黒窓町商店街振興会 外伝 手紙を読む日

阿井上夫

前編

 六月六日の月曜日という、中途半端な季節の中途半端な日のことである。

 しかも、その日は朝から粒の荒いまばらな雨がべしゃべしゃと降り続いており、テレビの天気予報でも「一日中降り続くでしょう」と言っていた。

 ――当って欲しくない予報ほど良く当るから、今日はこのまま降り続くのだろうな。

 そんなことを考えながら阿部菜摘は居酒屋『小暮』で、することもなくぼんやりとカウンターの隅に座っていた。

 手元には水の入ったグラスが一つ。これが酒であれば気分も晴れるところだが、菜摘はこの店のバイトであり、今は仕事中である。

 それにしては「お客さんがいないからといって、そんなだらけた態度でいいの?」とお叱りを受けそうな姿だったが、店主である小暮――通称「大将」自身が厨房で、スチール製の丸椅子に座って競馬新聞を広げていた。だから、お叱りも何もあったものではない。

 時刻はそろそろ午後七時になろうとしていた。普通ならば客商売にとって戦闘開始の時刻であり、一人ぐらい客がいても不思議ではない時刻なのに、今日に限って誰の姿もない。

 締まりのない一日。ただ非常に雨の似合う日ではある。

 ――六月六日に雨ザアザア降ってきて。

 菜摘の頭の中では、うろ覚えの絵描き歌が繰り返し再生されていた。


 *


 JRの駅がある町は、三重県四日市市のような私鉄と競合して負け越しているところ以外は、だいたいそのJRの駅が街の中心になっている。

 東京都の市部の一角にある黒窓町もそのたぐいの一つで、駅東側のロータリーが全ての起点となっていた。

 菜摘のバイト先である『小暮』は、駅の北側改札口前から東に向かって線路沿いに延びる黒窓町商店街の一角にあり、普段は目付きの悪い危険な匂いのする男達か、同じ商店街に店を構えるあるじしかやってこない店であった。

 より正確に状況を説明すると、目付きの悪い男達がたむろするものだから、一見いちげんさんは店内の様子を一瞥いちべつするなり、顔を引きらせて逃げていくのが常である。

 彼らはほぼ日替わりで一人ずつやってきては、カウンターに座って長居をしていく。

 と言っても、決して地場ヤクザの営業妨害ではない。彼らは至極大人しく、大将と二言三言話をしながら静かに酒を飲んで、帰ってゆく。菜摘が知る限り、今まで他の客と悶着を起こしたことはなかった。

 また、商店街の店主達のほうは最年長の白石を中心として黒窓町商店街振興会という親睦団体を結成しており、月一回、定期的に『小暮』で会合を開いていた。

 とはいえ、会員が五名しかいないこぢんまりとした団体である。たまにそのうちの一人がふらりと現れたりもするが、個人事業主なので頻繁にはやってこない。そのため、売り上げには殆ど貢献していなかった。

 というわけで、酒の質と料理の味はかなりの水準なのに、店内はいつも閑古鳥すら手持ち無沙汰な状態であった。

 どうやって大将が菜摘のバイト代を稼ぎ出しているのか、彼女は疑問で仕方がない。しかし、聞いてもどうせ答えてくれないだろうと思い、そのままになっていた。


 *


 ――今日はなんだか一日が長そうだな。

 菜摘はぼんやり考えた。

 これは物理的な時間の長さではなく、心理的な時間の長さのことを指している。

 菜摘のバイトの始まりは午後四時である。店の開店時間が午後五時だから、開店準備のために一時間前には来るように大将に言われていた。

 ところが、閉店時間の午後十一時になると、後始末は大将お任せで菜摘は先に店を出される。また、彼女も一応は女性なので、午後十一時を過ぎると常連さんから、

「菜摘ちゃんはそろそろ帰ったほうがいいんじゃないの」

 という声がかかることがあり、それが終了の合図ということもあった。

 彼女自身は夜遅くなっても全然構わない。午前零時を過ぎたとしても、菜摘の住むアパートは近所にあるので、歩いて帰ることが出来る。

 それに、只今現在の彼女の外見からは分からないが、菜摘は人には言えないやんちゃなことを散々やってきた身の上である。深夜に一人で街を歩いても一向に問題はない。というより、昔は散々やっていた。

 むしろ、何か仕掛けてきた相手に同情するほどの危険な生き物なのだが、大将から、

「先に帰れ」

 と言われれば、菜摘は大人しく帰ることにしていた。

 いずれにせよ、この調子だと今日は遅くなることはないだろう、と菜摘は思った。彼女にとっては、夜遅くなることよりも終わりまでの体感時間が長いほうが辛かった。

 だからといって、大将と一緒にいるのが気詰まりという意味ではない。彼は口煩くちうるさ性質タチではないし、自身が適当に肩の力を抜いて生きているので、菜摘の動きにも寛容だ。

 それに、バイトとして拾ってもらった複雑な経緯から、彼女はむしろ大将のことを深く信頼していた。一緒にいるとむしろほっとするぐらいに。

 そして、客がいないのはいつものことである。それが辛い訳でもない。

 心理的な時間が長くなる点は、ひとえに彼女の性格に起因していた。

 菜摘は自分自身のことには淡白であるにもかかわらず、好奇心が人一倍強い。気になることがあると落ち着かなくなる。そしてその日、菜摘は出勤してからずっと気になって仕方がないことがあった。


 奥の小上がりの机に「予約席」という立て札が置いてある。


 そこは、詰め込めば十人ぐらいは座ることができる広さがあり、商店街の会合と年末の宴会シーズンにはフル稼動している。しかし、この時期のこの曜日に予約が入っているのは極めて珍しい。

 しかも、大将が下拵したごしらえに励んでいないところから、団体さんの宴会予約ではないと分かる。それに、団体さんが入っていたのであれば、大将が、

「菜摘、明日は団体」

 と、言葉は少ないながらも事前に菜摘に教えてくれるはずだった。

 既に開店から二時間を過ぎているにも関わらず、予約客は誰一人姿を見せない。単に立て札を仕舞い忘れて置きっぱなしになっているようにも見える。実は、菜摘は開店準備の時に立て札を片付ける素振りを見せたのだが、大将から、

「それは置いとけ」

 という重い声で制された。

 加えて、菜摘にはもう一つ気になっていることがあった。

 高校生の時分から『小暮』でバイトを始めて、今年で五年目に突入したが、六月六日だけは今まで大将から「休みだ」と言われて休んでいた。といっても不定休の『小暮』が休みという訳ではなく、菜摘自身の休みである。

 彼女はいちいち物事にこだわるほうではなかったから疑問にも思っていなかったのだが、今年はカレンダーを見て先に気がつき、自分のほうから、

「今年の六月六日も休みですか」

 と聞いてみた。

 すると、大将はしばし腕組みをして考え込み、二分後にようやく、

「今年は出てくれ」

 と言った。

 だから、菜摘がこの店のバイトを始めてから六月六日に勤務をしたのは、今回が初めてである。

 壁掛時計を見ると、時刻は午後七時十五分だった。


 店の入り口にある引き違い戸を開ける音がした。


 菜摘は立ち上がると、

「いらっしゃいま、せ」

 と、声を上げた。

 この、途中の微妙な間には理由がある。

 引き違い戸を開けた人物は、前屈みの姿勢で店に入ってきた。暖簾のれんくぐるためにそうしたのかと思いきや、中に入ってもそのままの姿勢を維持していた。

 よく見ると胸元にある何かを覆うようにしている。外ではないのだから雨に濡れる心配はない。しかし、自分の身体に染み渡った雨水で濡らすことも躊躇ためらわれたのだろう。

 白髪交じりの髪は濡れそぼって地肌に張り付き、あごの先からポタリポタリとしずくが絶え間なく落ちていた。頬骨が浮き上がった顔に、小さい目と前歯の出た口が載っており、年齢は五十歳の前半と思われる。

 痩躯そうくを包む、焦げ茶のジャケット、白いシャツ、グレーのスラックスという地味な服が、やはり濡れそぼっていた。申し訳ないとは思いつつ、それでも菜摘はこう思わずにはいられなかった。

 ――川に落ちた鼠。

 彼は、足早に店のカウンターに近付くと、ジャケットの胸元から合成皮革製と思われる鞄を取り出して、それを素早くカウンターに置いた。

 鞄はたいして高いものとは思えなかったが、それをカウンターに置く彼の手の動きは、とても丁寧だった。

「親父さん、済まない」

 男は低い声でそう言うと、ポケットから出したグレーのハンカチで頭を拭い始めた。が、そんなものでは全然追いつく量ではない。菜摘は急いでレジの裏に重ねておいてあるタオルを三枚取り出すと、

「どうぞ、お使い下さい」

 と、男に差し出した。

「済まない」

 と言って男は頭を下げ、タオルに手を伸ばす。受け取る際、男の手が彼女の手に触れ――菜摘は男の手の雨に濡れただけとは思えない冷たさに驚く。

 男は、三枚のタオルを使ってひとしきり水気を拭き取ると、使い終わったタオルを一つずつ、角を揃えて丁寧に折り畳み始めた。

 ――どうせそのまま洗濯機に放り込むのだから、そこまでしなくても大丈夫ですよ。

 と、菜摘は言おうとして、彼の視線とその手の動きの真剣さに息を呑んだ。

 タオルの端と端を揃えて二つ折りにし、それをまた丁寧に合わせて四つ折りにする。

 菜摘も実際に見たことがあるわけではないが、それだけの動作が僧侶が袈裟を畳むような真摯さに満ちていたのだ。

「ありがとう」

 そう言って綺麗に畳んだタオルを彼女に手渡すと、男は大将のほうを見た。

 大将は黙って目で小上がりを示す。

 男も黙って頭を下げると、小上がりの方へと歩いて行った。その背中が小さく見えた。

 濡れたタオルを手にして、小さな男の背中を見つめながら、菜摘は少しの間立ち尽くしていた。

 彼女はその男が何者なのか、そしてどれほど悪名高いかを、非常に限定された情報から知っていたからである。


 *


 その年の五月から、菜摘は複数のバイトで貯めたお金を注ぎ込んで自動車学校に通うことにした。

 そこに至る経緯は以下の通りである。


 定時制高校を卒業するまでにさんざん時間をかけた菜摘は、卒業の時点で既に二十一歳になっていた。

 定時制高校にも高卒を対象とした求人はあったが、それに乗ることができるほど若くはなかったし、求人の殆どを占める事務や販売という職種は、性格からして自分には合わないことが分かっていた。

 それに菜摘の経歴はこの上なく黒い。学歴中心の書類選考には不利であるから、それを迂回したり、一所懸命に糊塗ことして他に目を向けさせたりする必要がある。そのためにも資格を取るのが一番だった。

 アルバイトでも生きてはいけるが、自分の力で世の中を渡っていけるだけの技能を身につけたい。できれば看護士や保育士などの資格を使って生きていきたい。

 しかし、それを取得するためには先行投資が必要となる。そして、彼女にはその資金がない。

 せめて自動車免許があれば、アルバイトでも選択肢が広がる。資格取得のための資金稼ぎが楽になる。

 運転免許を持っていたほうが、資格取得後も有利だ。いやいや、もっとはっきり言うと、自分では運転免許ぐらい持っていないと、今後どうにもならない。

 また、黒窓町商店街を抜けた先の、大学や大規模なショッピングセンターのあるエリアには自動車学校があり、そこまで自転車で三分程度だった。バイトの合間に通うのに大変に都合が良い。

 ――よし、じゃあ、まずは自動車免許を取得しよう。

 ということで、菜摘は虎の子を抱えて自動車学校に入学した。


 高校卒業や大学卒業の前の駆け込み需要も終わり、まだ学校になれない大学生もやってこないこの時期の自動車学校は、閑散としていた。

 教官達もなんだか投げやりで気の抜けたような人が多く、彼らの指示に従って、菜摘は右に左にハンドルを切り、アクセルとブレーキを交互に踏む。その繰り返しで、一つずつ単位を貰うという日々がしばらく続いた。

「なんだか初めてとは思えないねえ」

 教官の一人が言ったが、実はその通りである。

 菜摘は運転が初めてではない。大きな声では言えないが、免許はなくとも車を動かしたことはあった。

「思い切りがいいねえ、女の子で最初からスピードを出せる子は少ないんだよね」

 別な教官がそう言ったが、菜摘はもっと出せるところをかなり自制していた。

 そんな具合に、たいした苦労もせずに彼女は修了検定まで順調に進んだ。


 ところが、この修了検定でボスキャラが彼女の前に立ちはだかる。


 最初、彼の胸についている名札を見て、菜摘は驚いた。

『五百旗頭』

 読めない。そもそも本当に名前なのか、暴走族のヘッドか何かではないか、と疑う。

 もやもやした気分のまま乗車前点検を行って車に乗り込むと、車の中にある入替式の教官表示板――顔写真と氏名が記載されたものを見て、やっと菜摘は納得した。

五百旗頭いおきべ真一』

 明らかに人名である。彼女は安心して修了検定に突入した。

 自分でもスムースに手順に従って車の操作を行ない、全てのミッションをクリアして車を所定位置に停車する。自分でも「よし、やった」という達成感を感じていると、五百旗頭教官がぼそりと言った。

「はい、不合格」

 驚いた菜摘が理由を問うと、彼は、

「乗車前確認の手順が間違っていた」

 と言った。彼女は、

「それはあなたの名前が分からなかったせいです」

 と言いそうになったが、こらえた。

 補修授業を数回受けて、再チャレンジする。同じく五百旗頭教官にあたり、今度は右折時の確認が甘いことを指摘されて、十分間ほど小言を言われた。

 彼は非常に厳格で、教わった手順から少しでもはみ出していたり、些細なことだからといって動作を疎かにすると、決して合格させてくれなかった。

 菜摘の場合、過去の経験がふとした拍子に顔を出すのだろう。細かいところでミスを犯すことが多かったのだ。

 再度補修を受けて、さらに三度目のチャレンジでも五百旗頭教官に当たる。こうなると因縁の対決である。

 菜摘は気合いが入り過ぎ、細かい点に頭が行き過ぎて、坂道発進で後ろに下がってしまう。彼女はマニュアルの方で受けていたので、五百旗頭教官にそこで補助ブレーキを使われてあえなく不合格となり、この時も十分間ほど小言を言われた。

 そして、バイトで貯めた資金が心細くなってきた四回目で、菜摘はやっと他の教官から合格を貰うことができた。

 しかし、彼女はいまだにそのことに全然納得がいっていない。何とかして五百旗頭教官から合格をもぎ取るべく高めていたモチベーションが、四回目の教官が別な人物と分かるや、どん底まで下がってしまったほどである。

「また受ければいいや」

 と、自分でも分かるミスをいくつかやってしまったにもかかわらず、合格してしまった。彼女はなんだか五百旗頭を迂回して、ずるをして合格したようで気分が悪く、その日は自室でヤケ酒を煽って寝た。

 それにしても、菜摘は自分がどうして五百旗頭教官の執拗な小言を我慢出来たのか分からない。

 思い返すと今でもはらわたが煮えくり返る。昔の自分ならば二回目に小言を言われた時点で派手な口喧嘩していたに違いない。

 ――自分も丸くなったものね。

 そう考えて、菜摘はそれに変に落ち込んだりした。


 五百旗頭教官の融通のかなさは有名で、インターネットでもあちこちの掲示板で火を噴いており、

「ゴヒャクハタガシラ教官うぜえ」

「空気読めなさすぎ」

「客商売のくせに俺様ってどういうこと」

「補修費用稼ぐためにわざとやっている臭い。〇〇自動車学校最低」

 といった、彼とその雇用主である自動車学校への怨嗟えんさの声が、あちこちに記されていた。


 *


 その五百旗頭が、川に落ちた鼠のような姿で小上がりに上がると、大将はにわかに忙しそうに厨房の中で動き出し、注文も聞かずに何かを作り始めた。

 下拵えはとうに済ませてあったようで、大小さまざまなタッパーから、次々に食材を取り出してゆく。じきに店内に美味しそうな香りが漂い、それを嗅いだ菜摘は――首を捻った。

 なぜなら、その香りが『小暮』にはあるまじきものだったからである。

 ケチャップの酸味。

 和風の居酒屋である『小暮』のお品書きには、そんなものを使う一品はない。


 ここで大将の手順を、後で本人から教わった通りに説明する。

 まず、熱したフライパンにサラダ油を引く。

 そこに一センチ角に切った鶏肉、玉ねぎ、ピーマンを順番に放り込み、玉ねぎがしんなりするまで炒めたところで、ケチャップを加える。

 ご飯を入れる前に具とケチャップを合わせたほうが、水分が飛んでチキンライスが水っぽくならない。それに、具とご飯を均等に混ぜ合わせるのが楽になるのだ。

 具に味を染み込ませている最中に、前日の残りものの冷や飯を事前にレンジで温めておく。こうすると解れやすくなる。

 具にご飯を加えて、塩と胡椒で味を整えたら、一旦皿に取り出す。

 続いて、フライパンにバターを引いてしっかりと温める。この「しっかり」が重要である。妥協してはいけない。

 そのフライパンに溶き卵に塩とこしょうを加えたものを一気に流し込んで、大きくゆり動かしながらすばやくかき混ぜる。

 卵の下のほうが固まり、上のほうが半熟状になったところで、取り出してあったチキンライスを卵の真ん中に横長に置いて、手前側から卵を折り返して上に被せる。

 その後、全体をフライパンの奥側まで寄せ、フライパンの端を皿にあてフライパンを返すと、白い皿の上に、それは見事に着地する。

 オムライス。

 しかもそれは、ふわとろとは無縁の、昔ながらのオムライスである。

 とどめに黄色い卵の上に真っ赤なケチャップが、丸く載せられた。


 続いて、大将が冷蔵庫から取り出したタッパーを並べた。

 菜摘は目を疑った。それは確かにこの時期の居酒屋ではよく目にするものだったが、今ここで準備するのはどうかと思われた。


 これも大将の手順を、後で本人から教わった通りに説明する。

 最初に筍を短冊に切り、鍋にだし汁、うす口しょうゆ、砂糖、塩と共に入れ、中火で煮汁がなくなるまで煮る。

 木の芽は、まず粗く刻んでから、擂鉢すりばちに入れてよくる。途中でみそ、みりん、砂糖、うす口しょうゆを加え、さらに擂る。

 この、煮含めた筍と木の芽味噌は、客に出す前に和える。そうしないと筍からでた水分で、薄まってしまうからだ。

 和えたものを小鉢に盛りつけて、最後に木の芽を載せる。鮮烈な若緑色の木の芽味噌がこぢんまりとした柔かそうな旬の筍に絡む。

 筍の木の芽和え。

 大将はその二つを盆に乗せると、カウンターの向こう側から突き出してきた。菜摘は戸惑いながら受け取る。

 オムライスはほかほかと湯気をあげており、卵はむっちりと張っていかにも美味しそうだし、筍の木の芽和えからは新鮮な春の香りが漂ってくる。

 しかし、この二つを並べて一緒に出すというのは、どういう了見だろう。

 家族連れの客が来て、親が酒のつまみとして筍の木の芽和えを頼んで、子供用にオムライスを注文したのであればともかく、居酒屋に来た男性客にまとめて出すものではない。

 それに、そもそも大将はこういうちぐはぐな注文を一番嫌がる。飲むなら飲む、食べるなら食べる――そういった古い酒飲みの節度を重んじるところがあり、顔をしかめて渋々受けるか、場合によっては客に文句を言い出すことすらある。

 ――それが、注文も聞かずに勝手に作り始めて、そのまま出すなんて。

 菜摘の頭の中には戸惑いが次から次へと泉のように湧き出してくるものの、「温かいものは温かいうちに」が『小暮』の鉄則である。彼女はそれを急いで五百旗頭のところに持っていった。


 あまりの大将の乱暴狼藉に注意が向いていなかったため気付かなかったが、小上がりの引き違いの襖は開いており、五百旗頭は店に背を向けて正座していた。

 仮免試験中の厳格な態度とは異なる、僧侶のように端正な佇まい。ただ、背中が小さく丸くなっているのが惜しい。

 近寄ってみると、五百旗頭は便箋らしき紙を数枚持って、そこに書かれた文字を一心不乱に読んでいた。

 菜摘は、オムライスと筍の木の芽和えをテーブルに並べながら樣子を伺う。

 十人が使用可能な大きなテーブルの片隅には、封筒が山積みになっていた。一つ一つにかなりの厚みがある。その一つを取り出して読んでいるようだが、手元の紙の束も十数枚はありそうだった。

 紙の上には手書きの文字が、端から端までびっしりと並んでいる。

 それは明らかに「手紙」だった。あまりじろじろと眺めるわけにはいかなかったので、軽く一瞥しただけだが丁寧に手書きされた手紙だった。

 それを、五百旗頭は食い入るように読んでいた。前に皿と小鉢が置かれたことすら、彼は気がついていないに違いない。

 菜摘は盆を抱えて頭を下げると、踵を返した。しかし意識は彼のほうを向いたままである。

 ――なんだろう、あの手紙の束は?

 夫の小言のあまりの執拗さに音を上げて里に帰った妻、あるいは子供からの手紙だろうか。

 それとも彼と同じく粘着質な遺伝子を持った親からの手紙か。

 いずれにしても、あまり楽しいものとは思えない。

 下がってカウンターの向こうを見ると、大将は既に座って競馬新聞を開いていた。

 これも珍しい。客がいる時に大将が腰を下ろすことはない。

 菜摘はなんだか狐につままれたような宙ぶらりんの状態で、五百旗頭が封筒から手紙を取り出す音や、手紙をめくる音を聞きながら、二時間ぐらいを過ごした。

 その間、オムライスと筍の木の芽和えはテーブルの上に置き去りにされていたが、大将はそれを注意しなかった。

 これも極めて珍しい――というよりはありえないことだった。

 大将は温かいものを温かいうちに、冷たいものを冷たいうちに食べてもらうことに非常にうるさい。話に熱中して手元がおろそかになっていたりすると、

「いったん戻してくれ」

 と、作り直しまでしてしまうほどに拘っていた。

 ところが、五百旗頭の前に置かれたオムライスが張りを失って次第に萎んでいき、筍の木の芽和えが水っぽくなっていくのに気付きながらも、黙っていた。

 菜摘はとても居たたまれない気分だったが、店員の分際で口を出すわけにもいかない。

 そして、さっきから落ち着かない点がさらに一つあった。

 菜摘は、五百旗頭がこの店の常連客ではないことを知った。菜摘が今まで一度も顔を見たことがない、とかそういう理由ではない。入店した直後に彼が発した「親父さん」という言葉である。

 常連客は店主の小暮さんを「大将」と呼ぶし、この店に何度か顔を出したことがある者にとっては、それは当たり前のことだった。だから、五百旗頭は「あまり店にはこない客」あるいは「他の客がいる時にはこない客」、のいずれかとなる。

 そうすると、今度は大将がその男の好きなようにさせている理由が分からない。

 なんだか、当初の閑古鳥状態よりも心理的時間が間延びしている中、しきりに水を飲みながら菜摘は耐えた。耐えに耐えた。


 そうするうちに、ついに手紙を読み終えたようで、五百旗頭は小さく、しかし長く息を吐く。

 それからスプーンを手に取ると、すっかり冷めてしまったオムライスを口に運んだ。

 ゆっくりと、ゆっくりと、少量ずつ食べる彼の姿は、敬虔な僧侶の読経のように見えた。

 時折り、箸に持ち替えて筍の木の芽和えもつまんだ。

 こちらは読経の途中で鐘や太鼓を叩くのに似ていた。

 一定のリズムで食べ進め、最後の一粒、一欠片まで残らず平らげると、五百旗頭は箸を置いて手を合わせ、深々と頭を下げる。


 それは何故か『鎮魂の祈り』のように、菜摘には思えた。

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