第3話

「読んだか、イルス・フォルデス」

 跪け(トーレス)、という顔で、シュレーは厨房の竈の前から聞いてきた。

「読んだ」

 イルスは正直に答えておいた。スィグルに持たせた例の模範解答のことに決まっているからだった。途中までだが、読むことは読んだ。

「眼鏡は?」

 真顔でそう訊ねてくる相手に、イルスは帯に引っかけて持っていた眼鏡をとって、シュレーに振って見せた。

「見えたのか、それで」

「見えたよ」

 こちらの答えに、そうかというように頷いてから、シュレーは鍋から何かを手の甲にとり、ぺりと舐めて味見した。

 出来はよかったらしく、シュレーはいつもなら大体、不機嫌そうなような無表情でいるその顔に、笑みを浮かべたようだった。

「読んで答えれば大丈夫だ。あの哲学の教授は、宗教哲学に傾倒していて、神殿寄りのことを答えておけば、だいたいにおいて問題がない。私がやると嫌みらしいが、君が答えるならそのほうが無難だろうと、レイラスも言っていた」

「お前ら、相談したのか」

 びっくりして、イルスは訊ねた。

 スィグルはとっつかまって相談に乗らされたのかもしれないが、どっちにしろ余計なお世話であることには変わりない。

「皿」

 答えもせずに、神聖なる天使は皿を要求していた。聖なる神殿の、よき下僕ゆえ、皿を持ってくるのが俺の生きる理由かと、イルスは情けなくなった。

 それでも湯の中で温めてあった皿を拭いて差し出すと、シュレーはそれに、鍋で煮込んでいたらしい肉料理を、あたかも祭礼の祠祭のごとく厳かな手つきで盛りつけた。

 皿は三つだけ埋まり、残りの一枚を突き返してきて、シュレーは厨房の対岸にあるもうひとつの竈を指さした。

「レイラスのはあっち」

 お前が盛ってこいということらしく、イルスは大人しくそれに従った。

 スィグルはときどきシュレーに肉料理を食わされていたが、今日は別物がもらえるらしい。作戦に付き合ったのだから、それくらいはしてもらえるだろう。まさか、そんな餌のために跪かされたわけじゃないだろうなと、イルスは今、食堂のほうでシェルといるはずの、同室の相棒のことを恨んだ。

「今日のは、上出来だったよ」

 にっこりと笑っているような顔で、シュレーは肉料理の皿をひとつイルスに手渡してきた。料理が納得のいく出来だと、シュレーは機嫌が良くなった。そうでなければ普段に輪をかけた不機嫌でいるので、料理の出来不出来は、些細なようでいて、同盟の子供たちにとっては非常に重要な問題だった。

 思い返してみても、シュレーが日常の中で、にっこり笑っているのは、この時だけだ。

 どういう訳かは謎だが、よっぽど料理が好きなのだろう。それで上手く仕上がったのを、ひとりで食うのでなく、皆で分けたいというのは、気分としてよく分かる。

 普通にそう言えばいいのではないか。皆でそろってゆっくり話すのも、晩餐の時だけだから、ちゃんと顔が四つそろうように、試験は頑張れよと。

「あのなあ、シュレー。試験のことだけど……」

「後にしろ。料理が冷めるから」

 ぴしゃりと言って、シュレーは自分の持ち分の皿を二枚だけ持って、さっさと厨房を出ていった。

 なんだそりゃあとイルスは思った。

 厨房では暴君。確かにその通りだった。

 しかし、どんな暴君だろうが、支配を受ける義理はない。たかが肉が熱いか冷たいか、それっぽっちのことで、どうして左利きのヘンリックが出てくるのか。それがこっちにとって、どれだけ腹の立つ話か、知らずに言ってりゃ可愛げもあるが、向こうはその効果のほどを重々理解したうえで、あえてぶつけてきてるのだ。

 怒っていいかと、イルスは自問した。怒ってもいいんじゃないか。ここは、ありがとうではなく、この野郎ではないのか。

 シュレー、この野郎。

 そう思って、イルスは皿を見た。そしてふと思った。片方はスィグルの晩飯だった。

 喧嘩をするなと言っていたし、さっさと帰ると言っていた。あいつはとばっちりを食っただけで、この喧嘩に巻き込まれて、晩飯を干されるいわれはないのだ。

 それにシュレーは自分に給仕するのを嫌がって、自分で運んだ皿をいつも人に回していた。ということは、今ここに持っているのは、あいつが食うやつだ。それが遅れて冷えていたら、きっと機嫌が悪いだろう。

 それで喧嘩か。

 しかしこれは四人の問題ではない。サシで勝負するべき事だ。俺はあいつみたいに、他人を巻き込むようなことはしないから。

 そう結論して、イルスは皿を運んだ。

 そして食卓で待っていたシュレーに、蔑みきった声で、遅いと言われた。

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