【2月刊試し読み】聖王騎士の甘い溺愛 〜異世界の恋人〜
角川ルビー文庫
第1話
コツン、と窓が鳴った気がして、航は参考書から顔を上げた。
耳を澄ますが、窓の外は暗いままで、その後は何の音もない。
――気のせいか。
航は再び参考書に視線を落とした。明日は数学のホームルームテストがあるので、出題範囲の復習をしていかなくちゃいけないのだ。
だが今度は、コンコン、と明らかに窓を叩く音が響いた。
はっとして顔を上げた航の目に、窓の下方から伸びている手のひらが見えてぎょっとする。
それは、ひらひらと動いて「航」と小声で自分を呼んだ。
聞き覚えのある声にほっとすると同時に、またか、とため息が出た。航は参考書のページが閉じないように、間に消しゴムを挟んで立ち上がる。
窓から顔を出して下を覗き込むと、エアコンの室外機の上で背伸びをして手を振る幼馴染の姿があった。明るい茶色の髪と同じ色の瞳をいたずらっ気に細くして航を見上げている。
「航、夜の散歩しようよ」
「健太、何時だと思ってるんだよ。こんな夜中に抜け出して、宮代のおじさんとおばさんが心配するだろ。帰りな」
「言われて帰るくらいだったら、抜け出したりしませんって。航、散歩いこ?」
「行かない。明日のホームルームテストの勉強してるんだから」
「こんな夜中まで? 相変わらず真面目だねー。さすが万年級長。いいじゃん、息抜き息抜き」
「い、か、な、い」と力を込めた航に、健太が口を尖らせる。
「じゃあ俺も帰らない」
「健太!」
静かに、でも声を荒げた航に、健太がにっと笑う。
「航が家まで送ってくれたら帰る」
航は、はあっとため息をついた。
一旦こうなったら健太は頑固になる一方なのだ。航が折れるしかない。
「――分かった。送るよ」
「やった!」
「着替えてから行くから道で待ってて」
「了解!」
そっと窓を閉めて自室に戻る。すでに寝ている同室の子供たちを起こさないようにしてジーパンとTシャツ、パーカーに着替えて航は部屋を抜け出た。
シスターたちに気付かれないように足音を殺して廊下を歩き、児童養護施設の外に出る。
正門の横で、健太が門柱に寄り掛かって待っていた。航を見て「よっ」と嬉しそうに笑う。
「まったく、なんなんだよ健太。もう夜中の二時だよ」
「そんな時間まで勉強してる航もお疲れさま。相変わらずガリ勉だね」
「そうしないと、俺はいい成績取れないの。ほら、さっさと帰るよ。宮代のおじさんとおばさんに心配かけるなって。あんなにいい人たちに里親になってもらえたのに、なんで健太はこういうことばっかりするわけ? まったく、腹立つなあ」
「じゃあ、航が代わりに里子になれば?」
かちんとした。
「無理言うなよ。宮代のおじさんとおばさんが健太を選んだの。俺じゃなくて! ほら行くよ」
健太の手を引き、航は歩き出す。
航と健太は、この施設で幼い頃から兄弟のように育った幼馴染だ。二年前、二人が中三だったときに健太だけが地元で有名な資産家の里子になって出て行った。
航も何度か会ったことがある宮代夫妻は、穏やかで優しげな、本当に素敵な人たちだった。十年近く前に一人息子を病気で亡くし、最近になってようやく別の子供を愛してもいいと思えるようになったのだと航に語った。
その言葉通り、健太はこれでもかと溺愛されているように航には見える。施設にいた時とは違う仕立てのいい服。美容室で整えるようになった髪は、テレビで見るアイドルのようにお洒落だ。家では立派な個室を与えられているらしい。通っている高校も、健太の公立高校とは違い、裕福な家の子ばかりの私立男子高。
そんな恵まれた生活をさせてもらっているのに、最近の健太は、学校帰りに連絡もしないで夜まで時間を潰したり、夜中にこっそりと家を抜け出て、宮代夫妻を困らせているらしい。
「健太はいったい、何が不満なわけ?」
歩きながら航は健太を詰った。
「べつに不満はないよ。ご飯は美味しいし、部屋も暖かいし。お小遣いも沢山くれるし」
「宮代のおじさんとおばさんが健太を苛めるわけじゃないんだろ」
「うん。すっごく優しい」
「だったらなんで……!」
声を荒げた航にひょいと背を向けて、健太は住宅街の真ん中のコンビニに歩きだす。
「健太!」
「どうせ航、小さい子たちに自分のおやつ上げちゃってるんだろ。おごったげる。大丈夫、俺、今、小遣い長者だから」
「健太ってば」
健太は航が止めるのを無視して、さっさとコンビニに入ってしまう。中から一度「航もおいでよ。何が食べたい?」と聞かれたが、腹が立った航は「いい」とコンビニの外で待った。
数分してコンビニから出てきた航の手には、中くらいのコンビニ袋。おにぎりやワッフル、パック飲料が透けて見えてイラッとする。
「お待たせ。行こうか」
悪びれずに言うのもまた腹が立ったが、そのまま宮代家の方向に向かって素直に歩きだしたからまだいいとして航も横に並んだ。
健太は、鼻歌でも口ずさみそうな楽しげな様子で夜空を見上げて歩いている。
つられて空を見上げたら半月が輝いていた。半分しかないのにものすごく明るくて、ぱらぱらとたなびいている雲の形をくっきりと浮かび上がらせている。
「月、綺麗だと思わない? これ見たら、なんだか航に会いたくなってさ。施設で眠れない夜によく航と一緒に窓から月見てたなって。次にどの雲が月にかかるかって予想しながら」
その口調にどことなく不思議なものを感じて航は健太に振り向いた。
「健太、……何かあった?」
健太は空を見上げたまま答えない。
「健太?」
健太が振り返った。
「何もないよ」とにっこり笑ったと思ったら、健太は急に回れ右をした。
そこにあるのは、巨大な市民公園の入り口。「健太」と止める航を無視して、健太はチェーンをひょいと乗り越えて「せっかく買ったんだから食べていこう」と航に手を上げた。
「健太、早く帰らないと心配するってば!」
声をあげる航にひらひらと手を振って、健太は公園の奥に向かっていく。
「寝てるよ。大丈夫」
「大丈夫じゃない! だからさ、なんで俺がこんなに心配しなくちゃならないんだよ!」
仕方なく航は追いかけた。
「それはね、航がいい奴だからだよ」
「違うって!」
怒り口調で隣を歩きながら、航も、健太がいつもと微妙に違うことに気付き初めていた。
にこにこと笑っているけれど、ときおり表情に影がよぎる。頑固すぎる。
こんな健太を放って帰れる航ではない。健太は、航が五歳の時にやってきた保護児童で、来たばかりの頃の傷と痣だらけで口も聞かず笑いもしなかった。今の健太は常に明るく楽しげに見えるが、その心の奥底に不安定なものを抱えていることを航は知っている。
「分かった、付き合うよ。だけど、食べたら帰るからね」
仕方なく了承した航に「やった」と健太が明るく答えた。
真夜中の公園を二人で歩く。
「バラ園に向かってる?」
「うん。ベンチも街灯もあるし」
芝生広場の中央にあるバラ園は「バラの迷路」として、昔から施設の子供たちに人気の遊び場所だった。円形の敷地に通路が同心円状に繋がり、丈が低い品種も高い品種も取り混ぜて植えてあるため、鬼ごっこやかくれんぼにはもってこいなのだ。航と健太もよく遊んだ。
芝生広場に近づくにつれ、バラの芳しい香りがほのかに漂ってくる。
今は五月。そういえば満開の時期だ。毎日が忙しくて忘れていたと航は気付いた。
夜露に濡れる芝生とバラたちは、月光を浴びてきらきらと輝いている。遠目にも鮮やかで、正直に綺麗だと思った。もしかして健太は、これを一緒に見たくて誘ったのかなと思う。
「あれ? 人がいるよ」
「本当だ」
バラ園をぐるりと囲んで配置してあるベンチに、その人は座っていた。
――金色。
最初に目に入ったのは、月の光を受けて輝く見事な金色の髪。横顔は見えない。
ウィッグや染めた髪ではなく、ひと目で地毛だと分かる艶やかさだった。
「外人さん?」
「……かもね」
航がそう答えるのと前後して、健太がいきなり、その人に向かって走り出す。
「ちょっと、健太!」
慌てて止めるがもう遅い。ベンチに座っていたその人がこっちを振り返った。
「お兄さん、こんばんは!」
健太は人懐っこい口調で彼に駆け寄る。
外国人に日本語で話しかけてどうするんだと思ったが、思いがけないことに、彼は「こんばんは」と綺麗な日本語で返してきた。
「こんな夜中に何してるの?」
一足先にベンチについた健太が、にこにこと問いかける。
「迎えを待ってるんだ」
そう答えて微笑んだ彼の姿に、航は目を吸い寄せられた。
彼は、まごうことなく異国人だった。白人特有の白い肌。赤みの強い綺麗な唇。
そして、宝石のように綺麗な青い瞳。ただの青ではなく、角度によって金色が混じって見える。まるで、ちょうど今空に浮かんでいる月の光を混ぜ込んだような美しさだった。
金色の髪と相まって、まるでその存在自体が輝いてい見えるようなその人の姿に、航は息を呑む。彫りの深さも、すっと通った鼻筋も、にこやかな笑顔も、まるで外国人の俳優が映画の中から出てきたような存在感だった。
「お隣、座っていい?」
「どうぞ」
航が焦る間もなく、健太は彼の隣にひょいと腰かけてしまう。
「お兄さん、外国の人だよね。どこの国から来たの?」
「トルムード王国だ」
「とる……?」
「トルムード王国」と彼が繰り返すのを聞きながら、航は首を傾げた。
――そんな名前の国あったっけ?
地理と地学は航の一番の得意科目だ。だが、その名称は記憶にない。
おそらくどこかの連邦国家に属している小国だろうと勝手に自己解決する。
「俺は健太。お兄さんは?」
「キースだ」
答えてから、彼はいきなり航を見上げた。
大きな青い瞳にまっすぐに見られて息を呑む航に微笑むと、「君も座る?」とベンチの端に体を少し寄せてくれた。
「あ、ありがとうございます」と航もベンチの反対側の端に座る。真ん中に座る形になった健太が、ぽんと航の膝を叩いて「これは航。俺の親友」と勝手に彼に紹介する。
用心深い性格の航は、勝手に名前を告げられてむっとしたが、とりあえず会釈は返す。今の場合、悪いのは健太でこの人じゃないと判断するくらいは冷静だ。
そんな航に、彼はにこりと笑いかけた。
柔和な笑顔に、航は思わずどきりとした。健太に負けず劣らず人懐こい人だと思う。
「お兄さんの迎えの人、本当にここに来るの? この公園、もう入口閉まってるけど大丈夫?」
実際、興味津々の態度を隠さずに、ぽんぽんと尋ねる健太にも全く嫌な顔をしない。
「おそらく大丈夫だ。はぐれた時には、勝手に動かずにその近くにいること。鉄則だ」
「え、はぐれたの? しかもここで?」
「そうだ」
「ちょっとお兄さん、いつからここにいるんだよ。もしかして、お腹空いてるんじゃない?」
健太はおもむろに、手に提げていたコンビニの袋からおにぎりを取り出した。
「お兄さん、良かったらこれ食べる?」
「それは助かる、ありがとう」
だが、差し出されたおにぎりを受け取りながらも、彼は封を開けようとしない。手のひらに乗せてじっと見ている。
「あ」と航は呟いた。
「健太、食べ方が分からないのかもよ」
航に言われて「そっか」と健太がおにぎりを彼の手のひらから取り戻す。
ぺりぺりと袋を剥がして三角形のおにぎりに海苔を巻く様子を、彼は興味深げに見ていた。
「はい、このまま噛り付いていいから」
「これは食べていいのか?」と海苔を指でつまむそんな仕草すら様になっている。
「食べていいんだよ。海苔、知らない?」
「ノリ?」
「海藻。海に生えてるやつ」と説明する健太に、彼は「海?」と不思議そうな顔をする。
「海、Sea、Ocean、見たことない? ものすごく広くて、水が一杯あって」
そこまで言っても、彼はきょとんとしている。
――きっと海のない国の人なんだ。
そう思った直後に、航はふと不思議に思う。
――あれ? どうやって日本に来たんだろう。飛行機からでも海は見えるはずだけど。
海藻や海の事は分からないまでも、海苔が食べられるものだということは理解したようで、 ぱくりと噛り付いて呑みこんでから「美味だな」と彼は少し目を丸くして呟いた。
「ノリはともかく、中に入っているこの赤い実は美味しいな」
「実じゃないよ。卵。魚の卵、イクラって言うんだよ」
「卵か。なるほど、言われてみればチクカルの卵とどことなく似ている」
「ちくかる?」
「水に住む小さな獣だ。ぬらりとした光る肌と長い尻尾を持って、四つ足で走る」
「……トカゲ?」と健太が航を振り返る。
「かな?」
「トカゲの卵を食べる国ってどこよ」
「いやでもほら、食文化は様々だから……」
こそこそと話す二人の横で、彼はぺろりとおにぎりを食べてしまった。
「ありがとう、美味しかった。思いがけず最高の晩餐だった」と目を伏せて仰々しく礼を言う彼に、健太がぷっと吹き出す。
「晩餐って、お兄さん面白すぎ。じゃあ、これも食べてみる?」
袋から取り出したのは、バナナが一本丸ごと入ったワッフル。返事を待たずにラップを剥がし「はい」と差し出す。
「これも美味しい。この世界の食べ物はどれも美味しいな」
「お兄さん、世界って……」
けらけらと健太が笑いだした。
「言うなら、世界じゃなくて国。じゃあ、お兄さんの国ってどんなところなの? 教えてよ」
人懐っこさは健太の特徴だ。テンポのいい会話と笑顔でいつの間にか打ち解けてしまう。どちらかといえば奥手で、親しくなるまでに時間がかかる航とは全く逆だ。
この場でも、その違いは覿面に出ていた。楽しげに会話する二人の横で、航はいつもの居心地の悪さを感じていた。健太に感心すればするほど、口下手な自分への劣等感が大きくなる。
「我が国か。そうだな、緑の森が広がる美しい国だ。翼竜の背から見る一面の森と遠くの山脈は最高だ。夜が更けると双子の月が競い合うように輝き、森がきらきらと光るんだ」
「――翼竜?」
「翼のある竜だ。私の竜は気立てのいい雌で、飛行大会で優勝したくらい技も立つ」
誇らしげに言う彼に、さすがの健太も一瞬言葉を失った。
あまりに発言がおかしい。現実的じゃない。
「……双子の月って?」
尋ねたのは航だ。
「月は二つ。その位置と色で暦を見たり占ったりするのだが、この世界には月が一つしかないのだな。しかも半分だ。勿体ない、半分でこれだけ輝けるのだから、二つ揃えばもっと明るくなるのだろうに」
上空の半月を見上げる彼の横顔は、いたって真面目だ。
健太と航は顔を見合わせた。小さく首を振る航に、だが健太はにやっと笑う。
「お兄さんも翼竜に乗って空を飛ぶの?」
健太は、彼の非現実的な妄想に付き合うことを決めたようだった。
「もちろん」と誇らしげに返事をする彼に楽しそうな顔で笑う。
「立って? それとも座って?」
「飛び立つときは立つが、上空では座る。あと、急降下する時には伏せる」
「翼竜の餌は?」
「翼竜は何でも食べるぞ。焼いて消えないものならばな」
「焼くの?」
「ああ。翼竜は自ら火を吹いて焼いたものしか食べない。だから、葉の野菜や木の実は無理だな。一瞬で炭になってしまう」
言っていることがあまりに具体的で、まるで本当のようだった。
健太は楽しげに身を乗り出して話を聞いている。
「で、お兄さんは何のお仕事をしてるの?」
「騎士だ」
あまりに予想外な言葉が出てきて、思わず航まで吹き出しそうになった。
「お兄さん、騎士なの?!」と健太が驚いた声で問い返す。
「そうだ。国王付きの騎士だ。これでも団長なんだぞ」と誇らしげに彼は笑顔を見せた。
「団長! で、なんでそんなすごい人がこんなところで迷子になってるの?」
「魔術師に飛ばされてしまってな」
いよいよ話が混迷の度合いを深めてきた。作り話もいいところだ。
だが、彼の創作だと思って聞けば、それはそれで楽しい。なによりも、青い瞳を細めて喋る彼のきらきらとした表情に航は引き込まれた。微妙に時代錯誤な口調だけど、その声も穏やかなのに張りがあって耳に心地いい。
「へえ。それで迎えを待ってるんだ。迎えって王様?」
「いや、陛下ではない。親友が国王付きの神官をしている。私を飛ばした魔術師は捕えたはずだから、彼が術を逆読みしてこの場所を探り当ててくれるのを待っているんだ」
「ふうん」と健太が呟いた。
「いいね。お兄さん、親友のこと信じてるんだ」
「ああ。信じている。親友も、わが陛下のことも」
微笑みながらそのようなことを心を込めて言える彼の様子に、ちくりと航の心が疼いた。
――そんなふうに信じられる人がいていいな。
自分には誰もいない、と航は思う。
航は物心つく前に保護された子供だ。長い間放置していたアパートを取り壊そうとして、何年振りかに中に入った大家が、そこに置き去りにされていた二人の子供を発見した。一歳くらいの女児と二歳くらいの男児。女児はすでに死亡、男児はがりがりだが辛うじて生きていた。それが航だ。三歳近いと思われる体は小さく、喋る言葉もなく、反応も鈍かった。
そんなぼんやりした子供だった航を今の世話焼きまで引き上げたのは、その二年後に施設にやってきた健太だ。親から虐待を受け、自分以上に無反応だった健太を放っておけずに行動を共にしたことによって、航は感情を表に出すことを学んだのだ。
同じ歳だったこともあるのか、健太も航には懐いた。健太が絵が上手なことに最初に気付いたのも航だ。航やみんなに絵を褒められたことによって健太は少しずつ笑顔を見せるようになり、――きっと、もともと人懐こい性格だったのだろう、いつの間にか沢山の友人に囲まれる人気者になった。
そうなっても、健太は「航、航」と航にくっついてばかりいた。航もそれが可愛くて、勉強が苦手な健太にどうせ質問されるのだからと、真面目に授業を聞いて予習復習をこなし、施設では不器用な健太を手伝うために、自分の仕事を大急ぎで終わらせた。
その結果航は、健太だけでなく友人にも教師にも頼られ、小学校高学年からは毎年学級委員長を任されるまでになった。
そして、いつの間にかついたあだ名は「級長」。それ以降、高校生になった今でも、誰も航を名前で呼ばない。教師でさえ。
それは地味に航を傷つけた。中学に上がった時、高校性になった時、今度こそ親しげに「航」と呼んでもらえることを期待した。だけどまた気付けば「級長」と呼ばれている。
健太だけは「航」と呼んでくれたが、航にとって健太は判断の対象外だった。健太がどれだけ人気者になっても、その健太を作り上げたのは自分だという自負があったのだ。だがそのプライドは、宮代夫妻が航ではなく健太を里子に選んだことによって崩された。
――俺を見てくれる人はどこにもいない。
航の心には、誰かの特別になりたいという願いと、誰も自分なんか選びっこないという諦観が根付いている。
だから尚更、航には「親友を信じている」と言い切れる彼がとても眩しく映ったのだ。
「――親友だけじゃなくて、王様のことも信じてるんですか?」
するっと質問が口から出た自分に驚く。自分のことを詮索されたくない航は、基本的に他人を詮索することもない。捨て子だという事実は、できれば隠しておきたいものだから。
それなのに、この不思議な外国人には、なぜか問いかけてしまっていた。そして彼も、気負った様子もなくあっさりと答える。
「ああ。私は、陛下の身代わりになって術を受けて飛ばされたんだ。我が陛下は、そんな臣下のことを絶対に見捨てない。あらゆる手を尽くして探してくれていると信じている」
微笑みながら言った彼に、航の心がつきんと音を立てる。
「いいな」としみじみと言ったのは健太だった。
「信じられる国王と親友と、空を飛ぶ竜と美しい森。俺もそっちに行きたいな」
健太のその口調に本気を感じ取り、航は思わずむっとした。
「何馬鹿な事言ってるんだよ。健太には宮代のおじさんとおばさんがいるじゃないか」
選ばれなかった航にしたら、それは贅沢な我儘にしか見えなかった。
「ほら、そろそろ帰るよ」
立ち上がって健太の腕を引くが健太は動かなかった。
いきなり態度を硬化させ、口を引き結んでそっぽを向いた健太に航はため息をつく。
「あんなにいいご夫婦に引き取ってもらえたんだから、心配かけるなよ」
そう言った途端に、健太が航を睨んだ。
「そうだね。引き取ったのが航だったら、宮代のおじさんもおばさんも幸せだったんだろうね!」
いきなり怒鳴られて、航は顔を顰めた。
「なんでそんなこと言うんだけよ。それに、ちゃんとお父さんお母さんって言えよ」
たしなめる航に睨み付ける健太。場の雰囲気は一変していた。
健太が突然立ち上がる。
「――分かったよ。帰るよ。お兄さん、ばいばい!」
強い口調で言い捨て、コンビニの袋を彼に押し付けて、健太は歩き出した。
「ちょっと、健太……!」
「ついてくるなよ! ついてくるなら帰らない!」
声を荒げられて、航はその場に立ち尽くすしかなかった。
健太の姿が芝生広場から消えるのを見送ってベンチに座り、大きなため息をつく。
「ごめんなさい、お兄さん。健太は、本当はいい奴なんだけど……」
呟く航に「分かってる」と彼は微笑んだ。
持ち上げたのは、健太が彼に押し付けていったコンビニの袋。
おにぎりとワッフルを包装してあったビニールのほかに、コンソメ味のポテトチップスとココアのパック飲料、棒が付いた苺味の飴が中に入っていた。
「……なんだよこれ」と航は脱力して膝に肘をついた両手で顔を覆った。
――さっきのイクラのおにぎりといい、俺が好きなものしか買ってないじゃないか。
胸がずきずきと疼く。
「――もう、何なんだよ。……どうしちゃったんだよ、健太」
思わず呟いた航の耳に、隣に座る彼の「いい友人だ」という言葉が届いた。
「え?」と顔を上げた航の目に、「君みたいな親友がいて、彼は幸せだね」とにっこりと微笑む顔が映った。思いがけない笑顔に驚きながらも、航はぐっと唇を噛む。
――親友……。
健太は航を親友と言うが、航は健太を親友と呼べないのだ。健太はあんなに多くの友達に囲まれているのだから、どうせ親友も沢山いて、自分はその中の一人でしかなくて、航が夢見ている「親友」とはきっと異なるものだと卑屈になってしまう。実際、こんなに気持ちがすれ違っている。
「……親友じゃないです」
「でも、彼は君のことを親友と言っていたよ」
「ええ、健太はそう言ってくれるんですけど……俺、最近、健太の考えていることが分からなくて、今みたいにケンカ別れになることも多いんです。こんなので親友なんて……」
彼は、ふっと目を細めて微笑むと、突然ぽんと航の肩を叩いた。いきなりのスキンシップに驚いて戸惑う航に、彼はゆっくりと口を開く。
「全部分かり合えるばかりが親友ではないと私は思っている。別個の人間なのだから、考えが違って当然だ。どれだけ分かり合おうと努めるかだ」
「お兄さんの親友の人とも?」
「ああ。彼は、私にはまったく理解できないところを幾つも持っている。だが私は、彼を分かろうとしているし、彼が危機に陥ったら絶対に助けに行くよ。彼もそうだと信じている」
航は目を瞬いた。
「――そう、なんですか」
彼の言葉は、思いがけず航の心に響いた。そうか、それもありなんだ、と思う。
もしかして、自分は『親友』とか『家族』とかの人間関係に高いハードルを付け過ぎていたのかもしれないと思う。こんなに信じている二人でもそうなのだ。だったら、自分は健太の「親友」という言葉を素直に受け取っていいのかもしれない。
ふうっと肩の力が抜けた。本当に不思議な人だと思いながら、航は彼をちらりと見上げた。
これまで、航は誰かとこんなふうに人間関係について話したことはなかった。自分の不器用さをさらけ出すようで抵抗があったのだ。それなのに、彼とは気づけばこんな話までしている。
それは航には不思議な感動だった。
嬉しいような気恥ずかしいような気持ちになり、航は慌てて立ち上がる。
「じゃあ、健太も帰ったし、俺も帰ります。お兄さんは、まだここにいるんですか?」
「いるよ。いつ迎えが来るか分からないからね」と彼はにこやかに答えた。
航は少し考えて、ポケットからチェック柄の大判のハンカチを取り出す。
「これ。良かったら首に巻いて使ってください。まだ五月だから、明け方近くは冷えるので」
「ありがとう」
笑顔で受け取ってくれた彼にほっとした。嬉しくなる。
「いいのか?」
「大丈夫です。これは自分のだから」
航は小さく笑った。施設で共同で使用していたり、支援者の人が贈ってくれたりしたものだったら渡せないけど、これは、盆踊りの手伝いに行ったときに貰った私物だ。
「それじゃお兄さん、お気をつけて。お迎えの人、早く来てくれるといいですね」
「ありがとう。君も気を付けて」
手を振ってくれる彼に背を向けて、航はベンチを離れた。
芝生広場から離れて木立に入る直前に振り返ると、彼はまだベンチに座っていた。
濃紺の夜空。ほっかりと浮かぶ丸い月から光が降り注ぐなか、ゆったりとベンチに座り、満開のバラを見つめている彼の姿は、きらきらと輝いてまるで一枚の絵のような美しさだった。
思いがけずどきどきした。初対面の人とこんなに沢山話したのは初めてだった。しかも、心の内までばらした。なぜだかわからないけれど、彼には航のストッパーを外してしまう不思議な雰囲気があったのだ。
児童養護施設までの道を歩きながらふと思う。
――早く来てくれるといいですね、って……。
非現実的な作り話だと思っていたのに、別れ際は本気でそう思っていたのだ。
彼は騎士で、信じられる親友と国王がいて。羨ましいとすら思った。
「――なんか俺、馬鹿みたい」
きっとそれは、あの人自身があまりに現実離れしていからだ。美しい金髪、宝石のような青い瞳。流暢なのに、時代がかった不思議な日本語。まるで――月の精みたいだった。
航はくすりと笑う。
「変な人だったな」
いずれにしても、風邪など引いたりしないうちに、彼がちゃんとあるべき場所に戻れればいいと願った。できれば、彼の空想の世界を崩さないまま。
【2月刊試し読み】聖王騎士の甘い溺愛 〜異世界の恋人〜 角川ルビー文庫 @rubybunko
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