第2話

 自分の目が、よく見えていなかったという事実に、イルスは初めて気がついた。

 今まで何の不満もなかった視界が、ちっぽけなガラス板一枚で、見違えるほど鮮明になっている。

 投げ渡された紙束に目をやってみると、びっしりとシュレーの字が書き連ねてあり、その内容は、読むと眠くなるような、哲学の話だった。

 近々、イルスは哲学の口頭試験を受ける予定になっていた。すでに一度受けてあるのだが、教授がどうも、こちらの回答に満足できなかったらしく、追試を食らったのだった。

 課題は毎回、ひとりずつ異なり、前もって連絡される。前回はなにか、神殿の教義についての話で、それなら分かるだろうと思って、特になんの準備もせずに行った。なにしろ礼拝には毎週行っているし、神殿との付き合いは長い。生まれた時の洗礼式から数えて、今年で十四歳、だから十四年にもなるわけだ。自分が特に不信心なほうとも思えなかった。だから、知っていることを適当に話せば大丈夫だろうと。

 でも大丈夫じゃなかったらしい。

 試験のあとで、シュレーにどうだったと聞かれ、回答した内容を話したら、情けないという顔をされた。それは見ているこっちまで、情けなくなるような顔だった。

 信仰と宗教哲学は別物だと、シュレーは言い、イルスはそれに、でも神殿の話だろうと答えた。

 追試があるらしいと話すと、次は私が模範解答を教えるから、課題を知らせろと、シュレーはその場で約束した。

 そんなのは卑怯ではないのかと、イルスは思う。他人が考えた答えを丸暗記して喋るだけなんて。

 さっきの伝言を伝えてきたスィグルは、不気味だったが、あいつは俺にもあれをやれと言っているのだろう。なんだか、馬鹿らしくて、やってられない。

 紙の上の文字に、イルスはため息をついた。

 教授が寄越してきた今回の課題は、人は何故(なにゆえ)に生きるか、だった。

 だからシュレーの文字は、人は何故に生きるかについて、三分ほどで話し終わる解説を書きつらねていた。たぶんこれは、あの気むずかしい哲学の教授が、にっこりと微笑むような模範解答なのだろう。

 しかし退屈だった。

 文字がよく見えるようになったのは面白いが、読まされる内容は、何ら興味の湧かないようなものだ。

 聖なる神殿の、よき僕ゆえ、と、目に付いた文章が語っていた。よき僕ゆえ、天使の与え給うた役割を果たすべく、人は生きるのだそうだ。

 あいつはどの面でこれを書いたのかと、イルスは思った。

 神殿などまやかしだと言うくせに、哲学の単位をとるためなら、こんなことを平気で書くとは。シュレーの頭の中は、いったいどうなっているのか。

 あいつは、ずるい奴だと、イルスは面白くなかった。この回答の内容もずるけりゃ、これを丸暗記して答えろという考え方も、ずるい。

 シュレーがなぜ、ずるをしてまで自分を助けようとするのか、分かるようで、分からない。たぶんあいつは、学院の他の学生たちが、自分の取り巻きだと見なしている者の中から、試験に落第するようなのが出てくるのを、自分自身の恥だと思っているのだ。

 スィグルは頭のいいやつだった。勉強している姿を見たことがなく、講義はさぼるし、出席しても聞いている気配はなく、学寮でいつもだらだらしているが、それでも試験の成績はいいらしかった。どうやってそんな事ができるのか、尋ねてみたことがあるが、スィグルはいつもの調子で、僕は君らとは頭のできが違うんだよと、偉そうに言うだけだった。

 シェルはシェルで、勉強熱心というか、知りたがりのあいつには、知識を蓄えることが何よりの幸せのようだった。いつもイルスには意味のわからないような事を、夢見るように話して、面白い面白いと言っていた。彼の試験の成績に、シュレーが顔をしかめた事はない。

 シュレーから見て、その二人が支障ない友人であるとして、自分は違うということだろう。何とも言えず、腹の立つ話だった。シュレーの見栄っ張りにはもう慣れたが、そういうことは本人に関してだけにしてほしい。他人にまで手出しするのは、やりすぎだ。

 支障のある友人が恥ずかしいというなら、付き合わなければいいだろう。

 したり顔のシュレーを思い出して、イルスは複雑な気分がした。

 もしかして俺とあいつは、今、けんか中なのではないか。

 シュレーは哲学の追試を手伝うと言い、それにこう言い添えた。

 君は、この学院の者たちに、左利きのヘンリックの息子は馬鹿だと思われても、それで平気なのか。王族としての誇りを示せと。

 なんだかそれにカチンと来て、シュレーを振り切って学寮に避難したのだ。

 あいつは部屋には追ってこない。

 それがなぜかは知らないが。たぶん誘ったことがないからだろう。

 まさかスィグルを使ってまで、作戦が遂行されるとは、想像もしてなかった。あいつは、しつこい。

 怒っていいやら、どうやら、イルスは決めかねた。

 あいつも暇ではないわけで、その中で他人のために口頭試験の草案を作り、目が悪いんではないかという些細な事まで気にしてきたわけだ。

 うるさいよと文句を言うべきか、それとも、ありがとうと言うべきか。

 はっきりしないのが、困るところだ。

 それでも、いつもはぼやけた視界で気にならなかったように、今まで深く考えずに付き合ってきた。今更それを、鮮明にされてもな。

 この学院にやってくるまでは、世の中はもっと、単純だったのに。

 どこかで扉の閉じる音がして、スィグルが早足に居間に現れた。彼は制服ではなく、彼の部族の衣装を着ていた。鈍い色合いの絹地の、長い裾を翻して歩く姿は、いかにも黒エルフだった。

「暗記した?」

 当然しただろうという口調で訊かれ、イルスはびっくりした。

「いや、まだ、最後まで読んでもいない」

「寝てたのかい、イルス」

 まっすぐ目を見て、呆れかえった口調で言われ、イルスは思わず、眼鏡をはずした。

 スィグルはよく、ほかの学生たちと悶着を起こすが、まともな視力で、こいつの蔑む顔と対峙して、頭に来るやつがいるのは当然だった。

 今まで気づかなかったが、この顔で言われると、些細なことでも傷つく。

 まともな視力で、普段こいつの罵詈雑言に平気でいるシェルやシュレーは、かなり根性があるとイルスは思った。

「行こうよ、イルス。猊下に会ったら、全部憶えたって言えばいいよ。もしも何か突っ込まれたら、僕が適当に誤魔化すから。とにかく、食事中に喧嘩するのは、やめてよ。僕は静かに食べたいんだ。そして、すみやかに帰る」

 わかったか、という口調で、スィグルは話していた。

 お前まで俺に嘘をつけっていうのか。

 嘆かわしい話だ。嘘つきばっかりの世の中かという気がした。

 うんざりした顔で、イルスは部屋を出た。スィグルにはその顔がよく見えているはずだったが、何も気にならないのか、振り返りもしない早足で、すたすた歩くだけだった。

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