第2話
ヘレンの居室を出て、通路に続く扉を開けると、そこにはやはり、猟犬たちが待っていた。
夜警隊(メレドン)の制服を着た数人の男たちは、それぞれ多かれ少なかれの返り血を浴びており、ぐったりと頽(くずお)れた、ぼろきれのような男の両脇を抱えて立っていた。
「族長」
出てきたこちらに気付いて、彼らは口々にそう呼びかけてきた。熱のある、密やかな声だった。
「口を割ったか」
「ベラニカス」
こちらの質問に端的に答える男の口調は、極端に口数の落ちるアルマの兆候をまだ残していた。その鋭い表情を見返し、ヘンリックは男の顔に、少し前まで自分の顔の中にもあった何かを認めた。
女(ウエラ)が孕んで、アルマが成熟期に入る前なら、皆このような、飢えた顔をしている。この男は子をもうけなかったのだろう。女が孕まなかったか、孕まない女を選んで抱いたかだ。
ベラニカスは湾岸に侍る貴族の姓だった。期待していたとおりの名を得て、ヘンリックは満足した。
夜警隊(メレドン)の者たちが抱えている男は、すでに自分の足では立っていなかった。生きているのかも怪しく思える、満身創痍の風体だった。その胸を一閃する傷は、はじめにヘンリックが与えたものだった。通りすがりに斬り込んできたので、それを避けて、斬りつけた傷だ。
その後、挑戦(ヴィーララー)の訳を尋ねさせるため、猟犬たちに与えた。殺していいとは言わなかったが、生かしておけとも、言わなかった。
血まみれで、形相もよくわからない顔を、顎を押し上げて仰向かせ、ヘンリックは訊ねた。
「お前のアルマはもう戦いの相ではなかったろ。なぜ俺に挑戦した」
ヘンリックは訊ねてみたが、死相の浮いた顔は、なにも答えなかった。かすかに唇が喘いで、名前のようなものを口にした。
斬りかかってきたとき、男は挑戦(ヴィーララー)とは囁かなかった。そう告げるはずだ、挑戦するつもりなら。それは本能で、理屈ではないからだ。男は手練れのようだったが、女(ウエラ)がいるように見えた。返り討ちにした傷は、ほぼ致命傷のようだった。死を覚悟したらしいこの男は、女の名を呼んだ。
「なにか話したか?」
脇を支えて立っている猟犬たちに、ヘンリックは訊ねた。彼らは肩をすくめた。
「いいえ。でも大方、女(ウエラ)を人質にでもとられたか、そんなところです」
その女を取り戻すためには、何でもする。それが湾岸の血の空しさだった。
ヘンリックは頷いた。それは、どうでもいいことだった。
「ベラニカスに遣いを。俺を殺したければ、夜会の中央広間(コランドル)で自分で戦えと」
猟犬たちを見回して、いちばん多く返り血をあびている一人を、ヘンリックは指さした。
「レノン、お前が行け。そのまま。お前は血を浴びてるときが一番見栄えがするな」
誉めるとレノンはどこか嬉しげに鼻で笑った。
彼は一礼もしなかったが、こちらを見つめる目に独特の表情が浮いていた。好敵手(ウランバ)を見る目だった。自分を打ち負かした好敵手を、崇拝する眼差し。忠実という点で、レノンに間違いはない。
彼らを従えるには、剣を振るえば良かった。
長靴(ちょうか)の靴音を鳴らして、レノンは足早に通路を行った。その後ろ姿には、陽炎のような熱気がこもって見えた。
「待て」
ヘンリックは剣帯に吊した長剣を引き抜いた。その刀身には目の前で力なく抱えられている男を斬ったときの血が残っていた。
剣を構えるヘンリックを、立ち止まったレノンの熱のある青い目がじっと見つめた。
振り上げた剣を、うなだれた男の首に振り下ろすと、風鳴りがして、そのつぎに骨を断つ鈍く重い音がした。水音をたてて、血が床に散った。
足元に転がってきた首を、立ち止まり半身だけ振り返っていたレノンが、じっと見つめている。
「手みやげに、持っていってやれ。泣いて喜ぶだろう」
命じると、レノンはなぜか、くすくすと笑い声をたてた。落ちている首の、血と汗に濡れた髪を掴んで、レノンはそれを拾い上げ、ぶらぶらと揺すりながら、ゆっくりと歩いていく。
ヘンリックはそれを見つめ、猟犬たちはヘンリックを見つめていた。
レノンの姿が通路の闇にとけ込んだ後、ヘンリックはふと、自分が握っている長剣に目をやった。また、研ぎに出さなければいけない。
この柄を握っていたジンの小さな手のことを、ヘンリックは思い出した。あの手にはまだまだ、本物の剣は重すぎる。
湾岸の剣士は、お遊びの木剣から始めて、やがて父親から本物の剣を与えられる。それは子供用のものではなく、やがて大人の男になった時に振るうための、正真正銘の本物だ。
身の丈にあまる武器を必死で振るいながら、一人前の男になる。小童(こわっぱ)の初めての好敵手(ウランバ)は父親だ。
ヘンリックには、そのような相手はいなかった。父親は不在で、娼婦である母にたかる親父面をした男がいることはいた。生まれて初めて斬った相手はその男だった。
使った武器は、その男がどこかから盗んできたらしい、一振りの見事な長剣だった。
不思議なもので、その剣は今もこの手の中にある。指に馴染み、よく働く剣だった。
しかし、おそらく呪われている。
そうでなければ、こうも日々、血を吸ってばかりいるだろうか。
この剣が欲しいというなら、息子にくれてやっても良かったが、はじめは木剣がふさわしい。明日、もしもまだ自分が生きていて、早めに夕食に戻ることができたら、あいつに剣の稽古をしてやろうか。もちろん遊びで、真剣には触れさせずに。
今夜の跳躍を見て、急にそんな気が起きた。鍛えれば、あいつは華麗に跳ぶだろう。そういう姿を、いつか見てみたいものだという気がする。
だが、しかし、とヘンリックは思った。
あいつが俺から学べる事は、何もない。一刀で首を落とす技を、もしもジンに教えたら、きっと俺はヘレンに殺されるだろう。そういう気がする。もしも息子が俺のような男になったら、ヘレンは悲しむだろうから。
新しい息子も、俺が名付けるべきでない。ヘレンが名前を与える。そうでなければ他の誰かが。とにかくヘンリックには、生まれ出てくる新しい子供が、どんな名によって生かされるべきか、まったく見当もつかなかった。
「夜会へ行くか」
鞘に長剣をおさめて、ヘンリックは猟犬たちを誘った。
外套を預けていた男が、それを拡げて、ヘンリックの肩に着せかけた。薄地の絹で仕立てられた、族長にふさわしい、その深い青の布地には、べったりと赤黒い返り血がついていた。
しかし今さら着替える必要はない。もうヘレンは息子達とともに眠っただろうから。
「廊下を掃除させておけよ。俺の女(ウエラ)が血を見ないように」
「湾岸の女は血を見れば燃えるもんですよ、族長」
死体を抱えている男が、軽快な軽口で、そう応じてきた。ヘンリックはその猟犬の顔と見つめ合った。
「俺のウエラは、腹に子がいる。もしヘレンがこれを見て、子が流れでもしたら、お前を殺す。四肢をばらして、生きたまま魚に食わしてやる」
笑って話したつもりだったが、見つめ合う猟犬の目から、笑いが消えた。
「わかったか?」
問いかけると、彼らは頷いた。従順に。
「ベラニカスは夜会に現れるだろうか。まさか俺をすっぽかしたりしないだろうな」
歩き始めながら、ヘンリックは背後をついてくる男達に訊ねた。
「族長を振るなんて、もったいない」
「でも来ないでしょう」
そうだろうなとヘンリックは思った。
「では反逆罪で吊せ」
王宮で繰り広げられる夜会に出向くため、ヘンリックは離宮を出る通路を行った。
夜会に出るのに着飾る必要はなかった。湾岸貴族の、贅を競う衣装倒錯には反吐が出る。そういうものは全てバルハイに捨ててきた。
返り血をあびたこの姿が、なにより華麗な宮廷衣装だ。猟犬たちに君臨する族長に、もっとも相応しい。
夜警隊(メレドン)は尻尾を振ってついてきた。新しい獲物が与えられたからだった。
ベラニカスを屠ったら、次は誰にしようか。身ぐるみ剥いで、海に浮かべる。
ヘンリックはそれを考え、くすくすと笑いながら歩いた。
《完》
カルテット番外編「木剣の時代」 椎堂かおる @zero
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