Story2「すずとゆめ(後半)」

 彼女は鋭敏だった。放課後、最初から私の演技を易々と見抜いていた陽夏は、私のつまらない話を興味深そうに聞いていた。

 二人きりの教室の真ん中で、私たちは机を挟んで座っていた。背筋を伸ばしてうつむきがちに話す私に、陽夏は机に頬杖をついて身を乗り出すような聴き方で。

 下の階では、指揮者が不在のトランペットとクラリネットが不協和音を響かせていた。

「これは本当に、自分の責任じゃあ死ねそうにないね、鈴」

 私の話に陽夏は何度も頷いた。

 頷く度に、下ろせば大人っぽくなるんだろうなぁ、と思われる、ポニーテールにされた長い髪が微かに揺れた。そして不意に、

「ねぇ、嫌じゃなかったらさ・・・」

「なに?」

「左腕を見せて欲しい。無理強いはしないけどね」

 その意味に私はぞっとした。誰にも、誰にも分からないようにしていたはずなのに。

「きっと、あたし以外は気付いてないよ。あたしも、あくまで推論だしね」

 鞄にカッターを入れているなんて、自己防衛にしても少しやりすぎじゃないかって思っただけよ。と続けた。

「う・・・そっか」

 陽夏の考えの鋭さに舌を巻いていると、陽夏は不意に声を上げて笑い出した。

 その声は、いつもの陽夏と変わりない、でもやっぱりこの湿った空気の中ではあまりにも湿度の低い、からからとしたものだから、私は陽夏に怪訝な目を向けた。

「鈴って、人を疑わないのね」

 陽夏は私の表情なんて気にもせず、私が何か面白いことをしたかのように無邪気に笑い続ける。

「え?」

「・・・もう。鈴って、鈍いなぁ」

 そっと制服の裾をぐいっと持ち上げて、見える? と言った陽夏の左腕は――。

「カッターを見ただけで、そんなこと、同じ人間しか思わないでしょう?」

 肘から肩にかけて、隙間なく真っ赤な線が刻まれていた。ところどころ、その線の辺りが盛り上がるように腫れていて、生々しい、痛々しい傷跡だった。

 つまり陽夏は、私と同じ、お揃いの腕を持っている。

「手首なんて分かりやすい場所を切れないのも、一緒ね」

 裾を戻す陽夏に私は笑いかけた。

 私は嬉しくて、それと、少しだけ、がっかりした。

 このせかいでは、誰もが悲鳴を上げてはかき消され、誰もその雑踏の声に耳を澄ませようとなんてしない。

 そして私たちは誰もが、常に前者であり、後者で在り続けるのだと。

「生きる痛み」

「どうしたの?」

「あたし、生きてて痛いなんて思えないの。希望に満ちてる、ってやつ?」

「なに、それ・・・」

「だから、生きるって痛みよねぇ」

 陽夏はどこか演技がかった話し方で意味のわからない事を言う。ここでさえ、陽夏はどこまでも私の知る陽夏だった。

「ごめんね、あたしさ、どこまでもこうなの」

 笑みを崩すことなく――まず、陽夏は基本ずっと笑っているんだけど――それでも、どことなく悲しげな声だった。

「誰とでも笑って、楽しくやって、だから傷つかないの」

 嫌なやつ、って思ってくれていいよ。

 そう続ける陽夏の笑みは、声が物語っている。縋って、ひっそりと泣いている。

 どこにいるの? そんな雑踏の中では、もう――。

「あたしは、誰でもいいの。だって最初から、裏切られたって傷つかないくらい遠くにいるから。そのとき楽しければ、ね」

 裏切られても傷つかないくらい、遠く。その響きが嫌に耳に残った。

 陽夏は、笑顔を、張り付いたその仮面を、自分で外すことさえ出来なくなっている。

「でも、それが辛いんだよね。身勝手ながら」

 裏切られたとき、平気で裏切る相手が、何よりも悲しいと思えない自分が、その最初から離れていた距離が、何よりも痛い。

 自嘲気味に、それなのに楽しげに笑う陽夏が、どうしても、可哀想だと思わずにはいられなかった。

「生きる、痛み・・・」

 私は陽夏の話を聞いて、初めはなんの呪文かと思ったそれを思わず口にしていた。

「人って、タフだよね。嫌になっちゃうくらい。痛いのに、辛いのに、その気持ちが槍みたいにあたしの心臓を突いたり、ウイルスみたいに身体をいじめたりすることだってないんだから」

 いつの間にか、私は姿勢を正したまま膝に乗せていた手でスカートをぎゅっと握りしめていた。そして、頬杖をつく陽夏の目の、その笑顔の奥に夢中になっていた。

 陽夏のそれは、腕の傷たちは、ねぇ――。

「希望、なの?」

「そうだよ、あくまで、希望なの」

 陽夏は嬉しそうに答えた。自分が希望に満ちていると、そう思っているんだと。

 絶望でいっぱいに膨らました風船を無邪気に抱えているその手に残る無数の傷跡。

 いつか、彼女の傷を癒すことができる、風船に入らない絶望の種になりたい。私はそっと望んだ。

「人間って、引いてはいけないくじを引かされた生き物なのよ。見えない刃物で刺したって傷ひとつ見つからないし、もう一人のあたしは首を締めに来るし・・・」

 精神で生きているなんて、嘘にも程がある。大げさにため息を吐いて、やれやれ、とでも言いたげに呆れた表情を見せた。そして、

「まぁ、宇宙が創造され、地球が創造された。・・・ってことは、いつか壊れて、無に返る。少なくとも、人間はその前に滅んじゃう。だからね、どんなに偉い人だって、誰の役に立っている人だって、所詮は人間とか地球の活動で、X億年には意味なんて無くなるの。あたしたちの活動は、あたしたちにしか意味がない。でもね、鈴」

 陽夏は悪戯を仕掛けた小さな子のように、はたまた、誕生日の友達にプレゼントを渡そうとする少女のように、にかっと笑って、言葉を詰まらせながら首を傾げた。

「あんたが私を裏切らないでくれたら、私は、すごく嬉しい。今、思ったの」

 陽夏。私とおんなじ腕を持つ、歪んだ明るさを持つ常夏のおひさまのような女の子。

 この時、私は陽夏が愛おしくて、可哀想で、それでもとっても放っておけない、大切な子になっていったんだ。

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あまいゆめ 剣崎一 @naaase5040

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