第91話 時間的無限大

ブラックホールには毛が三本。すなわち電荷、質量、角運動量のみっつのパラメータしかない。それ以外のすべての要素は重力崩壊の段階ですべて失われてしまう。すなわち、ブラックホールとはきわめて単純な物体であると同時に、巨大な素粒子として考えることもできよう。

回転するブラックホール、いわゆるカーのブラックホールでは、質量に伴う重力に対し、角運動量に伴う遠心力がある。質量が角運動量より大きい間は、重力が優勢である。重力によって生まれる情報伝達の境界面、すなわち事象の地平線の内側に、特異点が収まっているわけだ。しかし角運動量の増大につれ、遠心力もまた増大し、特異点をリング状に引き延ばす。それはやがて、事象の地平線とリング状特異点。この2つの融合、という結果を招くであろう。

角運動量がさらに増大し、質量を超えることがあれば大変だ。特異点が露出してしまう。それは、外部から特異点を訪問し、また戻ることができる。ということだ。露出した特異点。すなわち"裸の特異点"の周りを適切に周回できれば時間を逆行できる。理屈では、どんな時代にも自由に戻ることができる。しかもこの特異点は、事象の地平線に隠されていない。


「因果律が破れるだろうな」


おや?見かけない顔だな。聴講生か。

君の言う通り、因果律は破たんする。それもあらゆる時空で、だ。事象の地平線の内側に隠されていたからこそ、我々は特異点を特殊な事例扱いすることができた。しかしもはや逃げ場はない。

原因があって結果が生じる。この原則が成立しなくなってしまう。科学の前提が崩れるわけだ。それは現代物理学にとってあまりにも恐ろしい結論と言えよう。だから、科学者たちは現実に裸の特異点が出現することを阻止すべく、色々と理屈をこねて来た。アインシュタイン方程式のある種の解に明確に現れているにも関わらず、ね。だが、物理学者たちの必死の努力にも関わらず、全ての特異点が必ず一方通行の膜に取り巻かれているという証拠は、


「案外近くにあるかもしれんぞ?」


さあねえ。少なくとも、ではまだ発見できていないのは確かだ。だが、これだけは言える。

人類はいずれ、宇宙に飛び出すだろう。星々の世界を自由に行き来し、やがては銀河すらも縦断できるだけの力を持つはずだ。

だから、もしこの世に裸の特異点があるならば、発見できる。私はそう、信じている。

さて。

では、本日の講義はこれで終了とする。


  ◇


【西暦2041年 神戸 ポートアイランド 北城大】


「角田遥だな」

講義を終えた遥を待ち受けていたのは、先程のだった。

小柄な彼女の服装は、ふんわりしたものだ。控え目に言っても。具体的にはひらひらのフリルがたくさんついたエプロンドレス。いわゆるゴスロリファッションなのである。

「君は……?」

会ったことのないはずの相手に不思議な懐かしさを感じ、の遥は足を止めた。

「久しぶりだ。私の事を覚えているか?」

「……はて?申し訳ない。どこかで会ったかな」

首をひねるが、相手の名前が思い浮かんでこない。どこかで会った気はするのだが。

となれば、自分は相手の事を忘れているのだろう。遥はそう結論付ける。

果たして、相手は名乗らなかった。

「覚えていないならいい。邪魔したな」

言い終え、立ち去ろうとする小さな聴講生。それを、遥は呼び止めていた。ごく自然に。

「―――待ちたまえ。。せっかく何千光年も旅して来たんだろう」

「何万光年、だ。ここに来るまでにそれだけの距離を飛び回るはめになった」

不知火。いや、そのサイバネティクス連結体は、笑いながら振り返る。

「やはりお前さんか」

「いや。この体は角田遥だ。私の本体は今、別の場所にいる。今の今まで、本当には君を知らなかったんだよ」

「あの後、色々あったようだな」

「まあね。えらく苦労したよ。

立ち話もなんだ。少し、歩こうか」

ふたりは、廊下を進み出した。


  ◇


「……とまあ。そんなことがあったのさ」

快晴に恵まれた構内は陽気に浮かされて、もう十月とは思えぬほどだった。

爽やかな海風が吹き抜けていく。学生たちのわいわいガヤガヤという声は、来週に控える学園祭に備えたものだろう。大学全体が熱気を帯びている。

築後三十年の歳月を経て本物の風格を醸し出した校舎の合間を、遥と不知火が行く。

「いい星だろう」

「ああ」

不知火は本心から言った。地球人類は今だ恒星間航行能力を持たぬが、ここ数十年だけを見てもその科学技術は急速に進歩している。先年にはとうとう核融合動力を実用化したし、10年以内には軌道エレベータの建築が開始される目算だ。医療分野においてもナノテクの躍進は著しい。順調に進めば、数百年後には銀河の大海原へと漕ぎ出すことだろう。

その時こそ、先人たち。先に恒星間航行を達成した銀河の諸種族に迎え入れられるに違いない。

続けて、不知火は口を開いた。

「……まぁ、色々納得いかないことはあるが、大枠は分かった。

お前たちが超巨大ブラックホールを改造して裸の特異点を創り上げたことも。それによって生じた因果律の破れが歴史の改変を可能としたことも。過去の商業種族の元に使を送り込んで、その滅亡を回避したことも。商業種族が滅亡せず、どころか銀河の有力な恒星間種族が協調することで金属生命体群に勝利できたことも」

「うん。分かってくれてよかった」

「とりあえず幾つか疑問があるが、最大の問題はあれだ。

銀河諸種族連合を立ち上げた人間の中に、の奴がいるがあれはお前か?」

「正確には並行して存在していた時間軸の私、だ。リング状特異点内部で一戦交えた金属生命体にしていた人物だよ。この世界における私の弟だと知った時は本当にびっくりしたがね。

彼が、私たちの送り込んだ使だ」

「やっぱりか。お前が他人任せにするとは思えなかったからな」

分かってるじゃないか、と遥は頷き、続いて質問を投げかけた。

「ときに、花園はどうかね?」

「ボチボチってところだ。お前たちが旅立った後、修復した雫が記憶喪失になったりはしたが」

「おや。大丈夫かね」

「治したよ。学術種族―――学術種族が大喜びで診てくれてな。なにせ別の歴史で建造された機械生命体マシンヘッドだ。見てるこっちはヒヤヒヤしてたが」

「ははは。なんというか、彼ららしいな」

「……もう一つ質問だ。

の。改変以前の歴史の存在が今、次々とこの宇宙で発見されている。私たちを皮切りにな。おかげで銀河諸種族連合は大混乱だ。

これもお前らの仕業か?」

「正解だ。

君はかつて言ったな。『銀河を滅ぼすのか』と。

それに対する答えがこの世界だ。今後、銀河は新しい時代を迎えるだろう。の存在。改変によって消え去るであろう全てが、こちらの世界に出現する。金属生命体群を除いてね。因果律は破れた。もはや正史とこの世界とを隔てるものは何もない」

「これから先、お前らはどうする気だ?」

「どうもしない。私たちの能力でやれる限りのことはしたし、十分満足した。いて座Aスターの中から、歴史を眺めるだけのことさ。これから先、銀河は君たちのものだ。

さて。

そろそろ質問はおしまいかな?あまりこのから体を借りているのも気の毒だからね」

「最後にもう一つ。

変じゃないか。無限の可能性が結果、お前たちの生命形態が変化したと言うのなら。お前さんたちの破片が時間のある範囲をループするのを1単位とする演算構造が構築されたというのなら。

たまたまお前さんたちだけが超知性体になった、と?」

「もちろん、違う。

私たちの観測圏内では私たちだけ、ということさ。その外側。私たちと充分にかけ離れた可能性のはまた、別の超知性体に進化しているだろう。何しろ時間は無限大だからね」

「……この時間軸の外側には、さらなる無数の歴史がある、ということか。

なるほど。納得した。

じゃあ、もう行くとする」

「気を付けて帰りたまえ。

ああそれと、雫によろしく」

「ああ。そっちも、鴇崎鶫によろしくな」

こうして、ふたりは別れた。


  ◇


【時間的無限大の果て】


最後の恒星が今、燃え尽きようとしていた。

宇宙に寿命はない。その存在は無限であり、ただひたすらに均一化していくのみ。されど、そうなれば生きていられる道理はない。均一化。すなわちエントロピーが極大化した世界とは、変化が起きぬ場所だから。

故に、この宇宙から脱出していく一団の姿が、あった。

ぽつん、と宇宙の各所に残った超巨大ブラックホール。別宇宙への門であるこの構造体へと、無数の巨船が突入していくのだ。

その様子を見守っていた少女たちは、最後の1隻が宇宙から消えたのを確認するのと同時。自らのへと目をやった。

そこは変化の停止した世界。かつての宇宙の最期の名残である、超巨大ブラックホールすらも蒸発し、消滅しようとしている。

そこへ、ふたりの少女は手を伸ばした。消滅しつつあるブラックホールの内側から、圧縮され、分解されて変形した情報、という形で外へと放出されるホーキング輻射に乗せて、情報をのである。

量子論が無視できないほどに小さくなったブラックホール。そのトンネル効果が内部から制御され、放出されるエネルギーの一部が、運動エネルギーに変換されていく。

最後の瞬間、ブラックホールの角運動量は自身の質量を超えた。

それを確認し、安堵の溜息を付くふたり。

「―――うまく行きましたね。先輩」

「うん。鶫がいてくれたおかげだ」

山場は越えた。後は、このブラックホールが生む因果律の破れを過去へと波及させていけばいい。

それで終わりではない。歴史を改変し、人類と銀河の運命を変えねばならない。そこまでやってようやく、遥と鶫。時間すら超越するふたりの旅は終わるのだから。

しばし宇宙の終末を眺めていた彼女らは、やがてこの場より立ち去って行った。


  ◇


おしまい

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