Belle coeur

YGIN

第1話

 琴の音色はとても安定していました。

 子ども達が微睡んでしまうのも無理はありません。

 シューシャと名乗られた旅芸人の方は、最初こそ我々にとって訝しむべき不逞の輩ではございましたが、今はこうして毎晩、子ども達に健やかな眠りを与えてくださいます。

「今宵もありがとうございました」

 私は子ども達が寝静まった後、宿舎を後にする彼女の背中を追い、深い辞儀を彼女に示しました。

「いーのいーの、いっつもそんなにかしこまらなくって。あたしは好きでやってるんだから」

 彼女はその外ハネの栗色の髪の毛の先端を弄りながら、ニヒッと快活な笑顔を作りました。

 その飾らない風体は、今のあの厳格な王制を思えば確かに不届き物と見られても無理はありません。

 特に彼女のような成人した女性というのは、この国では皆皆貴族のどこかへ嫁ぐか、淑女として修道士となるか、選択肢は限られるのです。

 かくいう私とて、こうやって恋をすることも許されず、身寄りのない幼子達の面倒を見るばかりです。

「そーいやさ、ゲルニッヒはどこか行ったの? 最近見ないけど」

「誠に申し上げにくいのですが……ゲルニッヒ様は戦に出ていかれてしまいました。いつお戻りになられるか、あるいは……」

「あっ、そっか。そーなんだ。いーよいーよ、ごめんね、気を使わせちゃって」

 シューシャさんは変わらず笑顔を崩しませんでした。

「それじゃ、もういくね」

 私は彼女を引き止めました。

「ああ、お待ちください。毎晩毎晩、頭が上がりません。今日こそは泊って行かれては? 子ども達を朝起きたらシューシャお姉さんの存在に喜ぶことでしょう」

 しかし変わらずシューシャさんは照れくさそうな調子で言いました。

「あはは、いっつも同じセリフだね。でもね、ごめん。私ほんとは子どもとか苦手なの。旅先でも意地悪な男の子とかに会うといっつも喧嘩しちゃうしさ、ふふ。だから、あーやって、これで寝かしつけるぐらいがちょーど良い感じなの。それに今日泊まるとこももう決めてるんだ―」

 私は至極残念そうな口調で返事をしました。

「さようでございますか。しかし、シューシャさんも旅人であらせられます。この街に来て暫くになりますので、そろそろ旅立たれてしまうのではないかと不安で胸が痛いのです」

 そういいつつも私は既に胸を痛めていました。

 なぜなら当初、我々は彼女を追い払おうとさえしていたのですから。それだというのに、今では彼女を引き止めようなどと、あまりに虫の良すぎると自分でも思うのです。

 それでもシューシャさんは、屈託のない笑顔を私に向けてくださいました。

「だーいじょぶ。あと少しはここにいるよ。でもほら、ここちょっと今、きびしーからさ。まぁだからこそ来たんだけど……。でももーちょっとは大丈夫だよ!」

 しかし私はそれを聞くと途端に不安になりました。

「私としたことが、何と考えのないことを。いけません、急に嫌な予感がしてまいりました。仰る通り今はあまり治安の良いところではありません。やはり、シューシャさんはそろそろこの国を発った方が良い様な気がします。それともやはり私共の宿舎で身を隠されては」

「いいって、いいって。私芸人だから。芸人が隠れてコソコソしてちゃ商売あがったり。それに辛い時だからこそ、皆を愉しませなくちゃね」

 彼女はそういうと片目を閉じてウィンクされました。

 とても可愛らしく、貴族に目を付けられれば、たちどころに求婚されるに違いありません。

「あぁ、申し訳ございません。差し出がましい真似を。しかしくれぐれも、道中はお気を付けください。私共で良ければいつでもお力添えいたします」

「ふふっ、ありがと、ナジェンダ。ふわぁ……。おっと。私もそろそろ眠くなってきちゃった。それじゃあ、もう行くねっ!」

 そうして彼女はふわりとまるで子ども達と同じようなあどけない欠伸を浮かべたかと思うと、威勢よく手を振って私の元を後にしました。

 私は、ありがとうございます、と何度もお礼を言いながら彼女の背が視えなくなるまで手を振り続けました。



 翌日、少し黄砂が気になるほどによく晴れた日でした。

 私は洗濯物を一通り干し終えた後、留守はイルミナとサシャに任せて、街へ出ました。

 今日は市場に果物が多く入荷される日で、食べ盛りの子どもが多い我々にとっては、この日の特売は見逃すことが出来ません。

 私はかつてまだ活気のあった頃からいる果物屋の店主と他愛のない世間話をしたあと、寄り道せず宿舎へ戻ろうとしました。

 しかし、道中で、人だかりができているのを見つけ、どうしても気になってしまいました。

 もしかしたらシューシャさんとお仲間たちが大道芸の一つでも嗜んでおられるのでは、と期待したからです。

 そういえば、実際にシューシャさんが昼間活動しておられるのを見るのは初めてでした。

 だからでしょうか、私は早く帰らないとイルミナとサシャに悪いと思いつつも、多くの果物を入れた籠を抱えながら、人だかりの肩を縫って前へ前へと進みました。まるで、少女の頃に戻ったかのようでした。小さいとき、原っぱを縦横無尽にかけていたのを思い出しました。誰だったか、名前も忘れてしまいましたが、男の子も女の子も混じって楽しく遊んでいたの思い出しました。あの頃はまだこの国も大らかな時が流れ、平和でした。


 さて、しかし私は開放的な気持ちになって、いざ人だかりの列の最前列へ抜けた途端、目の前の光景を直視して果物籠をゴトリと地面へ落としてしまいました。


 興じられていたのは大道芸とは似て非なるものでした。いえ、似ているなど、一縷でもその琴線に触れるなど、身の毛もよだつほどです。


 そこには三人の成人遺体がはりつけにされ、並べられていました。

 遺体という他ありません。なぜなら首は斬り落とされ、大量の血液が首元に付着し、まるでトマトをぐちゃぐちゃに擦りつけたかのように、赤くただれていたからです。

 私は頬からはすぐさまに涙の滴が零れ落ちました。

 そして唇がワナワナと震え、肩も腕も足もガクガクに痙攣して、とうとう立つこともままならず、黄土色の砂の地面に膝をついてしまいました。

 

 三人の胴体のすぐ側では、三つの首が並べられていました。

 残り二人の方は知らない方のものでしたが、右から三番目に並んでいた美しく可愛らしい顔は見間違えようもありませんでした。

 シューシャさん……、なぜ! こんなことが! あってはならない……。


 うぅ、うぅ。私は訳が分からなくなりただただ呻きました。私が呻くのを周りの人だかり達は、気でも狂ったのかというような調子で睨んできましたが、私は気にしませんでした。

 遺体の横にいた体躯の良い兵装の男は声高らかに述べました。

「ここの三人の輩は最近この界隈で、わが国の崇高な民を誑かしていた。我々は暫く様子をうかがっていたが、昨夜ついに陛下より斬首の命が下された。この愚かで醜い外国人共に心を惑わされた者はこの醜悪で生臭い死体に石を投げつけよ。そして身を清め、明日よりまた清く正しい社会へ身を投じるように」

 そう言い残すと、男は幾らかの兵士とともに、きびきびした動作でその場を後にしました。

 このお三方の遺体を埋葬する気など毛頭ないのでした。

 ただこのまま腐敗し朽ち果てるまで、放り出して置く予定なのでした。

「知ってるぜこいつら、妙な踊りで金を巻き上げてやがった」

「何と露出の多いはしたない格好だ。何とあさましい。神への冒涜か」

 群衆は次第に増え、そして彼らは当然のように、はりつけにされた遺体、そして隣に添えられた首に対して近くの石を拾っては投げつけ始めました。

「やめてください! やめてください!」

 私は思わず立ち上がって、震える足をもつらせながらも、シューシャさんの遺体へ駆け寄りました。

 駆け寄る最中で、私にも容赦なく石が降り注ぎました。

「見ろあの修道女、気が狂っている。悪魔にそそのかされたのだ」

「何と罪深い」

「知っているぞ、あれはオルタナ修道院の女だ。あそこで小汚い餓鬼共を匿ってやがるんだ」

 群衆はいくらでも言いたいように、罵声を浴びせてきました。

 まるで日頃の鬱憤を晴らしたいとばかりに、彼らは猛っていました。


 私は額に当たった幾つかの石が原因で、目の近くを流血してしまったようで、片目が血で滲んで辺りが見渡せなくなりました。それでも私はシューシャさんの遺体を守ろうと必死に手を広げました。

 どうにもならないと悟っても、無我夢中でその場に居続けました。


 暫くして、人々は興が覚めたのか、日常の過酷な労働ノルマを思い出したのか、次第に散っていきました。

 私はしまいには石だけではなく、あちこちを木製の棒で叩かれたり、蹴られたりしましたが、それでもシューシャさんの傍からは片時も離れませんでした。


 しかし、次第に意識は遠のいていき、私はシューシャさんのあの、罪なき真っ直ぐな瞳を思い出しながら、長い眠りについてしまいした。







 夜もふけり、とうとう誰もいなくなったその場所。

 三人のご遺体と私だけが残ったこの場所に、騒ぎを聞き、常闇に乗じて駆け付けてきたイルミナとサシャによって私は抱えられ、宿舎へと運ばれたようです。


 私は三日ほどうなされながらベッドで眠っていたそうです。

 そうして私は目覚めると、夜でした。

 

 私自身は、いったい何日目の夜なのか皆目見当もつかない夜でした。

 

 しかし、有り得ないことに、ベッドのすぐ脇にあった木椅子にはシューシャさんが腰掛けておられました。

「おはよっ、ナジェンダ。よく眠れた?」

 私は彼女が幻だとすぐに気が付きました。

 このいつも私が眠るベッドの脇にあった木椅子は、わんぱくなテトリという男の子が随分前に壊してしまったからです。

 そこに立派な木椅子があるはずもないのです。

 それでもシューシャさんはいつもと変わらない笑顔で、こちらまで元気づけられそうなぐらい明るい声色で、その木椅子に腰かけながら続けました。

「トーヤっていう私の仲間がいるんだけどさ。そいつが次は東の方に行きたいってぶつぶつ言い出してさ。詳しく聞くと何かお母さんが病気になったらしくて心配なんだって。はは。そこまで言われたらほっとけないよね。だから、ごめんっ! ごめんね、ナジェンダ。もう準備してあさってには船に乗ろうと思う。すっごく、楽しかったよ。また会おうね!」

 これは私の願望だと自分で確信しました。

 こんな風にある日別れを告げられて、惜しむらくまた次の国へ発ってしまうシューシャさんの姿を私は強く強く、心の奥底で望んでいたのでしょう。

「ええ。ええ。今まで、今まで本当にありがとうございました。子ども達は夜の間だけでしたが、とても幸せそうでした。シューシャさん、あなたはとてもかけがえのない人望をお持ちなのです。どうか、どうかご自分を大切に」

 なさってください。

 私が語気を荒げながらそう続けようとすると、しかし彼女はフッと立派な木椅子とともに消えてしまいました。


 私は気付きました。

 自分の左目がぐるぐると包帯で巻かれていることに気付きました。

 恐らくは片目が塞がれて、あるいは民衆から手ひどい仕打ちを受けたために、頭が酷く疲れ幻覚をみてしまったのでしょう。

 ですが、私はそのおかげで彼女の幻覚が視られたのならばよかったと思いました。身を挺して彼女の遺体を庇ったことを神が評価されたのだろうと信じました。


 しかし、私は現実もまた今一度受け止め、立ち向かわなければならないと感じました。

 私は重い足取りながら寝室を後にすると、シューシャさんの遺体をしっかりと埋葬する、この命が尽きようともそれを全うすると心に誓うのでした。



 



















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