第6話
膠着するかと思えた事態は、意外な展開で幕を下ろした。
青筋たてた数学教師からもらった、追加の特別課題を、空いた時間に図書館でやっつけようかと思っていたら、そこへシュレーがやってきて、悪かったといって頭を下げたのだった。
予想外の出来事に、イルスは唖然とした。
まさか神殿種に頭を下げられることがあるとは、予想もしてなかった。それだけならまだしも、シュレーが大人しく反省してきてくれるとは。
俺も悪かったよと、イルスは詫びた。俺もちょっと、ずるかったなと。
するとシュレーは、どう見ても真顔に見える顔で、なんの話だと平静に言った。
「君は哲学の追試に通った」
奇蹟だ、という口調で、シュレーが教えてきた。奇蹟だと、イルスも思った。
「お前がなにか、裏工作したのか」
またもや天使が奇蹟を起こした違いないと思って、イルスは訊ねた。しかしシュレーは首を横に振った。
「何もしていない。廊下に張り出してあった結果を見ただけだ」
「嘘つけ」
「嘘じゃない。正々堂々と敗北したい君のご機嫌を、この上さらにそこねても困るから」
イルスが座る平机の席の、向かいの椅子を引いて、シュレーはやれやれというふうに、そこに腰掛けた。
「食事に来い、イルス・フォルデス。君が来ないと、食卓における四部族(フォルト・フィア)の均衡が崩れる」
四部族かと、イルスは思った。シュレーはいつでも、四人で居るとき、自分は山エルフだという体裁をとりたがる。それは事実とは微妙に違っている。シュレーの額冠のない額には赤い聖刻が目立っていた。だからそれは、言うなれば願望だ。いっしょに飯を食うときは、シュレー・ライラルとして扱えという。
「シェルは俺が飯に現れないのがいやで、俺を操ってまで追試に通らせようとしたってことか?」
イルスが訊ねると、シュレーはそれが驚くべきことだというように頷いた。
「そうだよ。あいつは少々変だな」
「だったらお前はどうだっていうんだよ」
苦笑して訊ねると、シュレーはかすかに笑ったようだった。
「私も少々変なんだろう」
どんな顔してそう言うのかと思って、イルスは眼鏡をかけてみた。
シュレーはにやにや笑っていた。天使がにやにや笑うのかと一瞬思ったが、シュレーなら笑うかもしれなかった。なにか企んでいるような顔だった。
「似合わないな」
眼鏡のことだろう。言われてイルスは頷いた。
「数学か、それは」
やっていた課題を眺めて、シュレーは訊ねてきた。
「ああ。なぜか数学の教授が、俺にだけは特別に課題を出したくなったらしいんだ」
「それは極めて納得のいく話だよ」
にやにやしながら、かすかに眉をひそめて、シュレーは手をのばし、机の上にある課題の紙を抜き取っていった。
「トルレッキオの地名の由来を知っているか」
シュレーは、いかにもお前は知るまいという口調で訊ねてきた。
イルスはもちろん知らなかった。考えたこともなかった。それを教えるため、イルスは黙って首を横に振った。シュレーはそれに納得したのか、それともこちらが知らなかったことに満足したのか、それでいいというふうに小さく頷いてきた。
「嘆きの山という意味らしい。トルが山で、レッキオが嘆き。訛っているが、森エルフ語だとマイオスは言うんだ」
数枚ある紙を繰りながら、シュレーは教えた。
「この学院は、首都であるフラカッツァーより歴史の古い都市なんだ。おそらく、山エルフ族で最古の都市ではないだろうかと思う。もともとこの部族は、森エルフの一派だったが、感応力を失って彷徨い、ここに辿り着いた。森エルフの首都は、名をイル・エレンシオンというだろう。それは、希望の都という意味らしい。そこを追われて、我が民は路頭に迷い、哀れにも、嘆きの山(トル・レッキオ)に到達したということらしいよ。マイオスの説によればな」
すらすらと語るシュレーの声は静かだったが、聞き取りやすかった。もともと神官だからか、シュレーは人に話して聞かせるのが得意のようだ。本人にその自覚があるのかどうか定かでないが、イルスは大して興味もない話題に、結局すべて耳を傾けた。
「でも、私の考えでは、嘆きの山で嘆いているのは、山エルフではなく、例の竜(ドラグーン)だ。時々、地下から嘆くような声がするだろう。それがトル・レッキオの名の由来じゃないかな。だが、いずれにしろ、山エルフ族がほかのエルフのような、特殊な能力に恵まれていないことは事実なんだ。この民は、ただ我が身の叡智を鍛え、ひたすらの努力によってのみ、他の部族と戦い抜いてきた」
シュレーの顔を見つめると、彼は微かに微笑んでいるようだった。いつもの良く見えていない視界でなら、たぶん、無表情だと思う程度の、ごく淡い笑みだった。
「だからこの学院は、そんな山の部族の叡智の粋を集めた、戦いのための最高学府だ。ここでは、学ぶ気のある者は、いくらでもその叡智を分け与てもらえる。君はたまたま、人質としてここに牽(ひ)かれてきて、いやいや居るだけのつもりだろうが、せっかくその叡智の水際にいて、例しにそれに飛び込んでみようとは、思わないのか」
イルスは真顔で、シュレーを見つめた。天使はどことなく、参ったような、悪だくみをしているような、妙な微笑になっていた。
「私ともあろうものが、先日は君を激励するのに、間違った話題を選んだよ」
「左利きのヘンリックか」
確かめると、シュレーは微笑のまま頷いた。
「その線には間違いはなかったと思うが、論旨の展開に誤りがあった」
むっとして、イルスはシュレーを睨んだ。するとシュレーは今度は明らかに、にやりと笑った。練習試合で興が乗ってきた頃合いに、こいつが見せる笑みだった。
「改めて言うが、イルス・フォルデス。試験の合否が問題じゃない。君には将来、湾岸の族長冠を受け継いでもらう。その時に、ここで学んだ物事は、きっと君の助けになるだろう。族長ヘンリック・ウェルンは、武闘派だ。平民の出で、高等教育は受けていない。それでも立派に族長職を勤めているとは思うが……フォルデス、君はここで学ぶことで、左利きのヘンリックを凌ぐ族長になれる」
それが留めというように、にやにや笑って弁舌を振るうシュレーに、イルスはやむなく、苦笑になった。
「ずるいやつだよ、お前は」
シュレーはそれを否定せず、かすかな人の悪い笑みのまま、ただ小さく頷いた。
「食卓で築かれた四部族(フォルト・フィア)の均衡を、永遠に保とうじゃないか。そのためにも君には、頑張ってもらいたいのだが」
ふうん、とイルスは相づちを打ち、まだ追撃があったかと思った。シュレーはいつでも、慎重なやつだ。
「向学心が燃えてきたか」
「とろ火程度には」
大して効いてないよというふうに、イルスが答えてやると、シュレーは一瞬、紙を見下ろしたまま、参ったなという顔をした。よく見える目で眺めれば、案外表情豊かなやつだった。それともいつの間にか、そういうふうになっていたのか。いつからそうだったか、よく見えてなかった。
「こんな簡単な問題もわからないのか、君は」
ぶんどって眺めていた課題に目を通し終わり、シュレーはそれを投げ返してきた。
「わかんないよ。教えてくれ」
「しょうがないやつだな。視力以前の能力の問題だ。基本からやりなおしたほうがいい」
しかめっ面でため息をつき、シュレーはイルスの手元から紙とペンとを取り上げた。
そして机の上で大書した数式を、まじめ腐った顔をして、こちらに掲げて見せてきた。
「この難題が君に解けるか?」
そう挑むシュレーの指の下にある式は、1+1と書いてあった。
イルスは鼻梁で重い眼鏡を押し上げ、深く悩む顔をした。
「答えは3だろ?」
まじめ腐って答えてやると、シュレーはむっとした顔をした。
「ふざけるな、フォルデス」
それにイルスは苦笑して、答えてやった。
「ふざけんな、シュレー」
するとシュレーは渋面を崩し、にやりと笑った。
その親しげな表情を眺め、イルスは、こいつはこんな顔だったのかと思った。
《完》
カルテット番外編「うるさい連中」 椎堂かおる @zero
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