第5話
哲学の口頭試験は、教授の講義室で、一対一で行われる。
人払いした、がらんと広い部屋で、中央にある講壇に座った教授を相手に、与えられていた課題への回答を、蕩々と語るのだ。
イルスは結局、シュレーが寄越した模範解答を暗記しなかった。
しかしそれを、眼鏡といっしょに持ってきていた。
講義室の前で、その後の首尾を知りたいシュレーが待っているに決まっているからだった。
予想したとおり、シュレーはそこに待っていた。なぜか、ついでにシェルまで突っ立っていた。
「試験ですね、イルス」
にこにこと必死の作り笑顔と分かる表情で笑い、シェルが軽快に声をかけてきた。
「がんばってくださいね、僕もここで応援してますから」
意気込んで言い、頷きかけてくるシェルは、かなり肩に力が入っていた。その横にいるシュレーは、特になんの気負いもない、いつもの無表情で、こちらが抱えている模範解答の紙束を、じっと見下ろしてきた。
「憶えられたか、フォルデス」
「いいや、全然。最後まで読んでもいないよ」
イルスは正直に答えてやった。するとシュレーは明らかな渋面になった。
「なにをやってたんだ君は。渡してから何日もあっただろう」
確かにそうだったが、イルスは答える気がせず、黙っていた。シュレーがさらに険しい顔をした。
「まさかまた試験に落ちる気か。そうして何の得がある」
「大丈夫だよ。一応ちゃんと、自分で解答は考えてきたから。これはお前に返す」
紙束と眼鏡を差し出すと、シュレーは渋面のままそれを見下ろした。そして考え、それからまたイルスと向き合った。
「悪いことは言わないから、持って入れ。口頭試験は、暗記でなければならない訳じゃないんだ。書いたものを読んでもいいんだ。それが、その場で考えた自分自身の論だという体裁をとるために、ほとんどの者が暗記してくるだけのことなんだ。でも、実際には課題も解答も事前に準備しているわけだから、体裁さえ気にしないなら、原稿を読みあげるのでも、別に違反ではないんだ」
シュレーは畳みかけるように、意味のないことを言った。今度はイルスが顔をしかめる番だった。
「お前の言ってることは、おかしいよ、シュレー。読み上げるのが違反でなくても、これを書いたのはお前で、俺じゃない。だからこれはお前の解答だろ?」
「哲学の教授は君の筆跡を知らないだろう、おそらく」
だから、ばれないだろうと、シュレーは言わなかったが、要するにそういうことだった。
「それは違反じゃないのか」
「違反だ。しかし発覚しない」
シュレーは真顔でそう答えた。イルスはため息をついた。
「お前はずるい。それにお節介だよ」
「ずるいはともかく、私がお節介? 余計なお世話という意味か。それが本当に余計なんだったら、そもそも追試には至らないよな、イルス・フォルデス。私は仲間のひとりである君を、助けているだけだよ。助け合うのが、友達なんだろう」
シュレーは、そうだろうと訊ねるように、首を巡らしてシェルを見た。シェルはびっくりしたように、慌ててこくこくと何度も頷いた。
「そうです。助け合わないと」
イルスは呆れて脱力した。今さらなにを言うんだ、こいつは。だったら最初からそう言えばいいのに。最初からシュレーがおとなしく、力になろうと言っていれば、たぶん助けてもらっていた。なにしろ哲学は苦手なのだから。
丸暗記用の解答をくれとは思わないが、相談くらいはしたかもしれないのに。
どうしてこいつらと居ると、至極単純なことが、いちいち回りくどいんだろう。
「護符だと思って、持って行け、フォルデス。どうにも困った時だけ使えばいいだろう」
「どうにも困ったときは、どうにも困ったっていうのが俺の結果だよ。お前の親切心はよく分かったから、お守りには眼鏡だけもらっていく」
呆れて答え、イルスはシュレーに紙束を押し返した。
「どうせなら逆にしろ。眼鏡を返して、解答は持って行け」
シュレーはしつこかった。そうしたほうがいいですよとシェルがすすめた。
しかしイルスはそれを無視して、講義室に入った。名前を呼ばれたからだった。
講義室の中は、しんと静まりかえっており、苦虫をかみつぶしたような壮年の教授が、中央にある一段高くなった講壇に、立派な肘掛け椅子を持ち込んで、どっしりと深く座っていた。
山エルフの短い金髪に、白髪が交じり始めている。何とはなしに、振り乱した感じのする髪だった。きっといつも、小難しい哲学の本ばかり読んで、普通なら悩む必要のないようなことを、うんうん唸って悩んでいるせいだろうと、イルスは思った。
その証拠に、教授は眼鏡をかけていた。古くから愛用しているようで、それはかなり使い込まれており、教授がまだ若いうちから、本に視力を食われていたことが推察できた。
「氏名をどうぞ」
講壇の正面にある席をすすめて、教授は膝に持った、手記をとるための白紙にペンをあてたまま、こちらを見もせずに、名乗ることを求めた。
実際には誰が来たか知っているにしろ、人に名を問うなら、せめて顔を見ればいいのにと、イルスは思った。
「イルス・フォルデス・マルドゥークです」
名乗ってから、イルスはすすめられた席に腰をおろした。教授は眼鏡を持ちあげて、じろりと見下ろしてきた。
「殿下。これは追試であります。前回の解答に難がありましたので、別の課題を差し上げます。これが最後とご理解のうえ、お答えを」
もう追試はしないから、覚悟しろと、教授は言っていた。これに落ちたら、お前は哲学の単位を失い、この枠において落第するぞと。
しかし脅されても、イルスは別に怖くはなかった。哲学で落第したからといって、死ぬわけじゃない。
「今回、お答えいただきたい課題は、人は何故(なにゆえ)に生きるか、です」
あらかじめ知らせてもらっていたのと、一言一句変わらない課題を、教授は与えてきた。イルスは、また膝の上の帳面に目を落とした教授を、黙って見上げた。待っていれば、こちらの顔を見るかと思って。
しかし教授はそのつもりがないらしかった。前回もそうだったから、きっと今回もそうなのだろう。人が話すのを聞きながら、この男はなぜか自分の帳面を見るのだ。
なんだろうな、これは。
まったくこちらの話を聞いていない、左利きのヘンリックでさえ、話すときには俺の顔を見たが。この教授は、それにさらに輪をかけて、俺の話になんか興味がないのではないか。だったらなんで、わざわざ長々と考えてきた話を、喋ってやらなきゃならないんだろう。
山の連中は、異民族とはいえ、理解しがたいことばかりやっている。
しかしそれが学院のやり方だというなら、無視するわけにもいかなかった。
イルスは喋ろうと思って、大きく一呼吸した。
声が聞こえたのは、その瞬間だった。
フォルデス、と囁くような声が耳元でした。イルスはそれに、ぎょっとして、後ろを振り返った。シュレーの声だった。
それはかなりの小声だったが、耳打ちされたような感じで、すぐ近くで聞こえていた。しかし、振り返ってみても、そこにシュレーが居るわけではなかった。
翼通信だと、イルスは気づいた。シュレーは神殿種の持つ特殊な能力として、肉声を使わずに、離れたところにいる狙った者に話しかけることができるのだ。
その証拠に、イルスが目を戻してみても、教授は相変わらず、膝の上の帳面を黙然と見下ろしているだけで、声が聞こえた様子はなかった。
フォルデス、と、再び声が囁いた。
なぜ黙っているんだ。課題は与えられたんだろう。何も思いつかないんだったら、これから解答を読み上げてやるから、その通り話せ。
そう囁いて、シュレーは例の模範解答にあった最初の一行を囁いてきた。
イルスは唖然と、それを聞いた。
そこまでするかと、呆れるのを通り越して、かなり驚いた。
黙っているのが不審だったのだろう、教授がちらりと見下ろしてきて、イルスの驚いたような顔に、不機嫌な表情になった。
「どうなさいましたか。驚愕するほど意外な課題でしたでしょうか」
そんな嫌みを言い、教授は念のためか、手元にあった課題の一覧らしい名簿を、帳面の下から取りだして眺めている。予定と違う課題を告げたかと思ったらしい。
どうしたんだフォルデス、なぜ黙っているんだと、シュレーが訊ねてきた。
なぜ黙ってるって、わかるんだと、イルスは愕然と考えた。講義室の中の音が、あの分厚い扉ごしにでも、聞こえるのだろうか。
そこまで思って、イルスははっと気づいた。シュレーといっしょに、シェルがいた。あいつは森エルフ独特の感応力なる力を駆使し、遠方の様子を探る念糸(ねんし)とかいうのを放つことができる。
それは透明な細い糸のようなものだとシュレーは言っていた。やつにはシェルの糸が見えるのだそうだ。その糸は離れた場所にある人や物を見つけることができるし、その気になれば、それを介して人を操れる。能力しだいだし、限度はありますけどと、シェルは言っていた。
その限度って、どれくらいだ。
イルスは知らなかった。糸は見えなかったし、操られたことはない。
今までは。
急に口を利きたい気がして、イルスは驚いた顔のまま、自分の口を覆った。
シュレーがまた最初から、覚え込ませるように、模範解答のはじめから一行ずつ、その内容を語りかけてきた。それを、なにげなく繰り返して口に出したい衝動が、時折ふっと湧く。
ぼけっとしていたら、素直に従ってしまいそうな衝動だったが、抵抗できないようなものではなかった。ふとした思いつき程度のもので。
しかそれを度々繰り返して何度も思いつくのは、あまりにも不自然だった。
「時間が限られているのです。そろそろお始めください」
顔をしかめて、教授は言った。
第四大陸(ル・フォア)に生を受けたる者は、とシュレーが読み上げた。
その話にイルスの喉は息切れしそうだった。それを復唱したくて。
生を受けたるものは、神聖神殿の崇高なる教えの語る、理想世界を実現すべく、働くべきものである。課題の問う、人なるものを、神殿の教義に照らして正しき者であると定義して、この論を進めるものとする。
それは誰が聞いても、と、イルスは気もそぞろに考えた。
俺の言葉じゃねえだろ。
たとえこの教授が俺をぜんぜん知らなくて、嘘に気づかなくても。
「お始めください」
さっさとしろと、教授が言った。
さっさと話せと、シェルが攻勢をかけてきた。
口を覆ったまま、イルスはつらくて目を閉じた。声がうるさかった。囁くような声なのに、うるさく感じる。耳元で叫ばれているみたいに。
「人は、何故(なにゆえ)に……」
苛立った声で、教授が言った。それは読み上げるシュレーの声にかき消されて切れ切れに聞こえるようだった。
人は何故(なにゆえ)に生きるのか。
「生きる……」
正しき者は聖なる神殿の。
「のか、です。課題は聞こえて……」
神殿のよき僕ゆえ、天使の与え給うた役割を。
「おりましたでしょうな」
役割を果たすべく、生きるものなり。
イルスは頭の中がいっぱいになった気がして、頭痛の襲う頭を抱えて思わず立ち上がった。
「うるさい! さっきから、べらべらうるせえんだよ!! 黙れ!」
そう叫んでから、自分の声の残響を聞き、イルスは気付いた。その次の瞬間、耳元で朗読されていた声が途絶えたことに。その声が自分にしか聞こえていなかったことに。
そして、講壇にいる教授が、虚を突かれた唖然という顔で、やっとこっちを見ていることに。
イルスはその、ぽかんとしたような異民族の緑の目といっとき見詰め合った。
でもそれは、教授がむっと眉間に皺を寄せるまでの、ほんの短い間だった。
フォルデス、と、また囁く声がした。イルスはむっとして、自分の眉間にも深い皺が刻まれたのを感じた。
「他人(ひと)が何故(なにゆえ)に生きてるのかは知りません」
イルスは怒った勢いで、立ち上がったまま、教授の目を睨んで話した。
「分かるのは自分のことだけです。俺が生きている理由は」
じっと睨んで話すと、教授は怒ったような目付きのままだが、それでも目を逸らしはせずに、イルスの話を聞いていた。
「ただ、生きたいからです。以上!」
断言すると、教授はかすかに口を開き、なにか答えそうだった。
しかし、結局何も言わなかった。
イルスはしばらく返事を待ったが、静まり返った講義室に、それ以上誰かの声が聞こえる様子はなかった。
「退室してもよろしいでしょうか」
用事は済んだと思って、イルスは教授に尋ねた。
すると彼は頷き、険しい表情のまま腕を上げて、講義室の扉を指し示した。出て行けという意味らしかった。
イルスは一礼して、その場を立ち去った。
つかつかと早足に部屋を横切り、蹴飛ばすようにして扉を開けると、廊下にびびって顔面蒼白のシェルと、怒りで顔面蒼白のシュレーが突っ立っていた。
イルスはシュレーと、睨みあった。
「上首尾だったらしいな、フォルデス」
シュレーがまっすぐ目を見て嫌味を言ってきた。
「お前、何様のつもりだ。崇高なる神殿の、神聖なる天使様か」
「答えに詰まってるから助けてやったんだよ」
睨み付けてもシュレーは微かにもたじろがなかった。イルスはそれに、自分の怒りが最高潮まで高まるのを自覚した。
「余計なお世話だって言っておいたろ。俺の話を全然聞いてねえのか、お前は」
「君が自力で試験に合格できるというなら、神聖なる天使様が頭をさげて謝罪してやる」
できるもんかという口調で、挑むシュレーを、イルスはじっと見つめた。
「殴るぞ、シュレー」
脅すと、シュレーは首を傾げて見せた。
「やれるもんなら、やってみろ。イルス・フォルデス」
さあ殴れと言わんばかりに、シュレーは自分の頬を指してみせた。イルスはそれに、ため息をついた。
「どいてくれ」
立ちふさがるようなシュレーの長身を、乱暴に押しのけて、イルスはその場を立ち去ろうとした。シュレーはそれを引きとめはしなかった。
代わりにシェルが、あわてたふうな上ずった声で背中に呼びかけてきた。
「ごめんなさい、イルス」
そう言われても、イルスは許してやれなかった。
シェル、お前も悪い。だけどお前は、けしかけられたんだろ。横の奴に。
そいつが謝るまで、今回ばかりは許してやる気はしない。
しかし神聖なる天使様には、頭をさげる気配もなかった。そりゃあそうだろうなと、イルスは思った。こいつはそんなこと、ちらっとも思うまい。お偉いつもりで、いつも命令しやがって。
本当に、ぶん殴ってやればよかった。
イルスはそれを後悔したが、なぜそうしなかったのかも、漠然と理解できた。
たぶん、相手が、神聖なる天使様だったからだ。殴って怪我でもさせてみろ、咎が部族に及ぶかも。そんなふうには、思わなかったか。
早足に歩み去りながら、イルスは情けなかった。
あいつは結局、孤独なやつだ。
友達だろう、命令すんなって、そういう態度で来るやつが、それと同じ腹の中で、結局お前は天使なんだろって、びびって眺めているんだから。
ずるいというなら、お互い様だろ。命令されても、仕方ないだろ。
案外向こうも本音では、お前はずるいと思っているのかも。天使様かと言ってやったとき、あいつは本当にいつもの無表情だったか。
俺にはよく見えなかったけど。なにか複雑な顔をしていたようだった。
皺の寄ってきた眉間を指で押さえて、イルスは思った。
確かに俺には、眼鏡がいるらしい。あの微妙な表情しかしないやつと付き合うにしては、視力に若干、難ありだ。
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