真紅の英雄譚
@sen
第1話
吐いた息が煙のように立ち上る。それは吸い込まれるように、星がまたたく夜空へと向かっていく。
荒れる呼吸を整える余裕もないままに、飛び出した枝で体に傷を付けながら彼は走っている。ガクガクと震える足はすぐにでも崩れ落ちてしまいそうで、それでも前へ前へと進もうとする彼は汗と血で顔をグッショリと濡らしていた。
腰に差している二つの鞘がぶつかり合い、ガチャガチャと音を立てている。大きさや形からしてナイフのようだ。背負っているリュックは左右に揺れ、それがまた体力を削っていく。
彼が国を追われてから、もう三日が経つ。その間ろくに眠る事も出来ず、目を血走らせて周りを警戒しながら逃げている。
もう昨日の事だが、騎士団の目をかいくぐって王都を抜ける事には成功したものの、検問に引っ掛かってしまった。国が緊急に敷いたその検問は、疲れによってほぼ思考出来ていなかった彼を絡め取った。予想していた検問の規模をはるかに超えていたのだ。
それでも何とか騎士団員を振り切ったが、瞬く間に彼についての情報は騎士団、王族及びある四人へと伝わった。
そして先程から聞こえてくる足音は、数えるかぎり四つ。十中八九あの四人だ。
追いつかれれば……いや、この状況であの四人の内の一人にでも視認されてしまえば、彼は矢で撃ち抜かれるか、ナイフで切り裂かれるか、魔法で焼き尽くされるだろう。
走って、走って、汗とも血とも……そして涙とも彼には分からない液体を、ボロボロの袖で拭いながら懸命に思考する。
しかし脳裏に浮かぶのは、楽しくはなくとも賑やかだったあの日々。笑ったり、喧嘩をしたり、説教をされたあの日々。
四人の笑顔が思い浮かんだ。その中に彼もいる。
「消えろ……! 消えろ……!」
悲痛な声でそう呟く。
引きずるように歩を進めていた彼は、何かに絡まったのかその場に転げた。両腕をついて起き上がろうとするが、力が入らないのかガクンと肘が折れて再び地面に突っ伏してしまう。顔をまともに打った。だが、ズキリと痛みが走ったのは右足首で、どうやらくじいているらしい。
「ちくしょう……」
何とか肘をついて足首を見た彼は、掠れた声でそう言って、それでも匍匐前進するかのようにズルズルと前へと進もうとする。しかし三メートルも進んだ所で崩れ落ちた。
地面に額を打ちつけ、泣きそうな声でもう一度ちくしょうと呟く。
悔しくて、情けなくて、そして自らへの憤りで彼は歯を食いしばった。ろくに体力も残っていないのに、拳は手のひらから血を流すほどに力強く握り締められている。
足音が近づいてくる。次に目を覚ませば牢獄だろうと彼は思う。ならばもう一度、あと一度だけ夜空を見たいという衝動が、彼を動かした。震えながら首を上げる。
そして見えたのは、凄惨な笑みを浮かべた女だった。
「生きたいか」
大仰に彼女は口を開いた。
ここで首を横に振れば、すぐさま殺されてしまうという事を彼は瞬時に理解した。しかし、その女に対して肯定の意を示すには彼はあまりにもすさんでいた。
「う……るせえ……殺すぞ……」
「うーん、殺されるのは困るな」
そう笑って彼女はしゃがみこみ、彼をしげしげと眺めた。
「傷だらけではないか。そんな状態で何故話せるのか、私には不思議でならないね」
彼女はそう言いながら右頬にある切り傷を指でツーッとなぞる。痺れるような痛みを彼は感じたが、顔を背ける体力すらも最早残っていない。体を支えている両肘は震え、すぐにでも意識がどこかにいってしまいそうだった。
「消えろ……つーか……死ね……」
「酷い言い様だな。私が君に一体何をしたと言うのだ」
「てめえの……てめえらのせいで俺は……」
「それは違うな。言い掛かりだ。君達は、すぐに責任を押しつけようとする癖がある。君のその状況に魔族は関係ない。ただ君が愚かだったからでは?」
そういって彼女は、まるで色素を抜いてしまったかのように真っ白な毛髪をかきあげた。彼はこめかみ辺りを注視した後、からかう様に笑っている彼女を睨みつける。
「それで隠してるつもりか」
「ふふ、軽いお遊びさ。まあ君が存外つまらない反応をする事が知れたからよしとしよう」
だが、と彼に顔を近づけた彼女はこめかみ辺りに手をやってさする様に動かす。
「この通り、幻視魔法でごまかしているわけではない。隠してなどいないのだ。私には角がない」
彼は、目の前の女が魔族であるという事を確信していた。彼女が魔族であるというその証拠を彼が見つけたわけではない。しかし、雰囲気……いや、それよりも抽象的な感覚が彼をくすぐるのである。
彼が国を追われたのは、直接的に魔族は関係ない。王国に住まう人間が彼を嵌めたのだ。王女暗殺という罪を被せて。
しかしだからと言って、それが魔族を好きになる理由になるわけではないだろう。
「は……折られでもしたのかよ……」
彼は顔を歪めて笑った。
「いやいや、魔族として生まれたその瞬間ですら、私には角が無かったのだよ。おかげで面倒な事もあったが、私が魔族である事を見抜けない人間を素通り出来るからな。中々に便利だ」
魔族と人間を見分けるには、角を見ろとよく言われる。角はこめかみ辺り、または額や頭頂部などから生えている。
帽子を被ってしまえば見えないかもしれないが、そこは対策されてあるのだ。人間と魔族との戦争が始まり、各国の首脳陣は被り物に関する法律を制定した。頭部を覆う物の着用を禁止したのだ。当初は戦闘に用いる兜はその法律の対象外となっていたのだが、角が比較的小さい魔族が兜を被り、人間の兵士が着けていた防具を剥いで奇襲をかけ、大隊を壊滅させるという事があってからは兜も使用制限が掛けられた。
つまり、国がそこまでして角の有無を目で確認しようとしているのは、それ以外で判断する事が出来ない者がいるからである。というよりも、彼のように角を見ずとも分かるという方が圧倒的に少ないだろう。
「角が無い魔族……生まれてから……ずっと……」
朦朧とした意識を繋ぎ止めるかのように言葉を発そうとする彼だが、その瞼は徐々に閉じていく。力が抜けて、辛うじて支えられていた体がドシャリと地面を打った。
そして彼は掠れるような声で言ったのだ。
「角無し……魔王の……系譜……」
彼女は立ち上がり、意識を失った彼を見下ろしてその口角を吊り上げた。その笑顔は何か面白い物を発見したとでもいうように、黒く染まっていた。
————————————————————
人間と魔族が戦争を始めてから四十年以上経つ。それ以前は出来るだけ不干渉、出来うる限りの未対応を両者が行ってきた。それは暗黙の了解のようなもので、人間国家と魔族国家は地続きになっているのにも関わらず、大規模な争いは起きていなかった。
しかし、ある事件が戦争の引き金となった。
魔族は、生まれながらにして王である魔王をトップとする単一国家の下に集結する。魔王は血筋は関係ないとして見られており、魔王が死ねばどこかで新たな魔王が誕生するという仕組みだ。対して人間側は、貴族が政治を執り行う貴族制の国であったり、首相や大臣を国の上層部に据える民主主義国家など様々である。前者は血筋、後者は選挙という形でその国の代表者が決められる。
人間は、国際同盟という十五の国家が加盟する国際機関を六十年前に設立した。国際同盟は各国が意見を出し合い、国際社会や経済に関する国際協力を為す場として設けられた。そして加盟国から兵士を集めて、国際的に中立な軍隊を設置したのだ。
同盟軍と呼ばれるその軍隊は、軍事演習の為に東方のアクスコイド王国へと赴いた。アクスコイド王国は魔族領と隣接する国境付近が森林になっており、その森林はアクスコイド王国と魔族との間で交わされた合意の下に中央辺りで国境が引かれていた。
何週間にも渡ったその演習で兵士達は疲れ切り、ようやく帰路につこうとしていた。
後方を歩いていた兵士が、ふと視界の端に映った何かに目をやった。疲労で身体を鉛のように感じていたその兵士はどこにそんな体力があったのか、悲鳴を上げてその場を飛び退いた。隣を歩いていた兵士が事情を聞く間も無く、その兵士は腰に差してあった杖を振り上げ、そのまま火魔法を放った。
その火炎が焼いたのはある魔族だった。加えて国境を侵していたのは同盟軍であった。
魔族側は激怒。不干渉、未対応が為される事もなく、魔王軍と呼ばれる軍隊はアクスコイド王国へと進軍。それを迎撃した同盟軍との衝突が人間と魔族との戦争の引き金だ。
当初は、魔族側の圧倒的勝利が予想され、人間と魔族との戦争とは言うものの、周辺諸国はともかくアクスコイド王国と魔族との国境から遠い……すなわち、戦場から遠い小国などは及び腰だった。魔族は一体一体の能力が高く、数で勝る人間も蹴散らされるだろうというのが、学者達の中で主な意見となっていたのである。
だが、彼らは考慮に入れてなかったのだ。生まれながらにして体に紋章を刻まれた、たった五人の戦士達の事を。
そして人々は彼らをこう呼んだ。
真紅の英雄と。
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