とどのつまり

池山谷圭 

序幕

 たとえばそう、目と目が合ったら心が落ち着かないという表現は、面と向かって話をすることが苦手な人には当てはまらない。なにせ相手の目をしっかりと見て話をすることが前提となっているから。けれどそういった表し方があるということは、私が生まれるずっと前は、目を見て話すことが当たりまえだったのだ。


「アナタとぼくハ、まったクべつノ生きモノデス」


 もしも地球で生まれ育ったすべての先人がそうだというのなら。私に話しかけてきたであろうの目であったとしても、なんら心配せずとも見ることのできる方法さえ身に付けていたのなら。どうかその気丈な心と、ほんの少しの勇気を身につける方法を伝授してほしい。その勇気と心で、今すぐ私の頭上から話しかけてきた未知の生命体から逃げ出したい。


「ぼくハ人間ヲ知るためニ、外からやっテきまシタ」


 幼い頃、好きな男の子に駄菓子屋で偶然会ったり、修学旅行であまり仲のよくない子と班になったとき、勇気をもって関わるべきか否かといったような高揚感や不安、緊張が入り交じったような――なんともいえないあの感覚。


「ドウカ怖がらないデくださイ」


 赤子をあやすように柔らかく、ぞわっとするほど低く落ち着いた声。そんな声音からは想像もできない異様な光景を目前にして怖がるなという方が無理だ。現に私は、さっきまで飲みながら歩いていた水筒の蓋を開けたまま、金縛りにあったかのようにぴくりとも動けない。


「ぼくノ調べによるト、夜ノ帳を歩いている人間ハ非行に走った子ドモか、人間ノ持つ一般的な価値観から外れテしまった存在デス」


 かろうじて動かせる目を、ふって湧いた古めかしい本に合わせた。それと同時に、私たちからしてみれば手と呼ばれるは、赤黒い蛸の足のようなものがうごめいていたり、固い甲羅のような鋭い爪が小刻みに動いている。例えるなら、特撮ヒーローに出てくる悪の組織から戦力補充のために魔改造されたような見た目だ。……そう考えるとなんだか格好いい気がしてきた。


「該当しない人間ヲ除いて外出する人間ハほとんどいないイと、この書物に記してありましタ」


 とにかく今の私には、状況を整理する以外に手の打ちようがない。おそらく私を凝視しているであろうまだ見ぬ目から逃げだそうものなら、ホラー映画で重要な人物っぽく映されたのに、物語序盤からゾンビに肩に齧りつかれてエキストラと化してしまうパターンだ。そんな呆気ない死にも関わらず、私の顔が記事やニュースに載ることはなんとしてでも避けたい。しかも名前や年齢まで出されるとはなんたる情報の漏洩だろうか。個人情報保護法が聞いて呆れる。それにもし私が殺されたら、家族のみならず親戚にも迷惑がかかってしまう。――それだけは、絶対に、困る。


「その書物って」


 口に出してすぐに、目の前がぼやけた。


「ど、どこの図書館に……行けば、その――かっ、借りられますか?」


 と、さっきまでゾンビだの個人情報だのと悠長なことを考えていたのに、いざ声を発してみればいつの間にか塩水(決して涙とかいうものではない)が視界を覆っていた。脳内では怖くないと思っていたが、やっぱり身体は正直だった。本当は顔も上げられないくらい筋肉が硬直してるわ、胸の鼓動が耳まで届くほど波打っていてまともに呼吸すら出来ないわで大惨事だ。

 そんな私に追い打ちを掛けるように、目の前に写っている蛸の足のような手が、私の頬へじわり、じわりと伸びてくる。


「ぼくノに興味ヲ持っテ、話しかケテくれたのですカ?」


 いやまぁそうなのですが、そうじゃないといいますか――ちょっとあの、こっちに来ないで下さい。


「そんなヌメ革のような表紙は見たことがないので図書館で借りられるなら読んでみたいなと思って訊いてみたのですが、よく考えてみればそういった本は貸出禁止になっているはずなのであなた自身が買った本ですよね。早とちりしてしまってすみません」


 人は追い込まれると饒舌になるらしい。生まれて初めて知った、という発見はどうでもいい。


「確かにコノ本はボクのものデスが、これハ革ではありまセン。下手装本げてそうほんといっテ、ぼくノ友人カラ貰いましタ。人間ハ本を生み出スという技術だけデハなく、未来の人間ノためニ保管スルといった手間モ掛けていルということモ、この書物ニ記してありまシタ」

「すごい本ですね。その本は古書に見えますが、今まで発行された本や紙がどこに保管されているかご存じですか?」


 頭が真っ白になってきた。冷や汗が止まらない。口の中が乾燥して舌がくっつきそうだ。そして、心なしか声に元気が出てしまった生命体が話しながらも止まることなく私の顔に向けて伸ばしていたうねうねが、


「日本でハ1948年ニ設立されタ国立図書館ニ、発行されタ全てノ本などガ保管されていマス。その他諸外国デモ国が設立しタ図書館ニ保存サれていルことガ多いですヨ」


 ぬちゃりと奇妙な音を立てながら、


「あなたは歴史についてとても詳しい――」


 ですねと言い終えるより先に、ぺたりとくっついて頬を撫でた。


「アナタから学ぶことハ、ボクにとって意義ノあることダト思いマス。どうカぼく」

に人間ニついて教えて下さイ」


 私の頬よりはるかに冷たいそれは頬を撫で、顎に移動する。犬猫を安心させるような触り方だが、悲しいかな、私は哺乳類のヒト科に分類される人間であるため嫌悪感しかない。


「さっきカラ気になっテいたノですガ、血液限りなク薄くなっテいる水で顔ガ濡れていまス。何か悲しいコトでもアリましタか?」


 ふと蛸の足もどき視界を覆い、ひやっこい感覚が瞼を襲った。


「眼球ノ周囲はトテモ脆く敏感でス。ソノ塩分を含んダ水を流すと、皮膚ヤ神経が疲労するダケではなク腫れテしまいマス」


 私は言われてやっと、溢れ出すくらいの塩水を眼球から垂れ流していたことを知った。


「こうシテ冷やすことデ少しハ気分も和らギますヨ」


 生命体の言うとおり、騒がしく鳴っていた心臓が少しずつ落ち着いてきた――そう安堵してしまったのが間違いだった。


「ひ、ぅ」


 何かよく分からない感触のものが唇をなぶり、首筋からちくりとした痛みが襲った。そしてじゅわりと口に溜まったものを反射的に飲み込んでしまう。ほんの数秒たらずのことで、自分の身になにが起こったのか理解できなかった。


「今日ハゆっくり休んデ下さイ」

「……」

「よい夢ヲ」

「――!」


 その後の記憶は断片的だが、ラグビー選手のような体勢で生命体の横を通り抜け、全速力で住宅街を駆け抜け、自宅まで塩水をまき散らしながら走りきったことだけは覚えている。案の定、手に持ったままだった水筒の中身は空っぽになっており、梅昆布茶のいい香りだけが残っていた。


 ――風呂に入らないと。噛まれたとこを確認しないと。

 ――着替えて歯を磨かないと。布団まで行って寝ないと。


 物語序盤から謎の生命体に話しかけられ、肩にちくりとした痛みを与えられた私は、翌日にはきっとゾンビと化しているのだろう。そんな小学生みたいなことを考えながらも不安で眠れなくなるということはなく、ぷつりと糸が切れたように意識がなくなっていた。

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とどのつまり 池山谷圭  @mame01414

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