロのごとく片足を引きずる今宵の様子は、歴戦の勇者にはいささか不釣り合いな仕草ではあるまいか……。

 おお、見よ。

 その胸に十文字に刻まれし深き傷口からは、真紅の血液が、解凍に失敗した冷凍刺身のドリップのごとくとめどなく流れ出る。

 暴虐の邪竜ガルヴズの首を刎ね、腹に大剣を突き立て、三枚におろしてもなお活け造りのごとく執拗に蠢き続けたその爪が、勇者の肉と骨を深く切り裂いた証跡であった。

 不覚である。

 竜殺し、無双の剣、一級調理師、大英雄ヴィドヘグが、かくのごとき凄惨な末路を迎えようとは、誰が予想し得たことであったろうか。

 嗚呼、嗚呼、大英雄ヴィドヘグ。

 哀れな勇者よ、愚かな男よ。

 膝をつき、息も絶え絶えの中、彼の脳裏によぎるのは、あの深緑の入り江にて彼を待ち続ける銀髪の乙女……。

 そして乙女が握る、宝石のごとく輝くあの寿司。

 白魚のように可憐なその両手が紡ぐ至高の芸術。

 魔術と呪術が束になろうとも足元にも及ばぬその珠玉の逸品を。

 海神の情けたるその赤身はしとやかに脂をたたえ、舌の上で滑らかに内に秘したうまみをにじませる様は、新春の陽光に照らされた淡い雪解けを思わせる。

 地母神の恵みたるコメは固くつぶれることなくそれでいて確固たる方形の神秘を保ち、噛みしめるごとにぱらぱらとほぐれる様は、夏の日に小雨を浴びるがごとき心地よさ。

 勇者はひとこと、誰にも聞こえぬほどの声量で何かを呟いた。

 オアイソであった。

 だが、その口があの寿司を味わうことは、二度とない。

 かくして大英雄ヴィドヘグは地に斃れた。

 荒涼として吹きすさぶ風と、無慈悲な時の流れが、勇者の肉体をさばくであろう。

 その舎利を、拾うものはいない。

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