後編

 その不思議な一夜の後、七月も半ばを過ぎた金曜日のことである。


 菜摘は無事に自動車学校を卒業することができた。

 そして、最後の卒業検定の担当教官は五百旗頭だったが、彼はその時は何も小言は口にしなかった。

 菜摘は車の運転をする時、長い髪を下ろして大きな黒いセルフレームの眼鏡をかけている。一方、居酒屋で働いている時には、後ろでまとめてポニーテールにし、眼鏡をかけていなかった。

 これだけのことで女の印象はまったく変わるから、五百旗頭は自分のことに気がついていないものと菜摘は思っていた。

 ところが、彼は最後に進捗を記した記録簿を見つめながら、

「ご苦労様。それからこの間は有難う」

 と、一言小声で呟いたのである。

 卒業検定は数人が同じ車に乗って受験するから、他の同乗者にはなんのことか全く分からなかったに違いないが、菜摘はひたすら恐縮してしまった。


 *


 そして、とうとう八月のその日がやってくる。


 午後八時より少し前、『小暮』に見たことがない男性客が二人連れでやってきた。

 一人は四十代後半の、苦労して生活を守ってきたような穏やかな白髪頭。

 もう一人は二十代後半の、何かを貪欲に吸収し続けようとする茶髪頭。

 暑い盛りなので、駅に向かう途中で急にビールでも飲みたくなったのだろう。たまにはこういう一見の客もいる。

 そして、今日は目付きの悪い常連客もいなかったので、二人はすんなりと店に入るとカウンターに座った。

 二人はまず酒を見繕う。

『小暮』には瓶ビールしか置いていないので、二人とも瓶ビールを注文した。

 続いて、つまみを選ぶ。

「お急ぎの枝豆と、ねぎま、鳥皮、つくねの焼き鳥三品に、わかめの酢の物をとりあえずでお願いします」

 そう言った後、初老の男と若者はぽつりぽつりと話を始めた。

「やっと所長の結論が出たな」

「そうですね、やっとですね」

「前の所長が定年退職して間もないからな。証拠集めに慎重を期したのかもしれないが、資料の作成は大変だったろう。ご苦労さん」

 二人はビールを注いだコップを軽く合わせる。

 一口飲んだところで、今度は若い男から口を開いた。

「中村さんが申し渡しをしたんですよね。彼は何か言っていましたか」

「彼は『ああ、そうですか』と言っただけだった」

「そうですか……」

「残り一週間で、簡単な引き継ぎを終わらせて書類をまとめたら、辞めるそうだ」

「そうですか」

「仕方ないな」

「そう、ですね」

「ネットで彼の情報が流れるようになって評判が下がり、客が減った、と言われていたからな」

「……」

「しかも、今回の所長は前と違って、彼の擁護は一切しないと最初から公言していた」

「そう、ですね」

「まあ、仕方がないか」

「……」

 菜摘は、少し前に終わった振興会定期会合の後片付けに追われながら、言葉少なに会話を続ける彼らの様子をそれとなく見ていた。

 何の話か皆目見当もつかないが、「仕方ない」という言葉と裏腹に、彼らが全く納得していないことが浮き彫りになっている。

「この後どうするんでしょうか」

「さすがに今日だからな。何もあてはないが、どこか他のところに行くことになるかもしれない、とは言っていたな」

「どこか、って。あの年で失業したら、なかなか真面な仕事なんか見つからないでしょう?」

「そうだな」

 初老の男の一人はビールを飲み干して、空のコップをテーブルに置きながら言った。


「どうするんだろうな、五百旗頭は」


 机を拭いていた菜摘の手が思わず止まった。

 大将の方を見ると、大将の眉間みけんの皺が深くなっている。

 そうとは知らずに、初老の男は話を続けた。

「ところで、お前、月曜日の会議資料に黙って追加を入れただろう」

「……」

「あの、ネットで拾った女性の話だよ。雨の日に運転していて、五百旗頭教官の言葉を思い出して一時停止した」

 初老の男はおしぼりを取ると、それを車に見立てる。

「そうしたら、目の前を気づいていなかった自転車が走っていった」

 自転車は枝豆だ。

「思い出さなかったら事故になっていたのは間違いなかった、っていうやつ。『厳しく言って貰ったからこそ、記憶に残りました』って、あれだよ」

 下を向いていた若い男は、覚悟を決めるように顔を上げて一息つくと、こう言った。

「私は五百旗頭教官が苦手でしたが、悪い人だとは思ったことがありません」

「ほう」

 初老の男は目を細めた。

「ネットの情報だって、お客様視点で彼のことを偉そうだと言っていますが、それは今の若者が、頭ごなしに言われることに単に慣れていないからです。よく考えれば、五百旗頭教官の言っていることが正しいことに気がつくはずなのに、それが出来ないのは、車の運転で一番重要な『周囲を思いやる力』に欠けていることの証明で、そんな人が免許を取得してはいけないんです。自動車学校は幼稚園じゃないのですから、生徒が機嫌よく、気持ちよく過ごせる場である必要はないんです。むしろ、本当は殺人マシンを野に放つ可能性を考えて、厳しく選別しなければならないはずなんです。だから、五百旗頭教官のやりかたは商業ベースに乗らないけれど、間違ってはいなかったと思います。それが今の所長には分からないんです」

 怒られることを覚悟の上で長々と話したのだろう。若者の顔は紅潮していた。

 初老の男はふと眉間の皺をゆるめると、

「資料の件はよくやった。今の発言は会社員としては失格だが、自動車学校の職員としては満点だ」

 と、笑って言った。

「えっ」

 若者は褒められて驚く。さらに顔が赤くなった。

「今日はおごる、まあ飲め」

 初老の男性は若い男にビールを注いだ。

 そこに、大将が

「どうぞ」

 と、小鉢を差し出す。

「これ、注文していませんが」

 初老の男性がいぶかしそうに言うと、大将は彼にしては珍しいことに、笑いながら言った。

「サービスです」

 菜摘は厨房の隅で、客席に背を向けて洗い物を始めた。

 そうしないと、こぼれる涙が誤魔化ごまかし切れなかったし、口からどうしても洩れてしまううめき声が水音で隠せなかったからだ。


 当の五百旗頭は、その日も、そして一週間を過ぎても、『小暮』には姿を現さなかった。


 *


 そして、翌年の六月六日。

 菜摘はいつもよりも早目に『小暮』に到着すると、大将には何も言わずに奥の小上がりに予約席の立て札を置いた。

 大将は前の年と同じように競馬新聞を読んでいる。しかし、おそらくは冷蔵庫の中で仕込みは完了しているはずだった。

 菜摘も前の年と同じようにカウンターの奥で水を飲み始めた。

 彼がこの店にやってくるという確証はなかった。

 しかし、大将が言葉少なに語った五百旗頭の話から、菜摘は、

「今年も来てほしい」

 と願わずにはいられなかった。それは大将も同じだったと思う。


 以下、大将の話を要約する。

 本当はこんなに簡単ではないのだが、あまり具体的に語りたい内容ではない。


 *


 五百旗頭はもともと普通の会社で普通の仕事をしていた。

 三十歳で同じ年の幼馴染と普通に結婚をして、二年後に普通に娘が生まれて、普通に幸せに暮していた。

 ただ、普通以上には妻と娘のことを大切にしていたようだと、大将は語った。


 彼の生活が一変したのは、十年前の六月六日である。

 その日は会社の部下が結婚退職することになり、その送別会で帰りが遅くなった。

 彼の家は少し奥まったところにあり、普段は駅からバスで行き来していたが、少しでも遅くなると便がなくなる。そのため、彼は電話で妻に「迎えに来てほしい」と頼んだ。

 かなり遅い時間ではあったが、小学生の娘は起きていて、

「一緒に迎えに行く」

 と言って聞かない。

「帰ったら早く寝るんだよ」

 という約束をして彼が許可した時、電話の向こうから娘の喜ぶ大きな声が聞こえた。五百旗頭は駅前にあったベンチに座って、その歓声を再生しながら二人を待つことにした。 


 そして運命の時。

 妻と子が乗った軽自動車は、駅までの途中にある緩やかなカーブを制限速度で走っていた。

 彼の妻は慎重な性格で、あまり運転が得意なほうではない、と自分では考えていたからである。ただ、五百旗頭はそうでもないと思っていた。

 そこに、免許を取ったばかりで浮かれていた若者の車が、速度超過で曲がりきれず、車線を越えて衝突してきた。

 軽自動車は弾き飛ばされ、道路脇のコンクリートに叩きつけられた衝撃で大破し、相手の車は、そのままであればコンクリートに叩きつけられていたはずが、逆に衝突したことで道路上に踏み留まった。

 もっと端的に言う。彼の妻と子供は即死し、そして若者は助かった。

 駅のベンチに座っていた五百旗頭は、パトカーと救急車のサイレンを聞きながら、それが意味するところを知らずに待ち続けていたという。


 事実を知って彼は荒れた。

 相手の若者を恨み、殺したいと思った。

 車を恨み、破壊したいと思った。

 車を運転する者は殺人鬼であると思った。


 そして、ふらふらと自宅から駅までの間を彷徨さまよっていた時に、自動車学校を見つけた。その時の彼には、そこが『殺人鬼の養成所』にしか思えなかった。

「あのままだったら、中に駆け込んで何をしたか分からない」

 彼が大将に言った言葉である。

 門から恨めしげな目で中を睨んでいた時に、そこの所長に声をかけられたという。

 彼の話を聞いた所長は、彼に自動車学校の教官になることを勧めた。

 そして所長の真摯さに心打たれた彼は、その提案を受け入れることにした。

 必要な『教習指導員』と『技能検定員』の資格を取得すると、五百旗頭は自動車教習所指導員として人生を再スタートさせることになった。

 最初のうちは思いだけが暴走して失敗も多かったが、所長はそんな彼の相談に乗り、失敗をフォローし続ける。

 ただ、交通事故被害者家族であることは彼が所長にお願いして、誰にも知らせなかった。それで『可哀想』という予断を与えることを彼が嫌ったからである。


 仕事にも慣れ、生活も安定し始めた頃、第二の波が来た。

 事故から三年が経過した春、彼の元に手紙が届き始めたのだ。手紙の差出人は事故を起こした若者で、その内容は厚さから「犯した罪を懺悔ざんげする」ものと思われた。

 それが、一か月に一回、毎回かなりの分量で届く。

 しかし、彼はその手紙をどうしても開くことができなかった。自分の大切な妻子が既に亡くなっているというのに、加害者はまだ生きているという事実に、彼はなかなか直面できなかったからだ。

 かといって、手紙を無視し続けることもできないし、捨てることも五百旗頭にはできない。その手紙に込められた思いや、それを書くために投じられた膨大な労力は、中身を見なくても分かる。

 一人で懊悩おうのうした末に、彼がその話を所長にしたところ、所長は彼を『小暮』に案内したという。

 話を聞いた大将はこう言った。

「じゃあ、うちに来て読め。奥さんと子供の好物を準備するから、それを前にして命日に読め」


 それから彼の『手紙を読む日』が始まった。


 *


 時は静かに過ぎていった。


 途中、引き違いの戸が開けられ、菜摘は思わず腰を上げた。

 しかし、戸の向こう側からのぞいたのは全く違う顔である。

「空いてますか?」

 菜摘は大将の方を見た。

 彼がゆっくりと首を横にふったので、菜摘は、

「ごめんなさい。今日は予約のお客様が入っていて」

 と言って、不満そうな客に頭を下げてお帰り頂く。

 すると、また時は静かに過ぎた。

 壁掛けの時計が午後九時を回る頃。

 ――もう来ないのだろうか。

 菜摘がぼんやりとそんなことを考えていた時、引き違い戸がまた開かれた。菜摘は即座にその方向を見る。


 戸の外には、よれよれの作業服を来た五百旗頭が立っていた。


 以前も貧相だったが、輪をかけてひどい有様である。

 暑いさなかに作業を続けていたのだろう。作業服には汗染みがそこら中に浮き出していて、生ごみと汗が混じりあったような異様な臭いがしている。それが、今の彼の生業なりわいを如実に現していた。

 ただ、その過酷さとは裏腹に、五百旗頭の表情はとても清清すがすがしい。

 昨年やってきた時の彼の雰囲気が「修行中の僧侶の他を寄せ付けない厳格さ」だとすると、今日の彼は「全てを受け入れて悟りに達した僧侶の明澄さ」である。

「親父さん、済まない。とてもここに来られる格好じゃないんだが」

 頭を下げる五百旗頭に、大将が言った。

「構わないよ、いつも通りだ」

 それは穏やかな、とても穏やかな声だった。そして、大将は奥の小上がりを目で示す。

「本当に済まない。仕事の合間なので長居はしない。そして、申し訳ないんだが今日は連れがいるんだ」

 そう言うと、五百旗頭は後ろを振り返って言った。

「入ってくれ」

 その言葉に続いて入ってきたのは、二十代後半の若者だった。

 同じように汗まみれで、同じように体中から悪臭を放っていた。

 ひどく痩せており、頭を坊主刈りにしている。

 菜摘は彼のひどく生真面目な体の動きや、俗世間に慣れていない目つきにたじろいだ。


 これは恐れではない。

 自身の過去に対する居たたまれなさである。

 彼女もその雰囲気を身にまとっていた時期があるから、彼が最近までいた場所がどこであったのか分かった。


 黙って二人は奥に歩いていった。そして、五百旗頭は手ぶらだった。

 大将はその姿を見送ると、しばし腕組みをしながら考え、そして前の年と同じく注文も聞かずに調理を始めた。

 ケチャップの香りと、木の芽の香り。

「そらよ」

 と言って大将が差し出した盆の上には、去年よりも小さいけれど、しっかりとしたオムライスが二つと、筍の木の芽和えが二つ載っていた。

 それで菜摘は全てを了解した。

 

 そして、五百旗頭の「手紙を読まなくてよい日」が今後も続くよう祈念しながら、彼女は少しだけおごそかな足取りで盆を運ぶことにした。


( 終り )

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黒窓町商店街振興会 外伝 手紙を読む日 阿井上夫 @Aiueo

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