第2話


 暗く湿った場所だった。ピトピトと何かが滴る音が聞こえてくる。手首を覆う鉄の塊は、氷のように冷たい。

 ジャラリという音が鳴り、彼は足首に鉄球が繋がれている事に気づいた。


 「っ……」


 壁にもたれかかっていた彼が立ち上がろうと、冷えた石の床に手をついた瞬間、駆け抜けるような痛みを感じて声を漏らす。そのまま固まっていると、ペタペタという音が鳴り響き鉄格子が開けられた。

 薄暗いその牢獄の中でも、彼はしっかりと入ってきた者を把握していた。緑色の肌に、二メートルを軽く超える背丈。デップリとした腹が、ボロボロの布切れのようなズボンを隠している。

 喉の奥から捻り出したような、くぐもった音を発したその魔族は彼をジッと見てから首を入り口の外に向けた。出ろという事だろう。


 「手錠ぐらい外せよ……」


 よろけながらもその魔族についていく彼は、石段を登り広間の様な場所に出た。そこで緑色の魔族は再び石段を降っていった。広間に来る途中に彼はいくつもの牢獄を見た。鉄格子の向こうには、金切り声を上げながら壁を殴り続ける身長五十cm程の魔族だったり、ブツブツと呟きながら自傷を繰り返す魔族。しかしそれでも彼は驚きはしなかった。そんな魔族を彼は数百、数千見てきているのだから。

 ポツンと広間に取り残された彼は、首を動かして辺りを見回す。


 「城か……?」


 床には赤い絨毯が敷き詰められ、壁に掛けられた絵画は、そちら方面に疎い彼が見る限りでもかなりの額になるだろうと分かる。吊り下げられたシャンデリア、細かな彫刻が為された暖炉。

 豪華絢爛という言葉が出てきた彼だが、それと同時にどうにもどこか違和感があるような気がしていた。

 魔族には知能がある個体もあれば、会話が成り立たない個体もいる。そもそも発声器官が無い個体だっているのだ。その多様性が武器であると、どの学者だったか、自信満々に言っていた事を彼は思い出した。

 ここは十中八九魔族領内の城だ。それにしては静かすぎる気がしてならない。

 静かすぎるといえば、似たような違和感を彼は以前にも感じた事があった。


 「ようやくお目覚めか」


 広間の中央前方、ステージに続く階段の上にいつの間にか女が立っていた。俯いて考え込んでいた彼はハッと頭を上げる。アクスコイド王国が領地だと主張する、あの森で出会った彼女だ。その後ろには凍てつくような視線を彼に投げかける、額に一本の角を生やした女の鬼と、欠伸をして彼の方を見向きもしない男が立っている。彼が判断する限りでは、悪魔のようだ。肌は青白くその目はどこか投げやりで、虚ろだ。

 彼は両腕を軽く上げて言った。


 「この錠外してくんないか?」


 「構わないぞ。おい、リラ。外してやれ」


 即座に返ってきたその言葉に彼は驚いたが、それはリラと呼ばれた鬼族の女も同じだったらしい。


 「よろしいのですか? お言葉ですが、私にはあの愚か者を解放しない方が得策かと」


 落ち着いた口調で話してはいるが、彼をジロリと睨んだその目は明らかに敵意が丸出しであった。


 「私がいいと言っている。得策かどうかなど関係ない」


 「……承知致しました」


 歩み寄ってきて、女は腰に差してあった剣を引き抜いて彼に向かって構える。彼は小柄で、鬼族である彼女よりも十cmは低い。そしてその身長以上の威圧感に反射的に後ずさりながら、彼は引きつったような笑みを浮かべる。


 「な、何だよ? え、ちょっ、待っ……待て待て待て!!」


 冷や汗を流している彼に、女は剣を振りかぶり勢いよく振り下ろした。

 目をつぶった彼は何かが砕け散ったような音を聞き、ゆっくりと目を開ける。そしてようやく理解した。


 「……鍵で開けてくれね?」


 視線の先には粉々になった錠が転がっている。足首にくくりつけられていた鎖も、一緒に破壊されている。


 「その錠に鍵は無い。実に合理的な錠だとは思わないか?」


 階段を降りながら、彼女は笑ってそう言った。

 そして彼の前に立ち、ズイとその顔を近づけた。細められた目が、彼を射抜く。


 「なあ、真紅の英雄、レオン・ダーヴィットよ」


 彼は……レオン・ダーヴィットは黙って左手の甲に触れた。古傷だらけのその手には、真紅の幾何学模様が刻まれていた。


————————————————————


 魔王レイラ。

 彼女が指先を振れば地面は割れ、空気に漏らすように発せられた言葉は灰燼を生み出し、一度不機嫌になれば辺りを凍てつかせる、国を傾ける程に美しき魔王……そんな風に彼女は思われている。誰からそう思われているのかと言えば、噂を鵜呑みにするような者からだ。

 その魔王レイラが自分であると彼女は笑って言った。


 「さてさて、真紅の英雄レオン君。私は君に興味が湧いた」


 あの広間からレオンは魔王とその側近らしき者に、執務室らしき場所へと案内された。鬼族のリラと呼ばれていた彼女は執務室の中までついて来たのだが、悪魔の男の方は途中でいなくなった。それに気づいたリラが肩を震わせていたが、魔王の方は気にも留めていないようだった。


 「魔王レイラ様にそう思われるとは、光栄過ぎて吐き気がするね」


 革張りの黒いソファに座って向かい合う二人。レイラの後ろに立つリラがピクリと眉をひそめたが、レイラの意向を汲んだのか手を出そうとはしなかった。


 「それはよかった。私も、君の様に狡猾な男に光栄に思ってもらえるとは感激だよ」


 「狡猾?」


 馬鹿にしたように笑っていたレオンがそう聞き返す。レイラは微笑んだまま、


 「ああ。アクスコイド王国の王女を殺すなんて、余程の狡猾さがないと出来ないだろう?」


 その言葉に、レオンはコクリと喉を鳴らした。記憶が濁流のように頭に流れ込んできて、本当に吐いてしまいそうだ。ガンガンと頭は痛み、動悸が激しくなる。レオンは胸に手をやって呼吸を整えた後、言い返そうとレイラを見た。


 「あれは俺がやったんじゃ————」


 そこまで言って彼は気づいた。

 喉の奥から掠れた声が出た。リラは黙って目を閉じているし、レイラは微笑んだままだ。しかし、このまま言葉を続ければ彼は間違いなく首を刎ねられるだろう。


 「ん? あれは……どうしたのだ?」


 「あれは……」


 「王女を殺したのは、誰だ?」


 ここで自分ではないと言えば、レオンは魔族の敵とみなされる。彼は人間であり、そして兵士なのだから。その戦う相手である魔族が彼を見逃す理由など、一体どこにあるだろうか。

 彼は王女が好きだった。恋愛感情があったわけではない。しかし彼女の物の考え方や、思考回路が彼にはとても魅力的に思えたし、趣味も合った。彼女がバオム王国の第三王女でなければ、もっと頻繁に話が出来るのにと思った事だって何度もある。

 胸が締めつけられる様だった。しかしそれも、王女が死んだ夜の事を思えば……


 「……俺がやった。アクスコイド王国第三王女は俺が殺した」


 「そうかそうか。ならば君は私たちの味方というわけだな。彼女は聡明で、気高く、厄介な存在だった」


 「……それで、俺に何の用だ。わざわざこんな所にまで連れてきやがって」


 「フフッ。もう分かっているだろう? 君はその行動を以ってして、私に忠誠を見せた。真紅の英雄である君がだ」


 レイラは立ち上がり、ガラスのテーブルに身を乗り出してレオンをジッと見つめて両手で顔を挟み込んだ。白く長い毛髪がふわりと浮き、香りが漂う。レオンは射竦められた様にその場から動けない。


 「今日から君は、私の愛しき配下だ」


 「断ると言ったら?」


 睨みつけながらそう返したレオンを弾き返すかの様に、彼女は平然と口を開く。


 「先程の発言を思い出すんだな。君の健気で賢明な判断が無駄になるぞ」


 言葉に詰まったレオン。レイラは再び小さく笑い声を上げて、頰をペチリと叩いた。


 「冷えてるな。部屋を用意させよう。今日はそこでゆっくり休むといい」


 そう言うとレイラはレオンから手を離して立ち上がった。首をポキリと鳴らした彼女は、片手を上げて部屋を出ていった。


 「……」


 「……」


 「……ここ執務室なんじゃねえの?」


 気まずい沈黙の後、レオンがリラの様子を伺いながらそう尋ねた。リラはレオンの方をチラリと見てから黙って部屋を出た。ポツンと残された彼は、赤面した顔を誤魔化すかの様に咳払いをして、ボソリと呟いた。


 「まあ、ひとり言ですけどね」


 その部屋は寒かったので、彼は立ち上がって窓を閉めた。

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真紅の英雄譚 @sen

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