***


 じとりとした汗がワイシャツにまとわりついている。今日も8月らしい、暑い日だった。実家に戻ってきたのは、12時を回った頃。僕は仏間で線香を一本上げて黙とうしてから、自分の部屋へ向かった。大学進学を機に出て行ってしまってからほとんど変わっていないその部屋は、どこか埃っぽかった。ネクタイを外し礼服を脱ぎ、皺にならないようにスーツケースに片付けてしまう。

「もう帰る準備?」

 後ろから声が聞こえてきたので首だけで振り返ると、妹がドアの近くでもたれかかるようにしてこちらを見ていた。ゆったりとした黒いワンピースを着ている。

「面倒くさくなる前に、先にやっておこうと思って」

「さすがお兄ちゃん。仕事が早いね」

 芝居がかった口調でそう言って、顎の前あたりで両手を合わせて、くすくすと楽しそうに笑う。これは妹が笑う時の癖だが、いつからこう笑うようになったのだろう。思い返してみようと記憶を遡ってみたが、この些細な仕草の始まりを探すには僕らはあまりにも膨大な時間を共有していたので、早々に諦めた。

 僕が荷物の整理を淡々とこなしている傍らで、妹はベッドに腰かけて話し続けた。話題は母親の思い出話ばかりだった。僕は少し気まずい心持で短い相槌を打っていた。僕はまだ、母の思い出話を話せそうにない。

「お兄ちゃんが初任給で、お母さんにプレゼントしたの覚えてる?」

「なんだったっけ」

「ハンカチだよ。しかもなぜか金魚柄の」

 妹の中では鉄板ネタなのか、楽しそうに笑っている。僕は少し手を止めて、天井の隅を見上げる。

「……赤い金魚?」

「うん。白地に赤い金魚。しかも、リアルなやつ」

 そうか、と僕は言って、しばらく天井の隅をじいっと見上げていた。当時の僕は、どうしてそれを選んだのだろうか。買ったという事実は残っていても、その時の気持ちや考えまでは思い出せない。

 もしもやり直せるならば、僕は何を選ぶだろか。違う物を選ぶかもしれない。しかし、何をあげたところで、母は同じトーンで「ありがとう」と言う。そうして何十年も、後生大事に箪笥にしまい込んでしまうのだ。母は、そんな人だった。


「さあて、殿方3人のために、そうめんでも茹でようかな」

 はっと思考から返ると、無意識のうちに顎に力が入っていたのか、下唇をかみしめてしまっていたようで、そっと力を抜く。

 妹がベッドの縁に手をつきながら器用に立ち上がる。不安定な感じがして僕は咄嗟に「大丈夫か」と声をかける。

「これくらい平気だよ。かれこれ9か月の付き合いなもので」

 言いながら大きくなったお腹を摩り、小学生のようないたずらっぽい笑顔を浮かべた。そのちぐはぐな感じを見て、ああ、妹はもうすぐ母親になるのだなと、妙に実感した。

 誰かの母親になる。それは子どもが大人になることよりも決定的な変化に僕には思えた。雄猫だと思っていた猫が子猫を生むことよりも不思議なことで、浴衣を着た少女と祭りを回ることよりも現実離れしていた。

「……父さんのこと、頼むな」

 考えるよりも先に、言葉がするりと喉を滑り出た。妹は口を少し曲げ、首を傾げて言葉を咀嚼し、「お兄ちゃんも、できるだけたくさん帰ってきてね」と言った後に、「なんてね」と、冗談めかして付け足した。そうして姿勢正しく歩き、今度こそ部屋を出て行った。


 ***


 スーツケースを持ち上げ、駅の階段を上り切る。ひらけた構内には、人の数はまばらで、時間の流れから取り残されているかのようだった。

 スーツケースを引きながら歩いていると、床に何かが落ちているのが目についた。歩くスピードを緩めずに進んでいると、それはどうやら煙草の空き箱のようだった。2、3歩ほど通り過ぎてしまったが、ゆっくりと方向転換し、そのゴミを拾う。キョロキョロとあたりを見回し備え付けのゴミ箱を見つけたので、そこに捨てた。

 小さく息を吐いて、腕時計を見る。予定通りの時間だ。僕は切符を買いに券売機へと向かった。こうしてまた変わりなく繰り返す、日常に戻っていった。

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夏祭り 蒼野あかり @ao-k

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