第4話
「怒ったってしょうがないですよ、イルス。ライラル殿下はそういう性格なんだもん」
長椅子の端から、遊びにやってきていたシェルがたしなめてきた。
イルスは暖炉の前に仰向けにぶっ倒れて、両腕で顔を覆い、それを聞いた。そうやって押さえていないと、今は何とか水面下にある怒りが、飛び出してきそうな気がした。
「怒ってんのか、これ? 落ち込んでるのかと思ってたよ」
長椅子の反対の端で、スィグルは胡座し、自分の膝の上に頬杖をついていた。そうしてこちらを見下ろし、スィグルがどんな顔をしているか、イルスには見なくても想像がついた。
呆れたねえみたいな顔だ。
とにかくスィグルは皮肉屋で、なにかにつけ毒舌だった。どこまで意識しているかは分からないが、人を馬鹿にすることにかけて、スィグルは達人だった。
そんな偉そうな態度でも、スィグルに腹が立たないのは、こいつに悪気が無いからだと、イルスは思った。普通に喋ると、こいつの場合それが毒舌なのだ。
わざと言ってるあいつとは違う。
「怒ってるんだと思いますけど。でも我慢してるんじゃないですか」
「なんで我慢する必要があるんだよ。まさか猊下が怖いのか」
頭の上を、シェルとスィグルの会話が飛び交っていた。
「怖くはないでしょうけど、言うだけ無駄みたいな気がして、怒ってもさらに腹が立ちそうだからじゃないですか」
「それは事実だけど、苦しい堂々巡りだよ。どこかで突破口を見つけて、がつんと一発いっとくか、それとも脱力して許すかだよな」
「どちらとも言えない心境なんじゃないですか。怒るにしては、一応向こうも親切なんだし、許すにしては、あの態度がむかつきます」
真剣に分析しているシェルの話に、スィグルがそうだねと言った。
「どっちかに押せばいいんじゃないの。むかつく方向か、それとも親切か」
「基本、親切なんだと思うんですよ。ライラル殿下の心理としては。試験に落ちるなんて屈辱で、耐えられないっていうのが、ライラル殿下の世界観でしょう」
「そうだろうなあ。試験に落ちるくらいなら、崖から落ちるほうが気が楽だろうなあ、猊下は」
評するスィグルに、シェルは黙って頷いているらしかった。
そんな気配のあと、二人はしばし、黙々と茶を飲んでいた。長椅子の真ん中の、空いたところに、盆にのせた三人分の茶器を、執事のザハルが供していっていたからだ。
「でもこの際ね、僕はイルスにはちゃんと試験に通ってほしいですよ。だってやっぱり、晩ご飯は四人でのほうが、いいと思いませんか」
「僕はどうでもいいけどな」
「殿下に聞いた僕が馬鹿でした」
シェルが嫌みなくそう答え、なにが可笑しいのか、ふたりは顔を見合わせているふうに、あははははと軽快な笑い声をあげた。
「とにかくですね、不本意かもしれませんが、イルスには、ライラル殿下のねじれた親切を、素直に受け取ってもらって、試験では丸暗記の答えを回答してもらいたいです。そして単位をもらって、引き続き晩ご飯は四人ということで」
「でも、イルスはもう模範解答を丸暗記するつもりはないみたいだよ」
スィグルは茶をすすりながら、シェルにそう教えた。
「そうなんですか、イルス」
シェルは、それは困ったというふうに、咎める口調で訊ねてきた。
イルスはふて寝のまま、頷いておいた。なにが模範解答だ。
「困っちゃいますね」
「こうなるとイルスも頑固だからなあ」
そう言うふたりは、しょうがないやつだという口調だった。
「こんなことだろうと思ったんです。ごはんの時の顔色を見てて」
シェルは、それで心配になって来てみたのだと言っていた。
「お前が見たのは、イルスの顔色じゃないだろ。何かもっと別のもんだろ」
「そうかなあ。まあ、そうだったとしてですよ、それはまあ、勘の良い人なら察しのつく範囲じゃないですか。僕が感応力を使ったかどうか、証拠はないですよ」
「それは屁理屈じゃないの」
スィグルが指摘した。
屁理屈だった。いつの間にか、人の心を読んでしまうのは、シェルの悪い癖だった。悪気はないのだろう。心配だったから、うっかり覗いたのだろうが、いいかげんちゃんと力を制御してほしかった。そうでないと、わざとやっているように思えてくる。
「屁理屈だって理屈のうちです」
「そうだけど。それこそ居直りだよな。だったらもう居直りついでに、イルスがちゃんと勉強する気になるように、お前が手伝ってやったらいいよ、シェル」
スィグルは勧めるというより、そうしろと命じるような口調だった。
イルスはその話に、自分の腕の下で、閉じていた目を開いた。
「そんなことしていいんでしょうか。感応力で操れって言ってるんでしょう、殿下は」
「そこまで言ってないよ。手伝えって言っただけじゃん」
にやりと笑ったような声で、スィグルは答えた。
「あぁ……そうか。さすがにずるいなあ、殿下は」
感心したふうに言って、ふたりはまた、けらけらと笑った。
「しょうがないなあ。四人の友情のためです」
「ちょっと待て」
決心しているシェルに、イルスは驚いて起きあがった。
「やめろ、シェル。たかが試験で、どうしてお前にそこまでされなきゃならないんだ」
思わず大声になって言うと、シェルは目をぱちぱちさせた。
「イルスが試験に落ちそうだからです。そしたら皆でごはんが食べられないし、寂しいからです」
シェルは寂しいという顔をした。それが動機だと。
「僕もできれば、こんなことしたくないです。でも、イルス……なにか悩み事はないですか、心の傷とか」
「ねえよ!!」
思わず、イルスは座ったまま後ずさったが、すぐ後ろが暖炉だった。炎は明々と燃えていた。それ以上後ずされば焼け死ぬ。
「ライラル殿下は、悪気はないです。あれはあれで、本当のところ、イルスも一緒にごはんを食べてほしいから、言っているんです。そんなこと分かるでしょう」
長椅子から話してくるシェルは、説得するというより、付け入ろうという口調だった。
「厨房でむかつくのは、いつものことじゃないですか。それはそれで、ライラル殿下がそれだけ遠慮なく楽しんでるってことですよ、イルス。それもこれも、イルスが料理を教えてあげたからじゃないですか」
「そんなこといちいち言うな!」
シェルは、かすかな渋面になって、スィグルと顔を見合わせた。
「だめみたいだね、こんなもんじゃ。もっと押すといいよ、シェル。きっとどこかに心理的な弱点があるはずだ」
スィグルは真顔でシェルを励ました。
「力を貸すな、スィグル!」
「なんだろうなあ、イルス。いったい何に怒っているんだろう。猊下はいったい君に、なんて言ったんだ」
「どうでもいいよ、そんなこと。お前の知ったこっちゃないだろ」
イルスが焦って言うと、スィグルは伏し目になって、こちらを睨んだ。
「案外忍耐強い君が、そこまで怒ることって、そう沢山はないよね」
「いや、そんなことはないって。俺は気の短いやつだよ。あいつの態度に、むかっときただけ……」
イルスが話す途中に、シェルが思いついたように、ぱちんと手を打った。
「きっとお父さんのことですよ」
「あぁ、それだきっと。しかも相当に痛いところだよ」
そう言ってスィグルは痛そうな顔をした。身に覚えがあるように。
「じゃあきっと、あれですよ。それでも左利きのヘンリックの息子かとか?」
「いやあどうかな。知略で鳴らす類の人じゃないだろう、イルスの父上は。どっちかというと武勇の人の印象じゃないかな」
よそ事のように話すふたりを、イルスは唖然と眺めた。こいつら今、どんな顔してこれを話しているのだろう。暖炉の灯りだけでは、イルスにはそれは良く見えなかった。
「それじゃあ、ライラル殿下のことだから……」
シェルは口元を覆って、こころもち上を見ていた。
「お前が馬鹿ってことは、父親も馬鹿だとか言われたんだろ、どうせ」
そこまで言われていない。スィグルの当てずっぽうに、イルスは内心で悶絶した。
「あっ、今の当たりかもしれません!」
シェルが鋭く指摘した。お前はもう帰ってくれ。イルスは内心でそう懇願した。
「イルス」
しかしシェルは満面の微笑で、こちらに身を乗り出して言った。
「そんなの、気にすることないですよ」
「なんの話だ、なんの……」
イルスは抵抗した。しかしシェルは人を癒す微笑だった。
「悔しかったら、試験でいい成績をおさめて、みんなに分かってもらえばいいんです。ちゃんと哲学の講義を理解してるってことを。それがひいては、お父上の名声にもなるかもしれないですよ」
「そうそう。さすが我が息子みたいな」
お茶を飲みながら、スィグルが調子の良いことを言った。シェルが頷いて、話を継いだ。
「親子の愛に、成績なんて関係ないと思いますけど、それでも、成績が悪いよりは、良いほうが、きっと喜んでもらえますよ。だって、親にとっては、可愛い我が子の活躍が、いちばんの自慢なんですから」
可愛い我が子だと。
イルスは自分の中で何かがブチッと切れたのを感じた。
親父殿に俺が可愛いわけないだろ。だったらこんなところに捨てやしないよ。いらないから捨てたんだ。それ以外に理由があるか。いらない餓鬼が活躍しようが、よそで死のうが、あいつには関係ないんだよ。
一気にそう思うと、シェルがきゅうに、青ざめた真顔になった。
「失敗しました」
「なんだって、下手くそめ。だからお前には守護生物(トゥラシェ)がいないんだ!」
スィグルが呆れたように言い、天を仰いだ。シェルも傷ついたのか、顔を覆って天を仰いだ。
イルスは腹が立って項垂れた。
どうしてこんなことで三者三様に苦い思いをしなくちゃならないのか。何もかもあいつのせいだと、イルスは厨房でにこにこしていたシュレーのことを思い返した。
「人それぞれだよなあ……」
苦い声で、スィグルが悔しそうに言った。
「なんでそう思わないの。イルスは。頑張って気に入ってもらおうって」
「それは頑張れば気に入ってもらえるやつの言い分だろ」
「可能性はあるだろ。優れてれば、可愛いと思われるかもしれないよ」
スィグルにはそれが正論らしかった。それでお前は優れてるらしいな。イルスはそう思ったが、口には出さなかった。言ってもしょうがない。相手が傷つくだけだ。
「哲学ができても、可愛くはないだろうさ。そんなもん湾岸ではなんの価値もねえよ」
「じゃあ、何なら価値があるの。知ってるならそれでいいじゃん、それを頑張れば」
反論してくるスィグルの言い分は、もっともだったが、哲学の試験と何の関係もなかった。もういいよとイルスは思った。
「死ねば気に入るかもな。親父殿も俺を」
「そんなわけないですよ。そんな親いませんから」
シェルが粟を食って教えてきたが、どうせ異民族の言うことだった。シェルはいいやつで、物知りだったが、左利きのヘンリックを見たことがない。
「もう、いいだろ。試験と関係ないよ。シュレーに言っておけよ。哲学なんかできなくても、俺は生きてられるってな。とにかく、もう寝るから」
立ち上がって、そう話すと、シェルはまだあわあわしていて、スィグルは情けないという渋面だった。
「まずかった。たかが試験でここまで追いつめるとは」
首を振って、スィグルは反省したようなことを言った。
「イルス、あのさ、考えすぎだって。いま考えたってしょうがないよ。ここはトルレッキオだよ。湾岸から遠いんだ。憶測で決めつけない方がいいよ」
「そうだな。お前の言うとおりだよ。今考えるより、この先、冥界で会った時に、直に親父に聞けばいいよな。俺が死んだとき、せいせいしたかって」
きっと、そうだと言うだろうよ。左利きのヘンリックは。
卑屈にそう考えて、イルスは顔をしかめた。そして、さっさと寝ようと思った。
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