カルテット番外編「木剣の時代」

椎堂かおる

第1話

「名前を考えた?」

 どことなく、呆れたふうなヘレンの声でそう問われて、ヘンリックは口に入れかけていた夕食の肉を宙に浮かせた。

 その晩の料理は、蒸し焼きにした鳥に、豆と何かの入った赤いソースがかかったもので、何なのか分からないが美味かった。ヘレンが時折作る料理で、女(ウエラ)が言うには、ヘンリックの好物だった。

「名前? お前の腹の子の?」

 訊ねると、すぐ隣の椅子に横様に腰掛けていたヘレンは、また呆れたように目を閉じて頷いた。

 浅く腰を掛けたヘレンの腹は、ぱっと見にも大きく膨らんでおり、ゆったりとした青緑色の服を着ていた。癖のある長い褐色の髪を、ひとつに束ねて背に垂らし、額には王族であることを示す額冠(ティアラ)をつけている。

 それでも女はお高くとまるところもなく、以前と変わらず素朴な表情をしていた。小さなその膝の上で、大人しくその手をヘンリックに握らせ、なんとなく退屈そうに座っている。

「産まれるのは半年ぐらい先だろ?」

「いいえ、違うわ。ヘンリック。出産は再来月よ」

 子供に諭すように、ヘレンは嫌みったらしく言った。

「このまえは半年後だって言ってたろ」

「それは、四ヶ月前のことだからじゃないかしら」

 そうだったろうか。

 ヘンリックは曖昧な記憶に頼るのをやめ、鶏料理を口に入れた。考えても分からない。ヘレンがそう言うのだから、再来月産むつもりなのだろう。

「それで、考えたの? 名前を何にするか」

 根気強い声で、ヘレンがまた同じことを訊ねてきた。ヘンリックは口の中の食い物を咀嚼して呑み込むまで押し黙っていた。それから、鶏の脂のついた指で卓上の酒杯をとり、半ばまで残っていた酒を喉に流し込んだ。薄い透明なガラスでできた杯が、白濁した脂でべったりと曇った。

 それは不愉快だったが、食事に使っていないほうの手は、ヘレンの手を握っていたので、仕方がなかった。

「考えてないなら、考えてないって言ってくれない? 話が進まないから」

「考えてない」

 正直に返事をしてやると、ヘレンは苛立ったような鼻息でため息をついた。

 ヘレンはもともとカッとしやすい女だが、妊娠してから、さらに気が短くなっていた。

「男の子だと思うから、男の子の名前を考えればいいのよヘンリック。ジンのときは私が決めたから、二番目はあなたが決めなさい。私のお腹にいる、あなたの息子の名前なんだから」

 あなたの、というところを、ヘレンは二倍くらい強い声で言った。

 そんなことは念押しされなくても知っていた。アルマがやってきて、ヘレンを抱いたら、女(ウエラ)はまた妊娠して、今に至っている。他の男が自分の目を盗んでヘレンを抱いたとは思えなかった。そんなものがいたら、とっくに殺している。

 大きな腹を抱えて隣に座っている女のことが、ヘンリックには片時も脳裏を離れないほど、愛しくてたまらなかった。しかしそれはヘレンが妊娠する前に感じた愛情とは、どこかしら違ったものだった。

 まるで自分が首輪をさせられていて、女が握った引き綱が、それに繋がっているような感覚だ。それが繋がっている限り、どこへも行くことができないような不自由さがあった。そうなる以前の、身を焼くような激しい恋情のことが、ヘンリックは懐かしかった。あの頃は深く考えず、ヘレンを抱いていれば良かった。

 ヘンリックは黙々と食べた。腹が減っているわけではなかったが、とにかく毎日ヘレンの手料理を食うのが日課だったからだ。

「お前が決めてくれ。俺は思いつかないから」

「考える時間はあったわよね。半年前から時々頼んでたわよね?」

「つまんないことで怒るな」

 くどくどうるさいヘレンを、ヘンリックは可愛げがないと思った。

 顔を合わせれば、ヘレンは子供の話ばかりだった。腹の中にいるほうのこともあれば、外に出ているほうの話のこともあった。

 小さくぱたぱたと走る足音がして、向こう側から何かが机の下をもぐる気配がし、自分たちが座る二つの椅子の間に、ぽっかりと褐色の髪をした子供の頭が現れた。その子供は、ヘレンの手を握っているヘンリックの左腕に、遠慮会釈なく体重をかけてぶら下がってきた。

 前のアルマのときにヘレンが産んだ息子で、名前はジンだった。

「遊んで」

 まだ舌足らずな言葉で、しかし明解に、ジンは要求してきた。ヘンリックは自分に良く似た息子の青い目とみつめあった。

「まだ飯を食ってる」

「ジン、いま大事な話をしているの」

「遊びたい」

 機嫌を悪くするふうもなく、息子は反論し、ごそごそと強引にヘンリックの膝に登ってきた。なぜ登ってくるのかと不思議だったが、振り落とすわけにもいかないので、ヘンリックは机と自分の腹の間に体をつっこんでくる小さい息子に揺さぶられながら食事を続けた。

「ヘンリック、俺も食う」

 息子がそう言って口をあけるので、ヘンリックは食べようとしていた豆を口に入れてやった。肉でなかったのが嫌だったのか、ジンは口に入れられた食べ物を乗せた舌を、べろりと出した。

「ちゃんと食べなさい。それから、ヘンリックじゃなくて、父上でしょう、ち・ち・う・え!」

 眉間に皺を寄せ、ヘレンがジンに怖い口調を作ってみせた。こんなふうに喋る女じゃなかったがと、ヘンリックは女(ウエラ)の顔を横目に見た。

 豆を吐き出そうとしている息子の口に、ヘンリックは千切った蒸し鶏を豆ごと押し込んでやった。食い物をえり好みするとは、食うに困ったことのない餓鬼のやることだとヘンリックは思った。

 それも当然で、ヘンリックは息子に不自由させたことはなかった。王族にふさわしい家に住ませ、絹を着せてやり、ジンが欲しがったので、玩具の木剣も作らせた。

 ついこのあいだ立ち上がって歩いたばかりだと思っていたが、木剣を握ると、一丁前に打ちかかってくるので、そんなものをジンにくれてやるのではなかったと、ヘンリックは後悔していた。ヘレンの部屋に来るときぐらいは、剣を脇に置きたかったからだ。

 実際、ここに来るまで剣帯に吊していた、エナメル細工の拵えのある愛用の剣は、そこから外され、食卓からやや離れたところにある長椅子の上に放ってあった。一日のうちで、ヘンリックが剣を体から離すのは、こうしてヘレンのところで晩飯を食う時だけだ。

「ヘンリック、剣の相手して」

 そうせがみながら、ジンはなぜか、ヘレンの手を握っているヘンリックの手を、ぐいぐい引っ張っていた。それに引き離されまいと、さらに強く握るヘンリックの指が痛かったのか、ヘレンが苛立ったため息をついて、手を振り払ってきた。

「もう。食べてからにしなさいよ。あんた、寝なくていいと思ってるんじゃないでしょうね。何時だと思ってんの。父親とそっくりな顔して、あたしの言うことを無視するんだから、ほんとにいやんなる」

 ヘレンが愚痴ると、ジンは急に鞍替えして、ヘンリックの膝を蹴って飛び降りると、母上と猫なで声を出し、椅子を立ってどこかへ歩み去った母親の後追いをした。やれやれとヘンリックは思った。なんという変わり身の早さ。

 ヘレンは笑いながら、ああいやだいやだと、ふざけた口調を作って、ジンを引き連れていき、隣の部屋に消えた。

 繋いでいた左手のやり場を失って、ヘンリックは指を握った。

 食事はあらかた食い終わっていた。のんびりしていたかったが、それほど時間はなかった。

 用事を済ませたら迎えに来るように、夜警隊(メレドン)の腹心たちに命じてあったし、外には、すでに彼らがいるような印象があった。見えるわけでも、聞こえるわけでもないが、強いて言うならなら匂いでわかる。まさか本当に匂うわけじゃないだろうが、何とはなしに張りつめた空気を、ヘンリックは戸口から感じていた。

「ヘレン、俺はもう行く」

 どこにいるのか姿を消している女(ウエラ)に、ヘンリックは呼びかけた。ややあってから、ばたばたと走る子供の足音がして、上半身素っ裸のジンと、その後ろを服を持って走ってくるヘレンが現れた。

 着替えから脱走したらしい息子を、ヘンリックは捕まえた。肩の上に抱え上げられて、ジンは歓声をあげ、手足をばたつかせた。

「走るな、ヘレン。餓鬼の面倒なんか、誰かに見させろ」

「いやよ、私の子をとりあげないで」

 間近に向き合った鼻先からにらみ返し、張り合う口調で言われ、ヘンリックは思わず仰け反った。

 その隙をとらえて、ジンが肩を蹴って飛び降りた。予想していなかった出来事に、ヘンリックは驚いて、振り返った。ジンが猫のように、ひらりと床に着地したところだった。子供ながら見事な跳躍だった。

 こいつ、なかなかやるなとヘンリックは思った。天性の身のこなしだ。いずれはあの手に剣を握って舞うようになるだろう。

 ジンは脱兎のごとく逃走した。

 きいっと怒って後を追おうとするヘレンの腰を、ヘンリックは捕まえた。

「ほっとけ。裸でも死ぬわけじゃない」

 自分が生まれ育った横町では、あれくらいの歳の子供は半裸でうろうろしているものだった。湾岸の街は冬でも寒いというほどではなく、それが救いだ。

 しかしジンは自分と違って、貧民窟(スラム)で育つわけでなく、王宮で生きるのだから、確かにあれではまずいだろうが、今のヘレンにあの息子を捕まえられるとは思えなかった。ずいぶん、すばしっこい。自分でも、あれを捕まえようと思ったら、それなりの本気は出さねばならないだろう。

 身重の女は走らないものだった。ヘンリックはヘレンを走らせたくなかった。

 言っても聞かないだろうから、ヘンリックはなにも言わないまま、ヘレンを抱き寄せて口付けをした。女(ウエラ)は拗ねているのか、甘くとはいかなかったが、とにかく抱擁に応えた。

 固く抱き合うには、ヘレンの腹が邪魔だったが、華奢な肩を壊すような強さで抱きしめると、女の肌の匂いがして、そこには深い安らぎがあった。扉が自分を呼んでおり、もう行かなければと思ったが、ヘンリックはヘレンを手放しがたく、ずるずると抱擁を引き延ばした。

 ヘンリック、と唐突に子供の声が叫んで、剣が鞘走る音がした。

 その音に衝撃を感じて、ヘンリックは思わずヘレンを身にかばい、音の出所を見た。

 椅子のうえに放ってあった自分の長剣を、ジンが半ばまで引き抜いていた。研ぎ澄まされ黒みを帯びた銀の刃を持った刀身には、血脂が浮いていた。息子を叱りつけようと口を開いたヘレンの、明るい青の目が、無表情にそれを見て、彼女は沈黙した。

「ヘンリック、遊んで」

 甘える口調で、ジンは言った。得意げに微笑む息子の顔は幼かった。

 ヘレンをその場に残し、ヘンリックは息子の手から剣を取り戻しにいった。

 自分の許しを得ずに、この長剣に無断で触れた男は過去にひとりもいない。

 ヘンリックは柄を握るジンの小さな二つの手を、指をもぐ勢いで振りほどき、剣を奪った。

 叱らねばと思って、ジンのこめかみに拳骨を食らわせた。

 手加減したつもりだったが、ジンはまず驚きに顔を歪め、こちらを恨んだような目で見上げてから、これ見よがしに声をあげて泣き始めた。

「どうして殴るの!」

 ヘレンの火がついたような怒声が背後から聞こえた。

「俺の剣を盗んだからだ」

 振り返らず、ヘンリックは天を振り仰いで泣いている息子を見下ろした。

「まだ四歳なのよ! 殴るようなことじゃないわ」

 何歳だろうが他の男の剣を盗んでいいわけはない。それは剣士の魂だからだ。

「本物の剣に触れていい歳じゃない、言ってわからないなら体に教えろ」

 向き直って、ヘレンに言うと、彼女は大きな自分の腹を、しっかりと両腕で抱くようにして立っていた。

「こんな幼い子が、なぜ殴られたか理解できるわけないわ」

「俺は理解できた。お前が甘やかすから、こいつはお前をなめている。生意気な餓鬼は殴って躾けろ」

 ヘンリックは心底から本気で答えていた。自分が育ったところでは、重要なことは殴って教えるものだった。幼い子供でも、大人にでも。

 ヘレンは話を聞いているのか、いないのか、とにかく怒った顔でじっと立っていた。

 もう行かなければと、ヘンリックは何度目かに思った。ぎゃあぎゃあと泣き叫んでいるジンの声が耳をつんざくようだった。うるせえ餓鬼だと、ヘンリックは思った。

 自分も子供のころに、ここまで泣いただろうか。赤ん坊のころならともかく、そんなような記憶はなかった。泣いてみせても聞く者はいなかったし、腹が減るだけだ。泣いたら負けだと悟りながら過ごした子供時代だった気がする。

 ジンが泣くのは、ここで幸福だからだ。

 放っておかれているのが余程気にくわないのか、ジンは足を踏みならして暴れながら泣いていた。ヘンリックはそれを、ただ見下ろした。

 不意にヘレンが歩いて、またヘンリックの間近に立った。腹を抱くようにして身にからめていた、その腕をほどき、ヘレンは突然、拳をふりあげてヘンリックの頬を殴った。あまりのことに、思わず避けるのも忘れ、ヘンリックは大人しく女(ウエラ)に殴られた。

「いてえ! 何のつもりだ!」

 腹が立つより唖然として、ヘンリックはもう一発殴ろうという素振りのヘレンを止めた。

「ほら、やっぱり何でか分かんないでしょう」

「分かるかよ、いきなり殴りやがって!」

「あんたが生意気だから殴って躾てんのよ」

 こちらを睨むヘレンはどう見ても怒っていて、もう一発ぶん殴ってやるという顔をしていた。とても自分を愛している女と思えず、ヘンリックは開いた口が塞がらなかった。

「馬鹿にしてんのか、ヘレン」

「子供だって、まっすぐ目を見て根気強く話せば、いつか理解するわ。殴ればいいなんて、そんなの逃げよ。あんたの子なのよ。ちゃんと抱いてやって」

 未だにぴいぴい泣いているジンを激しく何度も指さして、ヘレンは厳命するように言った。いまここでジンを抱けと言っているらしかったが、何のためにそんなことをさせられるのか、ヘンリックには皆目見当もつかなかった。

 しかしアルマのあとに孕んだ女(ウエラ)は特別な存在だった。部族の男なら、そんな女が馬を呑めと言えば、本気でそうしようとするだろう。

 ヘンリックは悔しくなって、ため息をつき、小さく首を振った。

 そして、どう見ても、もう半ば意地で嘘泣きをしているとしか思えないジンのそばに、片膝をついた。まだ背の小さい息子を抱くには、そうするしかなかったからだ。

 涙を垂らしている息子の背を、ヘンリックは両腕で自分の胸に引き寄せた。ジンは話を聞いていたらしく、飛びつくようにして抱かれた。

「ヘンリック、遊んでよ」

 まだ泣きわめきながら、ジンは駄々をこねた。眠そうな声だった。それもそのはずで、もう子供なら寝ているのが普通の時刻だった。

 訳あって遅れたヘンリックを、ねばって待っていたらしい。

「また今度な」

 ヘンリックは適当な相づちを打って、ジンを離そうとした。しかし子供はヘンリックの腹に食らいついていた。

「父上でしょ、ジン。ち・ち・う・え! ちゃんと謝りなさい、危ないものに手を出しちゃだめでしょ」

 またヘレンが説教をしている。

「遊んでよ、ヘンリック、遊んでよ! 帰らないでよ」

 母親の言いつけを無視して、ジンはまた喚き始めた。

 やれやれとヘンリックは思った。ジンが自分のことをヘンリックと呼ぶ訳を知っていたが、ヘレンには知られたくなかった。

 ジンがいつの間にか人の言葉を話すようになっていて、驚いた日があった。赤ん坊だったのに、どういうわけだと本気で思ったが、よく見れば息子はもう喋ってもおかしくない年格好をしていた。

 誰に教えられたのか、まるで王族のような取り澄ました口調で、ジンはヘンリックのことを、父上と呼んできた。どうして俺が父親だと知っているのだろうかと、その時は不思議だったが、当たり前のことだった。ヘレンが教えたのだろう。

 しかしどうにも気持ちが悪く、今よりさらに幼かったジンに言ってやった。俺のことは、ヘンリックと呼べと。

 ジンがこちらの言っていることを理解できると思っていなかったので、本気のような、冗談のようなつもりだった。

 それなのに、次に会った時から、ジンはどことなく得意げに、ヘンリックと呼んできた。慕わしげな、笑みを浮かべた顔で。

「ジン、お前な、ヘレンの言うことをきけ。あんまり悪餓鬼だと、森の守護生物(トゥラシェ)に食わしちまうぞ」

 静かに脅しつけると、ジンはぎょっとした顔で大人しくなった。

 海辺の子供なら、何度となく言われる脅し文句だ。

 部族領の北の戦線には、森からの侵略軍がたびたび押し寄せており、そこでの防衛戦のために大勢の男たちが駆り出されている。守護生物(トゥラシェ)は敵が使役する見上げるような怪物で、戦いの中で時折、人を食らった。それは屈強な男でも足のすくむ光景だった。

 話は人の口づてに伝説のように尾ひれがついて広まり、戦線からはるかに遠い湾岸の街でも、子供をびびらせるのに十分な力を持っている。

 王宮に住んでいる子供でも、同じらしかった。

 ジンはおとなしくなった。しゅんと黙って、まだ腹にしがみついていた。息子が頭を押しつけたあたりが、熱を持って感じられ、ヘンリックは自分と同じ髪の色をした、小さな頭を抱いてみた。それは幼く、一捻りで命を奪えそうな弱さで、守ってやらねばならない気がした。

「誰を斬ったの」

 小声でヘレンが、ぽつりと訊いてきた。刀身にあった脂の曇りを、やはり見とがめていたらしい。

「誰でもない。お前の知らないやつだ。心配するな」

「ここに来る、すぐ前のことだったんじゃないの。そうじゃなかったら、あんたは剣を取り替えてから来たはず」

 逃がさないわよと、女の口調が告げている。

 ヘレンの言うとおりだった。なんでもお見通しなんだなと、ヘンリックは内心で舌打ちをした。剣を使ったのが直前のことだと察しをつけたのはともかく、日頃、剣を取り替えていることまで、どうやって見当をつけていたのだろう。勘の良いやつだ。

 ヘレンの飯を食いに来る途中、男が斬りかかってきた。だからそれを返り討ちにしたのだ。ヘンリックにとっては、それは大した話ではなかった。ヘレンに話すようなことではない。

 アルマはまだ続いており、族長に挑戦(ヴィーララー)を仕掛けようという者がいても、何ら不思議のない時期だった。ヘレンも湾岸の女なのだから、それは弁えているはずだ。

 争っても、牡蠣(かき)のようにへばりついているジンを引き剥がすのをあきらめ、ジンは息子を腕に抱き上げて立ち上がった。

「ヘレン、夜会があるから、もう行かないとまずい。今夜は大事な話し合いがあるから」

「どうせまた、どの貴族を吊すかの相談なんでしょ。あんたの大事な猟犬たちと」

 ヘレンは皮肉たっぷりに言ったが、彼女の顔は悲しげだった。女(ウエラ)が悲しむ顔をしているのが、ヘンリックにはつらかった。

 都が旧都バルハイにあった頃、湾岸の貴族たちは、家名の大小を問わず、おしなべて腐敗していた。利権をむさぼり、民を搾取してきた。貧民窟(スラム)の底から見上げると、ヘンリックの目に、彼らは悪そのものに見えた。だから、一気に粛正することにしたのだ、族長冠を手に入れ、都を新たに建設したサウザスに移した今。

 個人的な怨念だと言われれば、そうかもしれないが、それは部族の民の多くが抱えているのと同じ怨念だ。貴族層との敵対は日ごとに深まっても、族長を讃える民の声は、それをさらに越えて高まっている。俺は正しいことをしていると、ヘンリックは信じていた。

 なのに俺の女(ウエラ)はそうではないのか。俺のことを誇りに思っていないのか。

「ヘレン」

 俺を愛していないのか。そう問いかける声で名を呼ぶと、ヘレンは深い息をもらした。

 女は、子供を抱いていないほうのヘンリックの腕を、両手で掴んで引き寄せ、自分の膨らんだ腹に触れさせた。

 どん、と突き上げるような胎動が、唐突に掌に感じられた。驚きと怖れで、ヘンリックは手を引きそうになったが、ヘレンがそれを引き留めた。

 あとたった二ヶ月で生まれ出てくるという赤ん坊には、まだ名前がなかった。

 ジンは眠気に勝てなくなってきたのか、どことなく、とろとろとしながら、ヘンリックの耳を弄っている。こんなのがもう一人、女の腹から出てくるらしい。また昼となく夜となく泣き叫び、いつの間にか走り回るようになり、父上と舌足らずな声で、俺を呼ぶ。

 木剣をもう一振り、作らせないといけない。一人に一つでないと、兄弟げんかをするだろうから。

「子供が生まれる時期なのよ、ヘンリック。アルマはもうすぐ引き潮で、孕む女たちは、もうとっくに孕んで、もうすぐ産屋にこもる時よ。そういう時に、あんたは毎夜、人を殺す相談ばかりしているのね。あたしたち女が、どんな苦労をして子供を産んでいるか、男のあんた達にはわからないのよ」

 ヘレンが粛正のことを批判しているのだと、理解はできるが、納得はできなかった。ヘレンは階級こそ平民と大差なく低いとはいえ、曲がりなりにも貴族の出身だった。だから許せないと思っていたのだろうか。

「これは掃除だ、ヘレン。人殺しじゃない」

「あんたには、そうなんでしょうよ。でも私は心配なの。誰かがあんたを掃除しようとするのが」

 恨めしそうに言ったヘレンの言葉に、ヘンリックは自分が笑うのを感じた。ヘレンは、こちらの身を心配しているだけだった。その事実に安堵して、ヘンリックは微笑み、うつむきがちなヘレンの頬を撫でた。

「心配いらない、俺は大丈夫だから」

「名前を考えておいて。もうすぐ産まれるわよ」

「あと二ヶ月あるんだろ?」

 ヘンリックが訊ねると、ヘレンは頷いた。

「あんたにとっては、きっと一瞬よ。産まれたら、アルマも終わりね。そうなっても毎晩、あたしの料理を食べに来るかしら」

「お前は族長の女(ウエラ)なんだぞ。自分で飯を作る必要なんかない。贅沢をしろよ」

「家族そろって食事をするのが、あたしには一番の贅沢なのよ」

 そう話す女の唇を、ヘンリックは指でなぞった。愛おしい顔だった。

「それがお前のこだわりなのか」

 ヘンリックには、そのことが良く分からなかった。これまでの生涯で、家族といえるようなものには巡り合わせなかった。腹が減ったら飯を食うだけで、そこに補給以上の意味はなかった。

「違うわ」

 口付けしようと顎を引き寄せるヘンリックの手に、ヘレンはされるがまま許した。

 唇が触れる前に、ヘレンは囁くように、しかし強い声で教えた。

「あたしと、あんたの、二人のこだわりよ。家族で助け合って、生きていくのよ、ヘンリック」

 お前は妙な女だよと答えて、ヘンリックはヘレンに熱い口付けをした。

 不思議な女だった。取り分け美しいわけでもなく、しとやかなわけでもなく、可愛げさえない時すらある。それなのに、この女がいなければ生きていけなかった。

 ヘンリックの肩にうつぶせて、もう泥のように眠っているジンは、長い口付けを邪魔しない。左腕に息子を、右腕には女(ウエラ)を抱いて、ヘンリックはしばし立ちつくした。体に触れるヘレンの腹の中で、まだ生まれ出ない息子が胎動を繰り返していた。

「また明日来る。俺は毎日来る、お前の飯を食いに」

「じゃあそうしましょう。この先もずっと」

 耳元に囁くと、ヘレンは静かに答えた。

 ヘンリックはそれに頷いて答え、眠る子供を母親の腕に返して、ひっそりと部屋を出た。

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