第8話

「すまないな、ヘレン。滅多に顔を見せられなくて。俺も一応忙しい」

 1年ですっかり蔓に埋もれてしまった墓石に触れて、ヘンリックは微笑した。

 腰辺りの高さがある墓石は、岬の上にあり、遠く外海を見晴らす場所に置かれている。墓を飾るために植えられた草花が、数年をかけて生い茂り、淡い緑色の蔓を張り巡らせて、その枝枝に沢山の小さな黄色い花をつけていた。

 この花は、ヘンリックが族長位について、初めて到着した隣大陸からの貿易船が積んできたもので、まだこの大陸での名前がないものだった。異国の使者は、新しい族長の機嫌をとろうとでもしたのか、ヘンリックの愛妾の名をとって、この花をトゥランバートルと名付けて贈ったのだ。素朴な黄色い花は、いくらか、ヘレンに似ているような気がした。ヘンリックは、それをヘレン本人に言ったことがない。照れくさいような気がしたのだ。多くのことを聞かないままに、恋人は逝ってしまった。

 その後も、花は皮肉なほど繁茂した。風に乗って花と種を飛ばすので、貿易風が吹き付ける海都では、一夏であっというまに広まり、翌年には街のあちこちで同じ花が咲くようになった。

 風がやってくるたびに、花は枝を離れ、くるくると舞って運ばれていく。海都を出港する船が満帆に風をはらませているのが、岬の上から眺められた。

 墓石はまるで小さな船のように見える。遠く外海を目指し、海原を自由に行き来する帆船のようだ。

 蔓をかき分けると、大理石の船の上には、死んだ女の像が横たわっている。穏やかな顔で目を閉じ、花で飾られて眠っている様に見える。

 こうしていると、まるで、この上なく大人しい女のようだとヘンリックは思った。うっすらと腹が立ち、おさまりかえって横たわっている像の鼻をつまむ。

「生きている間に、本物の船に乗せてやればよかったな。隣大陸では女も船に乗るそうだ。お前もこんな土地じゃなく、もっと別な世界に生まれれば良かったんだ」

 墓石にもたれ、ヘンリックは一人で水平線を眺めた。ひどくゆっくりと船が行く。

 航海を始める船を祝うように、盛大な貿易風がそれを追って行った。風は海に向けて花を舞いちらせ、ヘンリックの短衣(チュニック)をはためかせた。

「ヘレン、子供たちには自由をやろう。お前が望んだ様に、外海へ漕ぎ出すのもいい。まるで別の夢でもいい。俺を殺して族長になるのでもいい。なんでも好きにするがいいさ。その時は盛大に殺されてやるよ。俺にできるのは、それくらいだ。それまでに、この部族を少しはマシなほうへ変えておこうと思うんだが、これがなかなか難しくてな…俺はもう死にたいよ」

 苦笑しつつ、ヘンリックは一人ごちた。

 別の方角から、快速船が海都の港をめざしてやってくるのが見えた。目を細めて、ヘンリックはその船の掲げる旗を見やった。ごく近くにやってくるのを待つと、その旗に剣と月の紋章が描かれているのが見て取れた。ヘレンが生んだ最初の息子、ジン・クラビスの紋章だった。

「お前の息子が帰ってきたぞ」

 彫像の頬をひたひたと叩いて、ヘンリックは苦笑した。その場を去ろうとすると、袖口に花の蔓がからみついている。ヘンリックは一瞬、歩みをとめた。

 振りかえり、花に埋もれた墓石を見やると、女の彫像はうっすらと笑っているように思えた。

「おい、へんな期待をさせるなよ」

 蔓をはずして、ヘンリックは岬を下っていった。

 ふたび風が舞い、小さな黄色い花が群れを成して海上を飛び去って行く。自由に舞い遊ぶ花を眺めると、わけもなく心地よかった。

 快速船の着岸を継げる銅鑼の音が、海都の港から、かすかに流れてやってくる。この場所にはもうじき、血を分けた者が訪れることだろう。母を悼むために。

 風に乗って、小さな黄色い花が次々と追いすがってきた。肩に留まる花に触れ、ヘンリックは、誰に笑いかけるでもない苦笑を浮かべた。



      ---- 完 ----

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カルテット番外編「岬の風」 椎堂かおる @zero

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