「親っていうのは、それだけで凄いと思う」

 縁日の遠い喧騒の中を、二人で並んで歩いている時に、僕は呟いた。彼女はよくわからなかったのか、僕の横顔をじっと見上げる。

 僕の歩みが、遅くなり、やがて、止まる。道の真ん中で止まったせいで、後ろを歩いていた男が、軽く背中にぶつかる。男は、すみません、と会釈して横を通りすぎる。隣には小学生低学年くらいの男の子がいて、右手で男と手を繋いでいて、もう片方の手には風船を握っていた。

「家族になるって、もっと当たり前で、簡単なことだと思ってた」

 大学を卒業して、就職して、結婚して、子どもが生まれる。漠然とそう思っていた。自分の人生だから仕方ないと受け入れている一方で、親を想うと申し訳ない気持ちにもなる。だけれども、今の僕には、家族を持つということは考えられない。

 服の裾をくいと引っ張られる。目を開けて視線を移すと、彼女がこちらを見上げている。悲しそうに、微笑んでいる。「大丈夫」と、ゆっくり彼女の口が動いた。

 僕はぐっと口を結んだ。そうしないと、嗚咽が漏れてしまいそうだった。その笑顔と一言だけで、すべて許された気がした。なんて単純なんだろうか。だけれど誰も、そんなものなのだろう。ただ一人でも、背中を押してくれる人がいれば良い。


 彼女から目を上げると、丁度目の前に石段の階段が伸びていた。この石段を登ると、小さな社があったはずだ。高さ2mほどの小さな社で、何を祀っているのかもわからない。

 彼女が、ぎゅっと僕の手を取る。

「お参りに、行こうか」

 静かな声。これは、避けられないことなのだ。

 僕は、彼女の近くにしゃがみ込み、背中を差し出す。

「おぶっていくよ」

 暫く黙っていると、背中にすっと圧力のようなものがかかった。背中に手を回して立ち上がってみる。悲しいほどに、軽かった。

 石段に一歩、足をかける。腹の底からぐっと力を入れて、逆の足を踏み出す。そこからは止まらずに自然と足が進んでいく。視線は上に、小さな小さな社に据える。祭りの音が、遠くなっていく。喧噪。幸せ。繋がり。それらが、混ざったもの。

「本当に、大きくなったね」

 ふいに耳に届いた、のんびりした声にはっとする。視線を自分の胸元に落としてみると腕が二本、僕の肩から回されている。少女のものではない、大人の腕。細くて切ない、骨ばった腕。僕が全力で握ったら、きっと壊れてしまう。だけれど、どこまでも強くて、僕は一生をかけても、越えられる気がしなかった。

 呼吸が止まって、咄嗟に下唇を噛む。耐えなければ。なぜかそう思ったのだ。男というのは、辛さや悲しみを見せるものではない――父の言葉がよぎって、どうしようもなく腹立たしくなった。どういう感情を持てばいいのかわからなくなって、ぐっと顎に力を入れる。


 間に合わなくて、ごめん。

 声になってくれたかは、わからない。


 二本の腕が、ぎゅっと僕の体を抱きしめる。

 夜の柔らかな風と共に、彼女の言葉が届いた。


 瞬間、僕の心も、身体も、世界も、夜も。境界が無くなって、意識だけになる。僕の胸があったところを中心に、渦を巻くように激しく乱れる。口を限界まで開けようとする。腹の底から溢れる。きっと黒い蛇になって、そこら中に這い出しているのだ。醜く、のたうち回っているのだ。



 ゆっくりと目を開けると、何もない夜が広がっていた。自分が荒い息を吐いていることを確認して、視線だけを動かしてみる。左右には、林。眼下には、石段。呼吸音の奥で、誰かのささやき声が絶え間なく聞こえる。よく聞くとそれは声ではなく、遠くで聞こえる夜の祭りの騒めきだった。尻から、じんわりと石の気配が伝わってくる。ここでようやく、僕は石段に腰かけていることに気が付く。指に鈍い感覚がある。指を組んで、強く握りしめていたらしい。ゆっくり力を抜くと、ぎこちなく指が解けた。


 どうやら、終わってしまったようだった。

 僕はしばらく、身をひそめるようにじっとしていた。日常の空間が、確立するのを待つかのように。

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